まず14時ごろに壱岐の芦辺港についた。天気は曇りであったが、対馬のどんよりとした暗い感じの曇りではなく、雲が高く明るいうす曇りであった。それよりも山が低くなだらかで、山が迫ってくる感じがない。全体に空の面積が広いという印象である。緑の色も明るい。
その印象は山が迫っていないだけかと思ったのだが、バスで移動するうちに田の明るさにもよるということに気付いた。対馬に較べて田が多いのだ。しかも田植えが終わったばかりだから水がきらめいていて空が映っており、余計に明るく感じる。地面からも光が照っている。山というよりも丘が低くなだらかな分、それなりの高さまで田がある。山が開かれているという印象がした。そしてとても懐かしい田園風景を見ている思いがした。一方で、対馬に較べて山が低い分、水は涸れるかことないのかという思いが頭をよぎった。
魏志倭人伝を引用して今の対馬と壱岐を較べては、今に生きる人々には不本意であろうが、取っ掛かりとして書かせてもらう。
壱岐に相当すると云われる一大国について「方三百里ばかり。竹木・叢林多く、三千ばかりの家あり。やや田地あり、田を耕せどもなお食するに足らず、また南北に市糴す」とある。対馬と較べると、
方四百里→方三百里、
深林多く→竹木・叢林多く、
千余戸→三千ばかりの家、
良田なく→やや田地あり、
海物を食して自活し、船に乗りて→田を耕せどもなお食するに足らず、
と違いが書かれている。
そして同じく、南北に市糴す、となっている。
島の南北の距離は対馬が本島で約70キロ、壱岐が約17キロで合わない。東西の距離では対馬が約18キロ、壱岐が15キロと何となく合う。面積でみると700平方キロと133平方キロでこれはあわない。こうしてみると「方○○里」という表現は現実には即していないといえる。
しかし自然の形態と田畑の状態については正確なのではないか。また対馬が海産物が主要な産業であるとの指摘の一方、壱岐が田はあるものの不足していることを指摘している。これも当時の状況を踏まえていると考えられる。
私はこのことから、戸数三千というのも案外信用できるのではないかとおもう。少なくとも対馬よりも2~3倍の人口を抱え、市が発達しているというのは実情をキチンと踏まえていたと推量できるのではないだろうか。
こんな印象が最初の壱岐の印象であった。現在の人口は対馬市が34000人に少し足りず、壱岐市29000人。人口密度は壱岐が対馬の約5倍近くもある。
芦辺港についてまず感じたのは、ハングル表記がまずないということ。あれほど対馬では氾濫していたハングル表記がほとんど目につかない。そして韓国からの旅行客も目立つようなことはなかった。国境の島という対馬の雰囲気とはずいぶんと違う印象である。
その次に対馬は少なくとも厳原の町並みでは、近世の対馬藩当時の記憶を呼び起こすような案内、標識が主流であった。しかしこの壱岐では、それは影を潜めている。原の辻遺跡で脚光を浴びたこともあるのだろうが、弥生時代や古代の古墳、そして元寇の記憶、そして壱岐焼酎の宣伝が中心である。
対馬の町の記憶は、白村江-元寇-秀吉の朝鮮出兵-対馬藩政と朝鮮通信使-明治以降の朝鮮併合時代と、古代から戦前までの日本-朝鮮・中国との関係全般を対称にしている。特に対馬藩時代の掘り起しが中心だ。壱岐の町では、魏志倭人伝-元寇-明治時代の文化が中心の掘り起こしが私の目についた。
都市や地域によりそれぞれに歴史へのこだわりが違っていて当然であるが、この現在の両市の違いは、それなりに歴史の雰囲気の違いを表しているようにも見える。それが何なのかはまだうまく整理が出来ない。しかし直接朝鮮半島に相対していて、そして田畑が少ない特徴と宗家という一島支配が続いた対馬と、九州により近く列島側の影響がより強く、近世は平戸藩という本土の藩の支配を受けた壱岐の違いは今も受け継がれているように感ずる。
あえて対馬と壱岐を比較すること自体が今の時代それほど意味がないのかもしれない。しかし関東に住む人間が、歴史を紐解くよすがとして二つの島を訪ねるとすれば、比較はどうしてもしたくなる。
初日はまず、焼酎の蔵元を訪れた。事前に調べていたのは重家酒造という蔵元。対馬からの船が着いた芦辺港からタクシーで印通寺(いんとうじ)という唐津へのフェリーが出ている港のすぐ傍にある。事前の予約をしていなかったが、電話をすると快く工場見学と試飲をさせてくれた。そこで3本とお土産用の1本を購入した。
忙しい中、飛び込みの見学を受け入れてくれた専務をはじめ社員の方に感謝である。
この重家酒造、「木製こしきで米・麦を蒸し、かめで仕込んだ手作り焼酎を続けている」というなかなか今の時代に迎合しない頑固な蔵元である。味がわかるほど舌が肥えてはいないが、このような蔵元にはつい応援をしたくなる。
横浜で扱っている酒屋さんも教えてくれた。地下鉄でいけるところのようなので今度行ってみようと思う。
さてこの蔵元での説明を受けたあと、先ほど記した私の壱岐での第一印象に添って「対馬は水は豊かなところに見えるが蔵元は一つしかない。壱岐では山が低く、森も深くなさそうなので水が豊かとは思えないが、蔵元は7つも頑張っている。この違いは何か」と質問してみた。
次のように答えをもらった。「壱岐は対馬に較べて昔から米・麦がよく取れた。水も良い湧き水が湧いている」とのこと。私の冒頭に書いたことと話は符合するように感じて、合点がいった。同時に多分、近世になって田畑の収量がおそらく開発が盛んに行われたこともあり、飛躍的に増加したのかもしれない。
そんなことを重家酒造の説明を受けながら感じた。
さて蔵元見学が終わったあと、折角この石田町印通寺というところに来たので、壱岐市合併前の町立の博物館はないかと案内図を見ると、ふるさと資料館と松永記念館が併設されていた。松永記念館は石田町出身で電力王といわれた松永安左エ門の生家跡に建てられたとのこと。松永の事跡の紹介・展示と、地元の漁業関係の民具の展示がある。私は民具の展示を中心に見たが、初めて松永安左エ門という人の事跡を頭にいれた。
その印象は山が迫っていないだけかと思ったのだが、バスで移動するうちに田の明るさにもよるということに気付いた。対馬に較べて田が多いのだ。しかも田植えが終わったばかりだから水がきらめいていて空が映っており、余計に明るく感じる。地面からも光が照っている。山というよりも丘が低くなだらかな分、それなりの高さまで田がある。山が開かれているという印象がした。そしてとても懐かしい田園風景を見ている思いがした。一方で、対馬に較べて山が低い分、水は涸れるかことないのかという思いが頭をよぎった。
魏志倭人伝を引用して今の対馬と壱岐を較べては、今に生きる人々には不本意であろうが、取っ掛かりとして書かせてもらう。
壱岐に相当すると云われる一大国について「方三百里ばかり。竹木・叢林多く、三千ばかりの家あり。やや田地あり、田を耕せどもなお食するに足らず、また南北に市糴す」とある。対馬と較べると、
方四百里→方三百里、
深林多く→竹木・叢林多く、
千余戸→三千ばかりの家、
良田なく→やや田地あり、
海物を食して自活し、船に乗りて→田を耕せどもなお食するに足らず、
と違いが書かれている。
そして同じく、南北に市糴す、となっている。
島の南北の距離は対馬が本島で約70キロ、壱岐が約17キロで合わない。東西の距離では対馬が約18キロ、壱岐が15キロと何となく合う。面積でみると700平方キロと133平方キロでこれはあわない。こうしてみると「方○○里」という表現は現実には即していないといえる。
しかし自然の形態と田畑の状態については正確なのではないか。また対馬が海産物が主要な産業であるとの指摘の一方、壱岐が田はあるものの不足していることを指摘している。これも当時の状況を踏まえていると考えられる。
私はこのことから、戸数三千というのも案外信用できるのではないかとおもう。少なくとも対馬よりも2~3倍の人口を抱え、市が発達しているというのは実情をキチンと踏まえていたと推量できるのではないだろうか。
こんな印象が最初の壱岐の印象であった。現在の人口は対馬市が34000人に少し足りず、壱岐市29000人。人口密度は壱岐が対馬の約5倍近くもある。
芦辺港についてまず感じたのは、ハングル表記がまずないということ。あれほど対馬では氾濫していたハングル表記がほとんど目につかない。そして韓国からの旅行客も目立つようなことはなかった。国境の島という対馬の雰囲気とはずいぶんと違う印象である。
その次に対馬は少なくとも厳原の町並みでは、近世の対馬藩当時の記憶を呼び起こすような案内、標識が主流であった。しかしこの壱岐では、それは影を潜めている。原の辻遺跡で脚光を浴びたこともあるのだろうが、弥生時代や古代の古墳、そして元寇の記憶、そして壱岐焼酎の宣伝が中心である。
対馬の町の記憶は、白村江-元寇-秀吉の朝鮮出兵-対馬藩政と朝鮮通信使-明治以降の朝鮮併合時代と、古代から戦前までの日本-朝鮮・中国との関係全般を対称にしている。特に対馬藩時代の掘り起しが中心だ。壱岐の町では、魏志倭人伝-元寇-明治時代の文化が中心の掘り起こしが私の目についた。
都市や地域によりそれぞれに歴史へのこだわりが違っていて当然であるが、この現在の両市の違いは、それなりに歴史の雰囲気の違いを表しているようにも見える。それが何なのかはまだうまく整理が出来ない。しかし直接朝鮮半島に相対していて、そして田畑が少ない特徴と宗家という一島支配が続いた対馬と、九州により近く列島側の影響がより強く、近世は平戸藩という本土の藩の支配を受けた壱岐の違いは今も受け継がれているように感ずる。
あえて対馬と壱岐を比較すること自体が今の時代それほど意味がないのかもしれない。しかし関東に住む人間が、歴史を紐解くよすがとして二つの島を訪ねるとすれば、比較はどうしてもしたくなる。
初日はまず、焼酎の蔵元を訪れた。事前に調べていたのは重家酒造という蔵元。対馬からの船が着いた芦辺港からタクシーで印通寺(いんとうじ)という唐津へのフェリーが出ている港のすぐ傍にある。事前の予約をしていなかったが、電話をすると快く工場見学と試飲をさせてくれた。そこで3本とお土産用の1本を購入した。
忙しい中、飛び込みの見学を受け入れてくれた専務をはじめ社員の方に感謝である。
この重家酒造、「木製こしきで米・麦を蒸し、かめで仕込んだ手作り焼酎を続けている」というなかなか今の時代に迎合しない頑固な蔵元である。味がわかるほど舌が肥えてはいないが、このような蔵元にはつい応援をしたくなる。
横浜で扱っている酒屋さんも教えてくれた。地下鉄でいけるところのようなので今度行ってみようと思う。
さてこの蔵元での説明を受けたあと、先ほど記した私の壱岐での第一印象に添って「対馬は水は豊かなところに見えるが蔵元は一つしかない。壱岐では山が低く、森も深くなさそうなので水が豊かとは思えないが、蔵元は7つも頑張っている。この違いは何か」と質問してみた。
次のように答えをもらった。「壱岐は対馬に較べて昔から米・麦がよく取れた。水も良い湧き水が湧いている」とのこと。私の冒頭に書いたことと話は符合するように感じて、合点がいった。同時に多分、近世になって田畑の収量がおそらく開発が盛んに行われたこともあり、飛躍的に増加したのかもしれない。
そんなことを重家酒造の説明を受けながら感じた。
さて蔵元見学が終わったあと、折角この石田町印通寺というところに来たので、壱岐市合併前の町立の博物館はないかと案内図を見ると、ふるさと資料館と松永記念館が併設されていた。松永記念館は石田町出身で電力王といわれた松永安左エ門の生家跡に建てられたとのこと。松永の事跡の紹介・展示と、地元の漁業関係の民具の展示がある。私は民具の展示を中心に見たが、初めて松永安左エ門という人の事跡を頭にいれた。
私は前も言っていたのですが、スマホ携帯旅に違和感を覚えておりましたが、旅というものはスマホ的日常を離れるのが旅と感じておりましたが、氏のスマホによる臨場感もたらしにより、結構、旅不可能人間をも喜ばせてくれるのだと、感心しました。私もほとんどリアルタイムで旅人的雰囲気に浸れましたのは、氏のブログ読者に対する、誠実な姿勢のあらわれです。勿論、自分が味わいつくすのが、第一ですが、私は書くために行くのではないようにと、訴えていましたが、その心配は杞憂でありました。味わった自分を確認してから発信している姿が真摯でありました。結構でありました。
ご愛読、ただただ感謝です。