午前中は団地のボランティア活動で屋外作業。午後からふと思い立って地下鉄の港南中央駅まで出かけた。風が強い中、すぐ近くにある横浜刑務所の周りを一周してから、更に遠回りをして上大岡駅に戻った。
私の現役時代の1990年代だったと記憶しているが、横浜刑務所のある事務官とずいぶん話し合いをしたことがある。とても誠実で誠意ある方であった。
横浜刑務所は1923年の関東大震災までは磯子区の現在の丸山にあったが、大震災で一部倒壊、職員と受刑者に死亡・重傷者が多数出た。そのことを契機として1936年に現在の地に移転した。
しかし戦前のこととて、道路敷や水路敷、青地などの整理もまともにはせずに刑務所庁舎、そして刑務官などの官舎などをつくってしまった。公図や登記簿上、敷地内に残ったままの横浜市が管理すべき道路敷・水路敷、それに付属した青地、国の法務局が管理すべき単独青地などの整理を始めることになり、道路敷・水路敷とそれに付属する青地の境界確定のためにお互いにずいぶん苦労した。刑務所の敷地内なので、測量のための立入もできず、いろいろと応用力を発揮したものである。
その整理の結果、古くなっていた周囲の塀の建て替えなど敷地の再整備が進んだ。結果として現在の港南区役所の庁舎も、刑務所から敷地の一部を譲渡する形で建設することが出来たと聞いている。
当時のそんな苦労を思い出しながら周囲を一周して、付け替えたり廃止したりした道路・水路敷などのあとを懐かしく歩いた。もうそんなことは多くの方には記憶の外になっていると思うが、当事者としては忘れられない業務であった。当時若かったと思うが、担当された事務官ももう定年を迎えていると思うと感慨ひとしおである。お名前も覚えていない。
そんなことを思い出しながら、1万歩を超えて上大岡に戻った。