Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

岩波「図書6月号」その2

2020年06月02日 13時12分12秒 | 読書

 今月は16編の内14編に目を通した。いつものように覚書として。

・クラウドファンディングで司法を開く     周防正行

・加藤典洋さん                船曳建夫

・ご成婚の森の雁皮              猪瀬浩平

・小さな「語り」の大きな力           上野直子
「生きることと知ることは違う。自分が生きたことのない何かを、私たちは知ることができるのか。‥言葉は読めても、本当の意味がわかるのか。それでも知っておかなくてはならないことに対して、どうすればよいのだろうか。知ることとは何なのか、途方に暮れる。途方にくれながらも知りたいと思う。」
「わたしたちの世界の、すなわち資本主義の成り立ちの、その根の部分にある奴隷貿易と奴隷制、奴隷とされた人々と彼ら・彼女らにふりかかった不条理と残虐。私たちは、それらをどう知りえるのか。」

・親への三つの懺悔              瀧井朝世

・「モダン」への終りな旅路           山室信一
「グローバリズムとは、アメリカニズムの転換語に過ぎないと見なせるかもしれないのである。そうした事態にいかに対処すべきか。‥果たして日本人は、いや人類は、アメリカニズムとは異なる「文明様式としてのモダン」をいかに想像し、選択の可能性をどこに求めるべきなのだろうか。」

・結核をめぐる二つの物語           斎藤真理子
「我々の社会が病み果てているのなら、ともに病む僚友なしに耐えられるだろうかと思うから。そして林芙美子が持っていなかったのはまさにこの、僚友ではなかたかと思ったからだ。‥私たちは、これから何年かけて何を経験するのかまったくわからない世界の前に立っている。どういうリレーの中で何を誰に手渡すことになるのか、見きわめながら走らねばならない時間が待っている。」

・あとには戻れないならば           藤原辰史
「百年前の地球全体に広まったパンデミックは足かけ3年にわたり続いたこと、3回のピークがあったこと、ウィルスの猛威はとりわ弱者に向かうこと、「危機は、生活がいつも聞きにある人びとにとっては日常である」ことなどについて述べました。少なくとも現時点で希望は持てない、という暗い展望ですが、全く予期していなかったことに、一週間で30万回のアクセスを得たそうです。」
「こんな時代は、この世の生を狂い歌う叙事詩を聴きたいのですが、残念ながらその名手であった石牟礼さんはあの世にいて、私はあのような狂気を歌う能力を持ちません。ただひたすらに、未曽有のパンデミックと大失業時代に直面して、これまでの社会の矛盾が白日晒されたいま、当時を体験した人びとの声を聞き、それをまとめていくことしかできません。‥正史によって廃棄された死者が私に語ることをやめないからです。無数の「死者の口寄せ」の恐怖に耐えなければ。もう、あとには戻れません。観念のしどころだと思っています。」

・黄金の仮想現実               藤原麻里
「(黄金の茶室は)「富と権力をひけらかす」「悪趣味」と思われそうだ。しかし実際に室内に座ると、まったく異なる感覚が生じる。‥木、土、竹、紙などの質感のバリエーションが存在しない。‥引き戸を閉めてしまえば光量は室内に満遍なく回り、畳の猩々緋が映り込んで、茶室の内部には緋色をまぶしたような光がぼんやりと満ちる。‥自分が「光の中にいる」という感覚だ。‥金の物質性は早々に知覚から失われ、光に変換される。」
「(須藤弘敏は)古代中世の日本でもっともよく知られ、普及していた浄土三部経から「金」に関わる語彙を抽出、「同じく聖性の象徴であっても「金」と「金色」は明らかに使い分けられている」と分析している。」
  私も以前に「黄金の茶室」を展示されていたのを見たときに、暗い木造の室内で蝋燭の火だけを頼りに、締め切った空間で見たら、外光のもとで見るのとは違うイメージが広がるかと想像した。暗い空間、閉じられた空間の体験、そしてこのちゃしんつ中での「主」「客」の対話が作り出す空間に満たされる緊張感に興味を持った。「金」と「金色」は是非とも知りたい分析である。

・隣にいるのは誰か              長谷川櫂
「“閑さや岩にしみ入蝉の声” 岩にしみ入るほど、しんしんと鳴きしきる蝉の声を聞くうちに、芭蕉は現実の世界をふっと忘れて天地に満ちる宇宙の静寂に包まれるような気がした。それがこの句の「閑さや」だった。‥“古池や蛙飛こむ水の音” 芭蕉の心に浮かんだぼおっとした静寂のかたまり、それが古池だった。」
「“秋深き隣は何をする人ぞ” ‥町中の座敷に横たわる芭蕉の身に同じことが起きていた。遠くに聞こえる荷車の音‥人々のざわめきに耳を傾けるうち、また永遠の静寂を見つけてしまったのだ。その静寂こそが「秋深き隣」だった。何光年も離れたはるかな宇宙空間に浮かぶ白い部屋。‥芭蕉はこのとき、遠からず自分に訪れようとしている死がそこにそっとたたずんでいるのを知ってしまったのではなかったか。‥芭蕉は死の気配を感じただけである。だからこそ「隣」なのだ。そこに存在しているのに壁や襖や塀に隔てられて見えない場所、それが「隣」。深い言葉である。」



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