60歳も近くなると同年代の友人の死に幾度も出会う。本日、中学校・高等学校と同窓だった友人K君が亡くなった。6年間で同級だったことは2度だけだったと思うが、同じ柔道部に属したことが三年ほどある。顧問の先生とは、共にうまくいかなかったが、そこがウマが合ったのかもしれない。
K君は文系、私は理系のクラスであったが、結構話が合ったように記憶している。大学にすんなりはいったものの、K君は国立市内、私は仙台の大学でどういうわけかそれぞれ5年かかって卒業。4月1日の就職日に同じ会場にいてビックリ、旧交をあたためた。
大学の5年間の経験は実に似たような経験でもあり、それ以来部署はちがってもずいぶんと経験交流をおこなった。
一昨年癌を発症し、今年の2月の研修で同席し、杖をついて弱々しく歩く姿を見たのが最後であった。年度末・年度始めのあわただしい日々に追われてつい、会う約束を果たせないままに本日訃報を聞く羽目となってしまった。痛恨の極みである。
障害をもつお子さんを持ち、「これからは家族のために生きるんだ」「胸を張ってこれまでと違う生き方をしなくては、子供につたわらないぞ」という、最後に交わした会話が今も心に残る。
働く、労働をする、ということについては極めて倫理的であり、自分にも他人にも誠実そのものであった。そのことが発症以来の休職期間中も「働いている仲間に申し訳ない」との言葉のを繰り返しに現れていた。
58歳、もっと若くして死を迎えざるを得なかった人も当然大勢いるが、しかし私からみて若すぎる死である。他人や、家族に誠実であり、自分の人生にも極めて誠実であることがこんなに本人にも周囲にもつらい事態を招くというのは、悲しいことである。
これ以上は詳細には今はまだ記載できないが、私のブログも名前が出すようになる時点でまた詳しく追悼の文章を掲載したい。
本日は予定を変更して、追悼の日として私の記憶にキチンととどめておき冥福を祈る日としたい。合掌。
K君は文系、私は理系のクラスであったが、結構話が合ったように記憶している。大学にすんなりはいったものの、K君は国立市内、私は仙台の大学でどういうわけかそれぞれ5年かかって卒業。4月1日の就職日に同じ会場にいてビックリ、旧交をあたためた。
大学の5年間の経験は実に似たような経験でもあり、それ以来部署はちがってもずいぶんと経験交流をおこなった。
一昨年癌を発症し、今年の2月の研修で同席し、杖をついて弱々しく歩く姿を見たのが最後であった。年度末・年度始めのあわただしい日々に追われてつい、会う約束を果たせないままに本日訃報を聞く羽目となってしまった。痛恨の極みである。
障害をもつお子さんを持ち、「これからは家族のために生きるんだ」「胸を張ってこれまでと違う生き方をしなくては、子供につたわらないぞ」という、最後に交わした会話が今も心に残る。
働く、労働をする、ということについては極めて倫理的であり、自分にも他人にも誠実そのものであった。そのことが発症以来の休職期間中も「働いている仲間に申し訳ない」との言葉のを繰り返しに現れていた。
58歳、もっと若くして死を迎えざるを得なかった人も当然大勢いるが、しかし私からみて若すぎる死である。他人や、家族に誠実であり、自分の人生にも極めて誠実であることがこんなに本人にも周囲にもつらい事態を招くというのは、悲しいことである。
これ以上は詳細には今はまだ記載できないが、私のブログも名前が出すようになる時点でまた詳しく追悼の文章を掲載したい。
本日は予定を変更して、追悼の日として私の記憶にキチンととどめておき冥福を祈る日としたい。合掌。