長谷川 (リン)二郎(はせがわりんじろう1904~1988)展を平塚市美術館で見る。この方は洲之内徹の「気まぐれ美術館」で知った。それもひげが描かれていない猫の絵のエピソードで。とても有名な話らしいが、展覧会などで実際に絵を見たことはなかった。今回は回顧展ともいうべき展覧会だ。
気に入ったものをまずあげてみよう。
ごく初期の取り合わせがシュールな「窓とかまきり」(1930)。パリ留学で描いた「巴里郊外」(1931)の道路の曲線と独特の土の色とその存在感。洲之内徹が古道具屋で額縁の値同様で手に入れたという「薔薇」(1938)の花弁の美しさと、半世紀後の「薔薇」(1985)のガラスの瓶の美しさ。1960年代後半以降特にその肌合いの美しさを示す陶器やガラスを描いた静物画。むろん洲之内徹が「幸福の絵」の6枚の内の1枚にあげた「猫」(1966)もあげよう。その他「柚子の木」「枝」「春」など。
そしてもう2点、「冬の太陽」(1980)と「風景」(1981)が私の目をひいた。没年を知らなかったので「ひょっとして遺作か」と思ったが違った。
最初「遺作か」と思ったとき、坂本繁二郎の最晩年の「八女の月」や山口薫のやはり最晩年の「若い月の踊り」、香月泰男の「太陽B」を思い出した。単に縦長の画面に月・太陽が上方に見えるだけが共通点でしかないし、画風も描いた画家の思いもまったく異なるはずだが、晩年の作ということでは、どこかに共通点があるかもしれない、などと‥牽強付会とは思いつつ。
しかし一木の枯れ枝と、月と見まがうほどの寒々とした傘を被った太陽のなんとさびしく、しずかなことか。太陽であることを放棄した太陽に見える。
風景自身がその存在を忘れてしまったような枝の重なりだけの「風景」。 この2枚、背景の空の色とその塗り方がいい。この二枚は他の絵と隔絶しているように思えた。
絵の特徴は見てすぐわかるが、しかし描き方は題材・時節によってかなり違う。その微妙な差がまた面白い。
洲之内徹によって語られたものと、画家自身の言葉との絡み合いが、また飽きさせない。
カタログは販売していなかったが求龍堂の画文集は、洲之内徹の著作とともに手放せないものになった。
「実物によって生まれる内部の感動を描くのが目的ですから、実物を描いている、とはいえません。しかし、それは実物なしでは生まれない世界です。」(長谷川 (リン)二郎)