三ちゃんのサンデーサンライズ。第457回。令和6年2月25日、日曜日。
信じられない。
何を信じていいのか分からなくなってきた社会です。
ネットから流れてくる情報は、果たしてそれが真実なのかフェイクなのか見分けられないと大変なことになる状況です。
メールで、重要なアプリの「更新が必要」などという情報を信じて誘導のままに進んでクレジットカード情報まで送信させられ、直後から「おかしい」と感じすぐにカードを止めてもらった経験以来、疑うセンサーが働くようになりました。
疑う目が肥えてきたというのか、しかしそれはいいことなのか。
特殊詐欺に騙される人が未だになくならないのは信じやすいからで、それはこの国の人々の良い所だとも言えるはず。
「信じる者は救われる」と思っていたのが「信じる者は騙される」となってしまっては、この社会は安心して生きられないことになってしまいます。
本来宗教は信じることから始まるわけで、信じるからこそ身心をそれに預けて、疑いのない安心の中で生きられるものです。
その宗教から騙されるというのであれば、何を信じていいのか、ということになるでしょう。
人を騙すようなものは元々宗教ではなかったのでしょうが、宗教の仮面をかぶっていたので、宗教だと思って信じてしまったわけです。
政治家にしたって、その人を信じて一票を投じたわけで、その政治家が信じられないことをしたのでは、政治そのもの、選挙そのものを信じられなくなるのは当然のことです。
「記憶にない」などとバカなふりをしたり、都合が悪くなると黙ってしまって世間が忘れるのをじっと待つような態度では何をかいわんやです。
信じることと疑うことの割合が変わって来てしまったでしょうか。
大昔から嘘はあったはずで、全てを信じることは危険だったでしょう。
ただ、信じられる社会の中にポツンと嘘が混じれば、それは罪ともなったでしょうが、信じられるものと嘘が半々というようなことになれば、信じた方が悪いなどと言われてしまうことになるのでしょう。
それは安心して生きられる社会なのか。
親による子どもの虐待が増えています。
信じるといえば、親に身をゆだねる子どもほど純粋にすべてを信じているものはないでしょう。
信じ切って全てを預けているからこそ安心して眠れるはずです。
その親から虐待を受けるなど、命のありようとして想定されていないのではないですか。
そんなのは特例だというかもしれませんが、増えているということであれば、それは特例ではなく社会的な問題があるのだということです。
チラッと調べてみると、この国の親による子どもの虐待は32年連続で増加しているとのこと、子どもが減少しているのに。特殊な親の特別な例ではないと受け止めるべきですね。
この傾向は「信じられない社会」の膨張と無関係とは思えません。
人を信じることのできない親の心が子どもに影響していることはないでしょうか。
親に虐待されて育った子どもが親になって同じようなことをする傾向があると耳にします。
悲しい連鎖ですが、それはどこかで止めていかなければなりません。
親以外にも信じられる人の存在があればと思います。
それでも子どもは親が好きなのですよね。
他からみればとんでもないと思える親でも、子どもにとって最も愛する存在は親です。
親は誰かと比べることができない絶対的な存在です。
叱られれば「ごめんなさい」と謝るでしょう。自分が悪かったのだと自分を責めるでしょう。そしてすがってくるでしょう。
すがる子どもを抱きしめてあげられない時、子どもは壊れていくのではないですか。
母親に抱かれて安心して眠れるような、そのような信じられる社会でありたいと思います。
信じられないことが増えつつある社会の中で、それでも信じることを止めない。
信じられる人、信じる確固たるものを持っていく。
信じられる社会の方が安心できるのだと信じていく。
多少騙されても、それは真偽を見極める目を育てる勉強だと受け止めて信じたことを後悔しない。
騙すより騙される人間でありたい、その方が楽に暮らせると信じる。
「騙されるのはバカだからだ」と笑われても、そちら側には行かない。
バカでけっこう。バカであっても、人を信じる人の目の方がきれいだと思う。
人を騙すよりも、きれいな目のままでこの世を終わりたい。
そういう人が多くなる社会の実現を信じて生きたい。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
信じられない。
何を信じていいのか分からなくなってきた社会です。
ネットから流れてくる情報は、果たしてそれが真実なのかフェイクなのか見分けられないと大変なことになる状況です。
メールで、重要なアプリの「更新が必要」などという情報を信じて誘導のままに進んでクレジットカード情報まで送信させられ、直後から「おかしい」と感じすぐにカードを止めてもらった経験以来、疑うセンサーが働くようになりました。
疑う目が肥えてきたというのか、しかしそれはいいことなのか。
特殊詐欺に騙される人が未だになくならないのは信じやすいからで、それはこの国の人々の良い所だとも言えるはず。
「信じる者は救われる」と思っていたのが「信じる者は騙される」となってしまっては、この社会は安心して生きられないことになってしまいます。
本来宗教は信じることから始まるわけで、信じるからこそ身心をそれに預けて、疑いのない安心の中で生きられるものです。
その宗教から騙されるというのであれば、何を信じていいのか、ということになるでしょう。
人を騙すようなものは元々宗教ではなかったのでしょうが、宗教の仮面をかぶっていたので、宗教だと思って信じてしまったわけです。
政治家にしたって、その人を信じて一票を投じたわけで、その政治家が信じられないことをしたのでは、政治そのもの、選挙そのものを信じられなくなるのは当然のことです。
「記憶にない」などとバカなふりをしたり、都合が悪くなると黙ってしまって世間が忘れるのをじっと待つような態度では何をかいわんやです。
信じることと疑うことの割合が変わって来てしまったでしょうか。
大昔から嘘はあったはずで、全てを信じることは危険だったでしょう。
ただ、信じられる社会の中にポツンと嘘が混じれば、それは罪ともなったでしょうが、信じられるものと嘘が半々というようなことになれば、信じた方が悪いなどと言われてしまうことになるのでしょう。
それは安心して生きられる社会なのか。
親による子どもの虐待が増えています。
信じるといえば、親に身をゆだねる子どもほど純粋にすべてを信じているものはないでしょう。
信じ切って全てを預けているからこそ安心して眠れるはずです。
その親から虐待を受けるなど、命のありようとして想定されていないのではないですか。
そんなのは特例だというかもしれませんが、増えているということであれば、それは特例ではなく社会的な問題があるのだということです。
チラッと調べてみると、この国の親による子どもの虐待は32年連続で増加しているとのこと、子どもが減少しているのに。特殊な親の特別な例ではないと受け止めるべきですね。
この傾向は「信じられない社会」の膨張と無関係とは思えません。
人を信じることのできない親の心が子どもに影響していることはないでしょうか。
親に虐待されて育った子どもが親になって同じようなことをする傾向があると耳にします。
悲しい連鎖ですが、それはどこかで止めていかなければなりません。
親以外にも信じられる人の存在があればと思います。
それでも子どもは親が好きなのですよね。
他からみればとんでもないと思える親でも、子どもにとって最も愛する存在は親です。
親は誰かと比べることができない絶対的な存在です。
叱られれば「ごめんなさい」と謝るでしょう。自分が悪かったのだと自分を責めるでしょう。そしてすがってくるでしょう。
すがる子どもを抱きしめてあげられない時、子どもは壊れていくのではないですか。
母親に抱かれて安心して眠れるような、そのような信じられる社会でありたいと思います。
信じられないことが増えつつある社会の中で、それでも信じることを止めない。
信じられる人、信じる確固たるものを持っていく。
信じられる社会の方が安心できるのだと信じていく。
多少騙されても、それは真偽を見極める目を育てる勉強だと受け止めて信じたことを後悔しない。
騙すより騙される人間でありたい、その方が楽に暮らせると信じる。
「騙されるのはバカだからだ」と笑われても、そちら側には行かない。
バカでけっこう。バカであっても、人を信じる人の目の方がきれいだと思う。
人を騙すよりも、きれいな目のままでこの世を終わりたい。
そういう人が多くなる社会の実現を信じて生きたい。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
私は、自分の方法として、こういう場合は「反対概念」について考えます。
信じるの反対概念はなにか?
「疑う」は、反対概念ではなくて「反対語」です。「信じない」も同様です。
「調べる」は、反対概念のように思います。
この私の方法と意見、どのように評価しますか?
ただねぇ、「反対概念」がわかったとして、それで今の・現状の(上記で述べられた)社会が、一気に完全するはずもないし・・・。
※ 春彼岸の案内状に頭を悩ましています。今回の記事は、参考になりました。
「断絶」「拒絶」は反対概念になりますか。
すごく重大なヒントだと感じ入りました。
そういう意味においては「信じる」ということはこれから先も続くであろう時間に対して、一切の複雑性や不確定要素を極端に縮少、もしくは無いことにしてしまって、わざわざ信じるなどと言う必要すらなかったことの様にも思えます。
今に至って「信じる」とはどういう事か?
様々な問題や課題を抱えた現在の日本社会を見れば、本来の目的の多次元性に一切の注意を払わず単純に一元化して「考えずに済ます」という意味なのではないでしょうか。