午前中は、「日本美術の歴史 補訂版」(辻惟雄)の第4章を読んで過ごした。教科書的な書物なので、網羅的に作品を上げる必要もあり、著者独自の論考が少ないのは止むをえない。しかし節の終わりあたりにときどきに断定的に見解が配されている。
その断定は飛躍があり、断定的なので自分で考えなければならないのだが、類推が難しいものもある。なかなか理解しきるのは難しい。以下引用した部分はおおいに興味を惹く。著者の論考を読みたいものである。
「(法隆寺五重塔初層の塑像群について)90体に及ぶ塑像に込められた明るく豊かな人間的感情は、埴輪の素朴な表現が、唐美術の洗礼を受け、より写実的な深まりを示すにいたった経緯をうかがわせる。それはまた、喜怒哀楽を率直に歌う万葉人の心の反映でもある。」(③「塑像・乾漆像の流行」の「法隆寺五重塔初層の塑像群」の項)
「(興福寺の)阿修羅像のような本来異相であるべき像が、十大弟子の多くとともに少年の面影を宿しており、憂いを含んだ若々しい表情は、白鳳仏に見た宮廷の(あるいは女性貴族の)童顔好みが、より内面性を深めて天平仏に受け継がれていることを物語る。」(③「塑像・乾漆像の流行」の「興福寺の乾漆像」の項)
「(正倉院宝物は)これらを通じて私たちは、現世と来世をともに荘厳する唐代美術の装飾世界と、その光に浴した天平の皇室の「かざり」で彩られた生活の実態とを知ることができるのである。それはまた、工芸と絵画を区別せず、大胆なデザインと色彩美にあふれる日本の「かざり」の出発点もあった。」(⑦「正倉院宝物」末尾)
最後の「かざり」への言及は、日本の古代の美術の「修復」の在り方に対する疑問・批判としても私は捉えている。私は現状維持の修復ではなく、「復元」が主となるべきだと考えている。あるいは「修復」と「復元」が二様あってもいい。誤解に基づく古代への憧憬は避けなければいけないのではないか。