永平寺役寮時代
平成4年(1992)春のある朝トイレに座っていると、十和子が「電話、永平寺からだって」と受話器を持ってきた。それは永平寺の池田副監院からで、「役寮として永平寺に来てくれないか」という話だった。はじめ何のことか飲み込めなかった。役寮というのは、永平寺に常在して業務を務め、修行僧の指導にもあたるという役職で30名ほどがその任に当たっている。しかし、その任に当たるのは、永平寺で長く修行した人がほとんどで、1年間しか修行していない自分などが務めるような役ではないと思っていた。トイレの中で受けるような要件でもなかった。「よく考えて早めに返事をしてほしい」と言われ電話を切った。
「何の話?」と聞かれ、「いやいや、とんでもない電話があるもんだ。永平寺に来いという話だった」と、その時はまさか妻と1歳になったばかりの娘を含め3人の子供を置いて行けるわけがないと笑っていた。すると彼女は「ふーん、おもしろいじゃない」と簡単に言う。「え、3年間だよ」と言うと「何とかなるんじゃない」とあっけらかんとしている。それから悩んだ。「反対されて、そりゃあそうだと笑い話にすればいいと思ったのに、何とかなるという、本当に行けるんだろうか、自分などが行っていいんだろうか」という思いと反比例して、「もう一度永平寺の中に入れる」という期待の思いが膨らんできた。修行を1年で切り上げて山を下りる時、もう二度と僧堂に入ることはできないだろうという寂しさと恋しさを感じていた。怠惰な生き方を締め直すためにも、もう一度あの場所に身を置いてみたいという思いは日に日に強くなっていった。
腹を決めたころ、「あなた本当に行くの?」と聞かれたが、今更言われてももう引き返せなかった。池田好雄老師は、庄内の寺の住職で、松林寺の授戒会の際には説戒師を務めてくれた。また昭和62年(1987)から通っていた布教師養成所の直近の主任講師でもあった。そんな縁がつながって永平寺の伝道部講師を受けることになった。
平成4年(1992)9月8日に上山した。久しぶりの永平寺は緊張の連続だった。修行1年目のビクビク感がよみがえり、古参和尚が大きな声を出すと自分が怒られているのかと背中に緊張が走った。修行僧の時は周りを眺める余裕もなかったが、役寮に慣れるにしたがって顔を上げて眺めるほどに永平寺は美しいと感嘆した。水の流れる音や樹木の四季の移り変わりは、自然の姿に仏を感じさせてくれるに充分だった。ありがたい経験もたくさんさせていただいた。朝課の導師や夜の点検などは役寮ならではの役目であり、毎晩の法話や坐禅指導も及ばずながら務めさせていただいた。何よりも、道元禅師のお傍に生きることができるという喜びはこの上ないものだった。
上山して3年目の平成7年(1995)1月17日、朝の坐禅の時、僧堂全体がグラグラと揺れた。阪神淡路大震災の発災だった。テレビのない永平寺でも、とてつもない大きな地震であることが新聞等で分かった。神戸には永平寺修行中同寮の和雄さんがいる、大丈夫だろうかと心配になったがなかなか情報は伝わってこない。新聞の死亡者欄を隈なく見てもそれらしい名前がないので安堵していた。ところが同じ兵庫県の修行仲間から「どうもお子さん二人を亡くされたらしい」という情報が入った。それから心がざわついて落ち着いていられなくなった。永平寺だからといってただ坐っていていいのだろうか。難民キャンプに身を置いた経験が、「傍に行って寄り添いたい」という行動を駆り立てたのだと思う。
「現地に行かせてほしい」と監院老師にお願いするも色よい返事はもらえなかった。ならば、永平寺を辞めても行くと腹を決めた時許可が下りた。
震災から5日後の22日、修行僧二人と3人で神戸を目指した。まずは和雄さんの寺に行き亡くなったお子さん二人に手を合わせた。続いて、避難所に行き「安置されている遺体に手を合わさせてほしい」とお願いすると、グランドで焚火を囲んでいた一人が寄ってきて「宗教関係者が避難所をウロウロするのを目障りだと思う人がいるから止めた方がいい」と耳打ちされた。被災地で宗教者は何の役にも立たないどころか目障りな存在なのか、宗教者はこれまで一体何をしてきたのか、何をしてこなかったのか。情けなさと腹立たしさで悲しくなった。
仕方がないので瓦礫の片付けをしていると、ラジオから火葬場で読経のボランティアを求めているという情報が流れた。「葬儀もせずに遺体を荼毘に付す遺族の心情を思うといたたまれない。ボランティアで読経だけでもしていただけるお坊さんがいたらお願いしたい」という火葬場職員の悲痛な叫びだった。永平寺から「すぐに火葬場に行け」と連絡が入り、真っ先に駆け付けた永平寺組と高野山組が一緒になって読経した。その後何班かに分かれて修行僧がボランティアとして現場に派遣された。總持寺からも派遣された。これが修行道場から災害支援にボランティアを派遣した最初のケースとなった。また、日本国内の災害にお坊さんが関わっていくきっかけとなったかもしれない。
永平寺勤務中、月に2度は宿用院に帰って来ていたが、3人の子どもを抱えて3年間、十和子はよく寺の留守を守りやりくりしてくれたと思う。
平成7年(1995)10月31日、3年間の勤めを終えて永平寺から帰ってくると、布教師養成所でお世話になった主任講師の辻淳彦老師から電話があった。「永平寺から帰るのを待っていたので特派布教師を務めてくれ」とのこと。畏れ多いことではあるが、せっかく推薦いただいたので受けさせていただき、平成8年(1996)4月から特派布教師を務めることとなった。
平成4年(1992)春のある朝トイレに座っていると、十和子が「電話、永平寺からだって」と受話器を持ってきた。それは永平寺の池田副監院からで、「役寮として永平寺に来てくれないか」という話だった。はじめ何のことか飲み込めなかった。役寮というのは、永平寺に常在して業務を務め、修行僧の指導にもあたるという役職で30名ほどがその任に当たっている。しかし、その任に当たるのは、永平寺で長く修行した人がほとんどで、1年間しか修行していない自分などが務めるような役ではないと思っていた。トイレの中で受けるような要件でもなかった。「よく考えて早めに返事をしてほしい」と言われ電話を切った。
「何の話?」と聞かれ、「いやいや、とんでもない電話があるもんだ。永平寺に来いという話だった」と、その時はまさか妻と1歳になったばかりの娘を含め3人の子供を置いて行けるわけがないと笑っていた。すると彼女は「ふーん、おもしろいじゃない」と簡単に言う。「え、3年間だよ」と言うと「何とかなるんじゃない」とあっけらかんとしている。それから悩んだ。「反対されて、そりゃあそうだと笑い話にすればいいと思ったのに、何とかなるという、本当に行けるんだろうか、自分などが行っていいんだろうか」という思いと反比例して、「もう一度永平寺の中に入れる」という期待の思いが膨らんできた。修行を1年で切り上げて山を下りる時、もう二度と僧堂に入ることはできないだろうという寂しさと恋しさを感じていた。怠惰な生き方を締め直すためにも、もう一度あの場所に身を置いてみたいという思いは日に日に強くなっていった。
腹を決めたころ、「あなた本当に行くの?」と聞かれたが、今更言われてももう引き返せなかった。池田好雄老師は、庄内の寺の住職で、松林寺の授戒会の際には説戒師を務めてくれた。また昭和62年(1987)から通っていた布教師養成所の直近の主任講師でもあった。そんな縁がつながって永平寺の伝道部講師を受けることになった。
平成4年(1992)9月8日に上山した。久しぶりの永平寺は緊張の連続だった。修行1年目のビクビク感がよみがえり、古参和尚が大きな声を出すと自分が怒られているのかと背中に緊張が走った。修行僧の時は周りを眺める余裕もなかったが、役寮に慣れるにしたがって顔を上げて眺めるほどに永平寺は美しいと感嘆した。水の流れる音や樹木の四季の移り変わりは、自然の姿に仏を感じさせてくれるに充分だった。ありがたい経験もたくさんさせていただいた。朝課の導師や夜の点検などは役寮ならではの役目であり、毎晩の法話や坐禅指導も及ばずながら務めさせていただいた。何よりも、道元禅師のお傍に生きることができるという喜びはこの上ないものだった。
上山して3年目の平成7年(1995)1月17日、朝の坐禅の時、僧堂全体がグラグラと揺れた。阪神淡路大震災の発災だった。テレビのない永平寺でも、とてつもない大きな地震であることが新聞等で分かった。神戸には永平寺修行中同寮の和雄さんがいる、大丈夫だろうかと心配になったがなかなか情報は伝わってこない。新聞の死亡者欄を隈なく見てもそれらしい名前がないので安堵していた。ところが同じ兵庫県の修行仲間から「どうもお子さん二人を亡くされたらしい」という情報が入った。それから心がざわついて落ち着いていられなくなった。永平寺だからといってただ坐っていていいのだろうか。難民キャンプに身を置いた経験が、「傍に行って寄り添いたい」という行動を駆り立てたのだと思う。
「現地に行かせてほしい」と監院老師にお願いするも色よい返事はもらえなかった。ならば、永平寺を辞めても行くと腹を決めた時許可が下りた。
震災から5日後の22日、修行僧二人と3人で神戸を目指した。まずは和雄さんの寺に行き亡くなったお子さん二人に手を合わせた。続いて、避難所に行き「安置されている遺体に手を合わさせてほしい」とお願いすると、グランドで焚火を囲んでいた一人が寄ってきて「宗教関係者が避難所をウロウロするのを目障りだと思う人がいるから止めた方がいい」と耳打ちされた。被災地で宗教者は何の役にも立たないどころか目障りな存在なのか、宗教者はこれまで一体何をしてきたのか、何をしてこなかったのか。情けなさと腹立たしさで悲しくなった。
仕方がないので瓦礫の片付けをしていると、ラジオから火葬場で読経のボランティアを求めているという情報が流れた。「葬儀もせずに遺体を荼毘に付す遺族の心情を思うといたたまれない。ボランティアで読経だけでもしていただけるお坊さんがいたらお願いしたい」という火葬場職員の悲痛な叫びだった。永平寺から「すぐに火葬場に行け」と連絡が入り、真っ先に駆け付けた永平寺組と高野山組が一緒になって読経した。その後何班かに分かれて修行僧がボランティアとして現場に派遣された。總持寺からも派遣された。これが修行道場から災害支援にボランティアを派遣した最初のケースとなった。また、日本国内の災害にお坊さんが関わっていくきっかけとなったかもしれない。
永平寺勤務中、月に2度は宿用院に帰って来ていたが、3人の子どもを抱えて3年間、十和子はよく寺の留守を守りやりくりしてくれたと思う。
平成7年(1995)10月31日、3年間の勤めを終えて永平寺から帰ってくると、布教師養成所でお世話になった主任講師の辻淳彦老師から電話があった。「永平寺から帰るのを待っていたので特派布教師を務めてくれ」とのこと。畏れ多いことではあるが、せっかく推薦いただいたので受けさせていただき、平成8年(1996)4月から特派布教師を務めることとなった。