久しぶりに長田弘の詩を読んだ。「死者の贈り物」という表題のように「死」を大きく自覚した詩が並ぶ。日々の起居のすぐ隣に「死」が座っている日常を平易なことばでつづっている。
2003年の発刊なので、詩人が60代前半の作品である。自分と比べると60代前半でこのように死が近しくは感じなかった。しかし70歳を超えて、きわめて親近感があり、そして共有できる思いが綴られている。
1編1編、じっくりと味わいたいと思う。
引用した詩「こんな静かな夜」は2番目の詩。「いつのときもあなたを苦しめていたのは、/何かが欠けているという意識だった。/わたしたちが社会とよんでいるものが、/もし、価値の存在しない深淵にすぎないなら、/みずから慎むくらいしか、わたしたちはできない。/わたしたちは、何をすべきか、でなく/何をすべきではないか、考えるべきだ。」に惹かれた。特に「何かが欠けているという意識」、これがわたしを突き動かしてきた意識であると同感した。20代からわたしを突き動かしてきた観念、いろいろな表現や思想・言葉があるが、そんなものは煎じ詰めれば「欠けている何か」をひたすら追いかけてきた、と言ってしまえばそれで終わってしまうものでしかなかった、という諦念に近い思いが頭をもたげている。
こんな静かな夜
先刻までいた。今はいない。
ひとの一生はただそれだけだと思う。
ここにいた。もうここにはいない。
死とはもうここにいないということである。
あなたが誰だったか、わたしたちは
思い出そうともせず、あなたのことを
いつか忘れてゆくだろう。ほんとうだ。
悲しみは、忘れることができる。
あなたが誰だったにせよ、あなたが
生きたのは、ぎこちない人生だった。
わたしたちとおなじだ。どう笑えばいいか、
どう怒ればいいか、あなたはわからなかった。
胸を突く不確かさ、あいまいさのほかに、
いったい確実なものなど、あるのだろうか?
いつのときもあなたを苦しめていたのは、
何かが欠けているという意識だった。
わたしたちが社会とよんでいるものが、
もし、価値の存在しない深淵にすぎないなら、
みずから慎むくらいしか、わたしたちはできない。
わたしたちは、何をすべきか、でなく
何をすべきではないか、考えるべきだ。
冷たい焼酎を手に、ビル・エヴァンスの
「Conversations With Myself」を聴いている。
秋、静かな夜が過ぎてゆく。あなたは、
ここにいた。もうここにはいない。