もう新しいお札は銀行からおろせるのだろうか。市中に出回っているのだろうか。そんなことをふと考える場面に出くわした。
地下街の通路のど真ん中で、歩いている私の方を向いて立ち止っている60代くらいの男がいた。どうも財布からお札が10枚ほど見えるようにして数えている。真新しいお札らしいということは判ったが、視力が落ちている私にはそれが旧札のピン札なのか、新札なのかはわからないが、色彩は鮮やかに見えた。まして千円札か5千円札か1万円札かまでは判然としない。どちらにしろ、危なっかしいことをするな、という程度で通り過ぎた。
ここから先は小学校・中学時代の思い出。どこの学校でも、見せたがり屋というものはいて、新しいものをまず学校に持参して得意げに見せたがる。どんなものでも大概は2週間もすると市中に出回って、珍しさは無くなるのだが、この1~2週間の振る舞いは得意の絶頂である。
どうやってこの新しいものを手に入れるのかはわからないが、小学校のうちは羨望のまなざしで、うらやましがられる。中学生になると、2~3回繰り返すと飽きられる。高校生のときはそんなことをするのは見かけなくなった。あるいはそのような人間とは付き合わなくなったというほうが正しいか。
しかし就職してみると、不思議なもので新しい電子機器、とくに携帯電話、OS、ソフト、スマホなど休暇を取って徹夜で並んで購入して、他の職員に自慢して回る職員に出くわしたことがある。その得意満面な顔を見て、これが30代の人間のはしゃぎようか、とおどろいたものである。
あまりつき合いたくはない職員だったので、会話もしなかったが、新しい商品・ものに飛びつく人は何処にでもいるんだ、歳に関係ないのだ、と思ったことを思い出した。
本日すれ違った還暦を過ぎたばかりのような人もそんな人であったのかとふと、懐かしさがこみあげてきた。新しいお札を見せびらかしたかったのだろうか。あるいは私の勘違いか。
新しいものには飛びつかずに、じっくりと見極めて廃れないものばかりを購入してきた私は、多分この世にさよならする時まで、そのように過ごすと思う。いつも少しばかり時代遅れではあるのかもしれないが、それもまたいいものである。時代から少しだけ遅れて、且つ一歩離れてじっくりと観察すると、見えてこなかったものも見えてくるものである。そのほうが楽しいし、世の中がそれなりに見渡せる。