久しぶりにブラームスのピアノ協奏曲第1番。
ブラームス20代半ばの曲。吉田秀和は以下のようにこの曲を語っている。
「この曲がヨハンネス(ブラームスのこと)へのシューマンの悲劇の反映であるというのが素直に受けとれるのも、どんな人が聴いても、ここに激越な興奮(第1楽章)と、それから、あるものへの畏敬の念に満ちた回顧的なやさしさ(第2楽章)と、そうして最後に舞踏的アクセントを通過しての祝福への意欲とが認められる‥。ブラームスは、「私はこの失敗で反省することによって力を得る」と書いた。これは当時は完全には意識されてなかったかもしれないが、今後の枯れの生き方を根本的を語るモットーとなった‥。ブラームスは、次第に自発的な相違に寄るだけでなく、むしろ反省によって得られた力を絶対に手放すことをしない芸術家になってゆく。」
CDの解説にあるとおり、初演は不評であった。14年後の1873年、クララ・シューマンの独奏による演奏で評価を得られたとのことである。
この曲の評価が定まったという1870年代とは美術で言えば、どんな時代だったのだろう。同時代の音楽と美術はなかなかイメージが結びつかない。
ドイツの同時代の画家は私は知らないが、イギリスではホイッスラーがいる。音楽に因んだ題名で私には親近感がある。1875年の「黒と金色のノクターン 落下する花火」を思い浮かべた。そのホイッスラーと対極にいたのがラファエロ前派。1874年ロセッティの「プロセルピナ」(1874)がある。
フランスでは、印象主義が胎動を始めている。モネの「カササギ」(1869)もこのころ。
政治的には、1871年ドイツではビスマルクを宰相としてドイツ帝国が成立、同年パリコンミューン、イギリスでは労働組合法が成立。ヨーロッパ全体が激動の時代であった。
ブラームスには関心はなかったらしいが、漱石がイギリスに留学したのは1900年、ターナーやラファエル前派に関心を寄せていた。