Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「死者の贈り物」(長田弘) その2

2022年02月15日 21時39分54秒 | 俳句・短歌・詩等関連

   


 秘 密

 (前略)

姿を見なくなったと思ったら、
黙って、ある日、世を去っていた。
こちら側は暗いが、向こう側は明るい。
闇の中にではない。光の中に、
みんな姿を消す(のかもしれない)。
糸くずみたいな僅かな記憶だけ、後にのこして。


 イツカ、向コウデ

 (前略)

まっすぐに生きるべきだと、思っていた。
間違っていた。ひとは曲がった木のように生きる。
きみは、そのことに気づいていたか?
サヨウナラ、友ヨ、イツカ、向コウデ会オウ。


 三匹の死んだ猫

 (前略)

生けるものがこの世に遺せる
最後のものは、いまわの際まで生き切るという
そのプライドなのではないか。
雨を聴きながら、夜、この詩を認めて、
今日、ひとが、プライドを失わずに、
死んでゆくことの難しさについて考えている。


 魂というものがあるなら

 (前略)

きみはわらって、還ってゆくように逝った。
正しかったか、間違いだったか、
それが、人生の秤だとは思わない。
一生を費い切って、きみは後悔しなかった。
そしてこの世には、何も遺さなかった。


 以上4編の詩からいづれも最終連を引用してみた。人の死や、猫の死を詠んでいるが、それは作者である長田弘の「死」に対する願望である。そして「こんな風に死にたい」、とは「こんな風に生きたい」との表明でもある。両者は同一である。
 ネットで検索していたら、胆管がんで75歳で死去する前日まで執筆をしていたとのこと。まさに「三匹の死んだ猫」の最終連のようにきっと「いまわの際まで生き切」ったのであろうか。

 私は「曲がった木のように」右往左往しながらかもしれないが、「この世には、何も遺さず」「プライドを失わず」「糸くずみたいな僅かな記憶だけを遺して」この世からさよならをしたいと思っている。はたしてどうなることやら。人は誰もが自分の死をその直前まで知らないのだ。


「バラード」コルトレーン

2022年02月15日 19時42分32秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 あまりに有名なジャズの名盤といわれるもの。学生時代にジャズ喫茶でずいぶん聴いた。自分でジャズのCDを初めて購入したのがこれである。1986年だったと思う。購入してからも幾度も聴いた。
 やはりこのCDは一人静かに聴くに限る。いつも思うのだが、このCDにおさめられた演奏は楽器ごとのバランスがとてもいいのではないか。私はジャズのことはほとんど解らないに等しいが、一つの楽器に偏った演奏ではないと思う。
 ソロのアドリブの演奏時間のバランスというのではなく、楽器同士の音の比重のバランスがいいと思える。編集の成果なのか、演奏自体がそうだったのか、私には判断はできない。コルトレーンだけが目立っているわけではない。それがいい。

 このCDは落ち着いて聴くことができる。私にとっては心休まるCDである。
 


一斉休業

2022年02月15日 18時17分34秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 親の3回目接種に伴い、頼まれた買い物などをするために妻と一緒に横浜駅まで出かけたのだが、西口の地下街は一斉休業日。昼食も食べられず、別のビルの地下へ。一斉休業とはなっていない新しく出来たショッピングモールは総じて値段がかなり高いが、やむを得ずこちらで食材等の買い物。
 高い買い物を強いられ、しかも一斉休業のあおりで一休みしようにも周辺の喫茶店も満員。少々オカンムリの午後となった。食材の買い物終了後は、私は整形外科に寄って帰宅。妻はバスにて別々に帰宅。

 一緒に出掛けても帰宅は別々。あるいは別々に出かけて帰宅も別々。最近の年寄夫婦の行動パターンである。

 親の3回目接種。同じファイザーであるが2回目よりも腫れが大きく熱を帯びている。しかし体温は平熱のまま。腕が思うように上がらないとのこと。明日も家でおとなしく様子見、ということにした。

 雨雲が北上してこの地域をかすって行くらしい。ただし弱い雨でごく短時間とのこと。今のところベランダからは南東の方向にシリウスが雲の間に見えており、雨が降りそうにも思えないが、これから1~2時間後がどうなるか。