Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

ジョルジュ・ルオーの絵

2010年05月04日 21時52分46秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 ジョルジュ・ルオーの絵というのは、私にとっては不思議な絵だ。子供の頃のステンドグラス職人としての経験によるのではないか、といわれるあの黒い縁取り、そして鮮明でない人物像が背景との区別がつけにくいくらいに塗り込められている。
 暖色が主として使われているのに暗く沈んだ画面。うつむいたり、眼を閉じたりした顔の表情は読み取りにくい。
 展覧会でもいつも通り過ぎるのに、しかし不思議と私の脳裏にこびりついていることが多い。本屋で様々な画集をみていても、画集を閉じたとき絵がやはり記憶に残っていて、本屋の帰りの電車の中でボーっとしているときにふと頭に浮かび上がってくる。
 かといって自分から求めて画集をかったり、あえて美術館に見に行こうという風にはならなかった。たとえば、カミーユ・ピサロやゴッホやクールベ、ジョアン・ミロ、パウル・クレー、ヴラマンク、坂本繁二郎、香月泰男などのように美術館で眼にすると「お久しぶり」などとその前でほっとたたずむというようなこともない。
 通り過ぎてから、何となく気になって出口から引き返してその絵の前に立っても、またすぐに出口に向かってしまう。私にとっては不思議な惹かれ方をする画家だ。
 今年、三つの美術館を回ってどうして惹かれるのか、また後になって気になるのか、探ってみようと思った。といっても私に美術理論があるわけではなく、あくまでも私の印象のつたない分析、自分の感覚だけの予断と偏見でしかなにい。

 まずキリストを、画家にとっての現在という時代を描いた画面に登場させている点が、他のキリスト教絵画と違うと思う。キリストという救いの象徴が、しかもそれは静的で受身で決して能動的ではない状況で現れている。聖書の場面の舞台が現代という言い方より、現代という時代に聖書の登場人物を、時代にあわせるように蘇らせている。
 さらにルオーは社会の底辺で生きる人々へのまなざしを終生持っていたといわれているが、社会の矛盾を声高に告発するわけでも、プロパガンダとしての絵画を描いたわけではけっしてない。パリコミューンの年に生まれ、植民地搾取が繁栄の前提であったり、第一次世界大戦から第二次世界大戦という戦争時代にあって、政治の波に飲み込まれること無く、しかし社会の底辺へのまなざしを忘れていないことへは共感する。そして政治家や「みずから救い主」にならんとする人をすべて否定するつもりは毛頭ないが、「神のいない」時代にあって、みずから神になろうとはしなかった精神には敬意を表したい、との思いが今の私がたっている場所だ。ルオー自身が時代の中に告発者となってしゃしゃり出るということはしていないようだ。
 そう、このうつむき加減のまなざしと、救いを求める静謐な画面、そして底辺の人を見つめる画家の凝視ともいえる視線、これが私をひきつける何かのような気がしてきた。わかりにくい人物の表情もこのように考えると少しずつその表情が浮かび上がってくる。
 もうひとつ、赤などの暖色系等の色が画面を暖かくしていない不思議な配色。緑や青、時として黄色が混ざっているようで混ざらずに見えるが、これが画面に明るさではなく、安定感をもたらしているように見える。私は「ルオーの緑」あるいは「ルオーの青」と勝手に言って見たい気がする。
 この色が効果的にある絵は、ひょっとしたらルオー自身が、精神的にも安定した時期の絵だと思っている。それらの絵は静謐でかつ安定感がある。あるいは希望があると表現できるかもしれない。
 赤があっても「緑」ないし「青」が効果的に、ほんの少しの割合でも現れない絵は、暗く沈んで救いのない状況を示している。この独特の不思議な色調が、ルオーの絵の大きな魅力のひとつなのだろう。
 私は、ルオーはキリストを正面から大きく肖像画や自画像のようには描かなかったと思う。ピエロの絵をよく描いたが、このピエロと題した絵がキリストの肖像画なのではないかと類推している。ピエロの苦悩と少しある希望、これをルオー独特の色彩によって類推することができるのではないか。
 ルオーが「追憶」や「ユビュおやじの再生」「ミセレーレ」などの連作、詩や物語の挿絵に大きなエネルギーを注いだのは、この独特の色調による画面の微妙なニュアンスの差にルオー自身が自覚的にのめりこんだ証左であると思う。そういった意味で、ルオーの連作は細切れに展示されることが日本では多いが、物語や詩全体の翻訳と一体となった絵や版画の展示が行われなければ、ルオーの理解は断片的になってしまう。
 今回の「ユビュ」の企画も、カタログを購入してもこの物語の要約すら示されていない、はなはだ不満の残る企画である。




 最初の絵は、後ろに赤い背景がある。カーテンか何かのようだが、画面を明るくしたり、温かみを添えることはない。服装に散らばる青も、背景の黒い青と呼応しており私のいう「青」ではない。節目がちの目が救いからは拒絶された絶望に近い諦念を感ずる。
 二番目の絵は、3つのピエロの絵の中ではもっとも明るく、絵自体に温かみがある。服装の「緑」が閉じ気味の眼にかかわらず、明るい表情を醸し出している。マントらしき物の赤はその明るさのイメージになんらの寄与もしていない。
 三番目の絵も瞑想にふけるようなピエロ=キリストだ。絶望と悲しさをかみ締めているような表情である。首と顔の一部の赤によってこの雰囲気が一掃際立っている。赤がここでも絶望と悲しみに人を引きずりこむ役を担っている。救いの象徴のような「緑」はまったく無い。
 この一般的な色彩感覚との乖離、これがルオーの大きな特徴、特質のような気がする。赤は黒ずんで見るものの意識もとことん下降気味にする。一般的な意味合いでの救いが決して浮上しないような場面・状況を想像させる。画家にとっても出口のない想念に取り付かれているようだ。
 そして緑や青が目立たないように配色されていても、調和と希望が画面に出てくる。どちらかがいいといっているのではない。どちらも私の気持ちを惹くことは確かだから。
 内省的で静的で、諦念が横溢しているような画面の中に、社会の底辺であえぐ人間を凝視しつづけた画家のような気がする。はじめにも書いたとおり、これはあくまでも私の印象だけを基にした、頓珍漢は承知の上の観想である。