Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

再び雨が強まる

2021年11月21日 22時44分14秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 20時過ぎから再びベランダの雨水排水管から雨水が流れ落ちる音が始まった。気象庁のレーダー画像を見ると5mmを超える雨が降っているようだ。これから20mmくらいの雨の区域が通過するような予想にもなっている。
 明日もこの程度の雨が続く可能性がある。出かけたいのだが、また明日になってから判断するしかなさそうである。

 本日は退職者会ニュースの新年号の原稿に掲載する資料を作成した。共済の宣伝だが、画像編集ソフトで見やすく改変。最近のパンフレットはほとんどカラーなので、モノクロにしたときにコントラストなどを強くしたりしないと見にくい。工夫が必要になってくる。字の大きさなども改善が必要である。面倒な世の中になったものである。
 デザインの担当のセンスとはどうも相いれない場合が多い。センスが合わないというよりも発注者側のチェックが甘すぎると私には思われる。駅などに掲示されている公共広告物の質の低下も最近気になる。
 まだ本格的な原稿づくりの作業に入っていないので、ゆとりのある作業が出来た。

 本日の作業はこれにて終了。


疲れた時に読む本

2021年11月21日 21時24分29秒 | 読書

 16時の少し前くらいから雨が降り出した。いっときは5ミリ程度の雨であったが、今は1ミリ程度の弱い雨で、雨水管から雨水が流れる音はしていない。
 明日も終日降るらしいが、どれほど強い雨の区域が通過するのだろうか。
 出来れば明日も整形外科に赴きたいし、できれば理髪店に行きたい。10月4日に理髪店で1mmと6mmのバリカンで短く刈ってもらった。もう7週間も経っている。側頭部がだいぶ伸びてきているので、耳に毛が当たり煩わしい。10分で税込み1100円という理髪店でお願いしているが、実際は5分くらいで終わってしまう。安くしてほしいとはいわないが、せめて7~8分くらいかけて欲しいものである。友人には毛が薄い者のひがみだと笑われている。私自身も同感であるので、一緒に笑っている。

 さて、本日は「日本美術の歴史」(辻惟雄)を少々読んだが、次の第6章には進まず、高村薫の短編集「地を這う虫」(文春文庫)から「愁訴の花」と「巡り逢う人びと」を読んだ。高村薫の作品は、「マークスの山」「晴子情歌」「新リア王」「4人組がいた」「作家的覚書」を読んだことがある。
 短編は初めて。「晴子情歌」はとても好印象で、記憶に残っている。再読してみたい気がしているが実現できるとも思えないのが残念である。

 疲れた時に読む本はいく冊かベッド脇に置いている。そのうちの一冊。他に置いてある本は「東京百年物語1~3」(岩波文庫)、「現代語訳老子」(保立道久、ちくま新書)、「老子」(岩波文庫)、「自省録」(マルクス・アウレリウス、岩波文庫)、「詞花和歌集」(岩波文庫)。どれも最近は手に取っていない。

 


「日本美術の歴史」第5章 3

2021年11月21日 16時36分32秒 | 読書

   

 「日本美術の歴史」(辻惟雄)の第5章の第三節「善を尽くし美を尽くし[院政美術]」を読み終わった。
 ちょっと時間がかかりすぎた。

「院政時代の文化は古代の幕を引き中世の開始を告げる過渡期にふさわしい変化に富んだ様相を示している。第一に‥鴨長明の「方丈記」に要約されるような末世到来を嘆く隠遁思想の流行する時代であった。第二に大江匡房が「永長の大田楽」の仮装を見て「その装束、美を尽くし善を尽くし、彫(かざ)るがごとく磨くが五都市、金繍を以って衣となし、金銀をもって飾となす」と評したように、遊戯とかざりの時代であった。第三に、美の時代であり、“美形”を追求した時代であった。‥第四に、激動する過渡期の現実に揺れ動く不安の心は六道絵に代表されるような、美とうらはらの醜への関心=リアリズムを生んだ。」(①「末世の美意識」)
「美への傾倒の一方で、病や餓鬼、地獄のような醜とグロテスクの世界からも目をそむけることのなかった院政時代の文化と美術は、奥行きがあり、稀に見る多産で創造性に富んだものということができる。」(同)
「院政時代の美術は‥前期は藤原美術をより繊細化し耽美化したといえるような時期であり、「源氏物語絵巻」‥などがこの時期の産物である。後期になると、‥異なる荒削りな要素を持った「信貴山縁起絵巻」「伴大納言絵巻」などが現れ、運慶もこの中に入れて良いかもしれない。」(同)

 ここで私が注目したのが、「③彫刻・工芸・建築」の項の「日本的焼物の登場」。
「高水準だった院政時代の工芸のなかで、焼物だけは技術的にも意匠としても、須恵器のままで低迷していたと以前は見なされていた。だが、最近では、愛知県の猿投窯(さなげよう)に始まる国産窯の新しい動向が注目されるようになっている。‥中国磁気の輸入が減ると釉をごく一部しか施さず、あるいは省略して、自然釉に任すという従来の製法に戻っている。高級志向を棄てて瓶、壺を主とする日常の雑器としての量産に活路を見出した‥。‥縄文土器のあと続く、外国当時の造形にしたがった都主導の焼物づくりに代わって、地方の窯が陶磁史の表舞台に登場してきた‥。遅ればせとはいえ、焼物における和様の意匠の誕生をも意味した。」
 陶磁器の歴史は私は無知なのだが、縄文・弥生以降戦国末までこの列島の陶磁器について語られること、教えられることはなかった。中国陶磁器の輸入との関係からの視点も含めて、新たな視点を教えられたと思った。