三ちゃんのサンデーサンライズ。第457回。令和6年3月3日、日曜日。
3月に入りました。
3月3日は耳の日、ではなくて、サンデーサンライズの日にしましょう。このブログ以前は「サンサンラジオ」と名乗っていましたし。
かといって、何もプレゼントするものはありません。
勝手に独り「うんうん」と頷くだけです。
ここにきて昨日は雪がどっさり降りました。
心配された赤倉温泉スキー場の国スポ(国体)も、前日に奇跡的な恵みの雪が降り、何とか無事に開催されたようで、「うれしかっただろうな」と関係者のことを思い胸を撫で下ろしました。
それも終わったので、もう雪を乞う必要もないのですが、今さらという感じです。
これまで本当に楽な冬を過ごしました。
最後に少し冬らしい気分を味わいながら除雪をしたいと思います。
季節はどんどん過ぎています。
同時に我々の残り時間もどんどん少なくなっています。
季節の移り変わりを感じながら、自分の命も減っていることを感じていかなければなりません。
今日一日限りの命と思って今日を生きなさい。
それなら今日学んだって意味がないではないか。いや、命が永遠に続くかのように今日学びなさい。
という意味ですね。
明日命があるかどうかはどうでもいいのです。
今日は今日の一日を生きるだけ、今日の学びをするだけです。
日野原重明先生が100歳以後の予定もかまわずに入れていたというのも同じことでしょう。
そこまで生きているかどうかなど関係ない。
その予定で今日を生きるというだけのことに過ぎない。
結果ではなく経過。経過がすなわち結果です。
春が来たから花が咲くのではなく、花が咲くことをもって春だと言っているに過ぎません。
花は経過、春は結果。花だけ見ればいいことです。
花は因縁時節を待って咲きます。
蕾も因縁時節、散るのも因縁時節、実がなるのも因縁時節。
咲くのも散るのもその時のありのままの姿であり、善でも悪でもなく、一喜一憂することでもない。
蕾は蕾の全体、花は花の全体、散るは散るの全体。
その時々で完結していると見るのです。
それを「前後裁断」と言います。
今日が明日になると見るのではないのです。
今日は今日の一日、明日は明日の一日で「裁断」です。
100年後の予定を入れてそれに向けて計画準備して、その準備で完結しているのです。
歳だからそんなことはできないと言うのは間違いで、できるかどうかは年齢には関係ありません。
老いるのは年齢によりますが、できないのは年齢によってではありません。
何をもって老いというのかも考えてみれば不明です。
若いころにできたことができなくなったのを老いと言うなら、それは人によってその年齢も様々ですし、身体的な変化と言うなら生まれた時から身体は変化し続けているので、どこからが老いとは言えません。
結局それは自覚でしかない。客観的でも、他人から言われるべきものでもない。
だとすれば、できることをしようというのは老いではない。学ぼうとするのは老いではない。
何故なら、学ぼうとするのは成長の種だから。
ということは、学ぼうとしている間は老いではないということになるでしょうか。
最期まで、学ぼうとする意欲は失いたくないと思います。
学ぶべきこと、学ぶべき人は周囲にたくさんあります。
自分が謙虚でありさえすれば全てが学びです。
謙虚とは空っぽだということです。
容器が一杯であれば新しいものが入って行きません。
空っぽであれば何でも入って行きます。
謙虚になるためには、今入っているものをどれだけ捨てられるかということでもあります。
捨てて捨てて、捨て果ててこそ、いつまでも学べる若さを手にすることができるというものです。
少年のようなキラキラした目は、学びたいという好奇心から現れるものなのでしょう。
アンチエイジングと言うならば、それは、表皮一枚のことでも機能的なことでもなく、捨て果てることですね。
その頭にはどうせたいしたものは詰まっていないのですから、いっぺん空っぽにしてみたらどうですか。
キラキラした目が戻ってくるかもしれませんよ。
もっとも、やがて自然に空っぽになるのでしょうが。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
3月に入りました。
3月3日は耳の日、ではなくて、サンデーサンライズの日にしましょう。このブログ以前は「サンサンラジオ」と名乗っていましたし。
かといって、何もプレゼントするものはありません。
勝手に独り「うんうん」と頷くだけです。
ここにきて昨日は雪がどっさり降りました。
心配された赤倉温泉スキー場の国スポ(国体)も、前日に奇跡的な恵みの雪が降り、何とか無事に開催されたようで、「うれしかっただろうな」と関係者のことを思い胸を撫で下ろしました。
それも終わったので、もう雪を乞う必要もないのですが、今さらという感じです。
これまで本当に楽な冬を過ごしました。
最後に少し冬らしい気分を味わいながら除雪をしたいと思います。
季節はどんどん過ぎています。
同時に我々の残り時間もどんどん少なくなっています。
季節の移り変わりを感じながら、自分の命も減っていることを感じていかなければなりません。
明日死ぬかのように生きよ。
永遠に生きるかのように学べ。(マハトマ・ガンジー)
永遠に生きるかのように学べ。(マハトマ・ガンジー)
今日一日限りの命と思って今日を生きなさい。
それなら今日学んだって意味がないではないか。いや、命が永遠に続くかのように今日学びなさい。
という意味ですね。
明日命があるかどうかはどうでもいいのです。
今日は今日の一日を生きるだけ、今日の学びをするだけです。
日野原重明先生が100歳以後の予定もかまわずに入れていたというのも同じことでしょう。
そこまで生きているかどうかなど関係ない。
その予定で今日を生きるというだけのことに過ぎない。
結果ではなく経過。経過がすなわち結果です。
春が来たから花が咲くのではなく、花が咲くことをもって春だと言っているに過ぎません。
花は経過、春は結果。花だけ見ればいいことです。
花は因縁時節を待って咲きます。
蕾も因縁時節、散るのも因縁時節、実がなるのも因縁時節。
咲くのも散るのもその時のありのままの姿であり、善でも悪でもなく、一喜一憂することでもない。
蕾は蕾の全体、花は花の全体、散るは散るの全体。
その時々で完結していると見るのです。
それを「前後裁断」と言います。
今日が明日になると見るのではないのです。
今日は今日の一日、明日は明日の一日で「裁断」です。
100年後の予定を入れてそれに向けて計画準備して、その準備で完結しているのです。
歳だからそんなことはできないと言うのは間違いで、できるかどうかは年齢には関係ありません。
老いるのは年齢によりますが、できないのは年齢によってではありません。
何をもって老いというのかも考えてみれば不明です。
若いころにできたことができなくなったのを老いと言うなら、それは人によってその年齢も様々ですし、身体的な変化と言うなら生まれた時から身体は変化し続けているので、どこからが老いとは言えません。
結局それは自覚でしかない。客観的でも、他人から言われるべきものでもない。
だとすれば、できることをしようというのは老いではない。学ぼうとするのは老いではない。
何故なら、学ぼうとするのは成長の種だから。
ということは、学ぼうとしている間は老いではないということになるでしょうか。
最期まで、学ぼうとする意欲は失いたくないと思います。
学ぶべきこと、学ぶべき人は周囲にたくさんあります。
自分が謙虚でありさえすれば全てが学びです。
謙虚とは空っぽだということです。
容器が一杯であれば新しいものが入って行きません。
空っぽであれば何でも入って行きます。
謙虚になるためには、今入っているものをどれだけ捨てられるかということでもあります。
捨てて捨てて、捨て果ててこそ、いつまでも学べる若さを手にすることができるというものです。
少年のようなキラキラした目は、学びたいという好奇心から現れるものなのでしょう。
アンチエイジングと言うならば、それは、表皮一枚のことでも機能的なことでもなく、捨て果てることですね。
その頭にはどうせたいしたものは詰まっていないのですから、いっぺん空っぽにしてみたらどうですか。
キラキラした目が戻ってくるかもしれませんよ。
もっとも、やがて自然に空っぽになるのでしょうが。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
当地は、雪こそ降らねど例年以上に冷気・寒気が居座る冬です。春彼岸間近といえども寒い、冷たい、冷えを感じる。
ところで、ガンジーの言葉以降の文章。
私も、こういう観点の文章を書きたい。