以前に「座右の銘とはどんなものか」などということが居酒屋で語られた。私は「そんなに偉そうなことをいう立場には私たちはいない」ということで、他のかたとも意見の一致をみた。労働組合の役員が「座右の銘」などと組合員の前でいうのは、どこか組合員を見下しているような誤解を受けるし、組合の運動へのかかわり方を問われかねない、という思いが強かった。
とくに私たちは政党・政治党派の上意下達の運動を否定して、作り上げた労働組合である。政党や政治党派の序列と組合役員の序列を混同するような組織とは決別してきた経過がある。
しかしある友人としみじみと語り合ったとき、処世訓として大事なものもあるかもしれない、という意見で一致したことがある。それは、我々組合の活動家というと、
「人の意見を最後まで聞かずに、途中で遮って自分の意見を押し付ける傾向が強くないか。あれはよくない」、
「職場の意見、組合員の意見をきちんと最後まで聞く度量を培わないと先細りになる」
ということも危機意識として共有できたときである。もっとも組合の活動家だけでなく、多くの日本の政治家や社会運動家に共通ともいえるかもしれない。
これらは別に人に訓示するものではなく、自分を律するものとして、自分の胸にいつも忘れずにいることが大切だということも一致した。
そのときに短い言葉として、私が思い浮かべたのは「人の意見を最後まで聞く」、「大言壮語よりも実務をこなそう」、「人に語らせてこそ一人前」、「沈思黙考・不言実行」、「饒舌よりも行動」、「口よりも耳を鍛えよう」、「もの(者・物)の声を聴く」など。
これらを人に語ってしまうと、上から目線で、人に説教を垂れているようでとても嫌味である。人に語るものではなく、あくまでも自分の気持ちの中にとどめておくものである。
先日パソコンが壊れたときに古いデータの中にあったのをたまたま見つけて、当時のことを思い出した。もうすっかり忘れていた。
でもやっぱり割り勘のほうが気楽に飲めます。そのほうが気楽。
払ってもらうと二日酔いしてしまう癖があります。お酒と食事は自分の金で払うべし、の呪いが学生時代から頭を占領しているからでしょうか。
あるいは、意地汚く飲みすぎるためでしょうか。
どちらが正解なのか、自分でもわからなくなってきました。
コロナの禍が収まったら、心ゆくまで楽しみたいですね。それまでは何としても生き延びないと。