Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

本日は新月

2020年02月24日 22時10分30秒 | 俳句・短歌・詩等関連

 本日は新月、先ほど近くのドラッグストアに妻と若干の買い物に出かけた。新月なので星がよく見えるかと期待したものの、シリウスだけをかろうじて見つけた。全体に薄く雲がかかったような空であった。

 退職者会のニュースのおもて面の約65%ほどが出来た。残りは明日以降。ここ数日根を詰めて作業した結果、だいぶ肩も凝った。明日は息抜きをしたい気分になった。

★田は一代工高受験許しけり        藤井洋舫

 今は受験期、こんな句をネットで見つけた。1960年ころまでの世界かもしれない。「苦労して開墾して作った田も私一代で終わりか」という親の感慨である。戦後苦労して入植したのであろう。ようやく軌道に乗った矢先に息子は農業を継がずに工業高校に行かせてくれ、とこの親に懇願したのであろうか。これを許した親の感慨はつらいものがあったはずである。だが頭ごなしに怒るのではなく申し出を噛みしめて許すのが「戦後」の由縁。経済的なほんの少しの明るい見通しも「戦後」の在り方を示唆している。
 私が1970年に仙台の大学に入った時は、高校ではなく親をやっと説得して大学に入ったという友人が多数いた。また末っ子で兄貴は高校を出て農業を継いだが、「俺は親と兄貴のすねをかじって大学に入れて貰えた」という友人も入れるとクラスの3割ほどになった。奨学金とアルバイトがなければ生活が出来ない友人が多かった。

 ところが大学紛争が再燃し、多くの友人とともに私もその渦中に入り、皆泣く泣く留年という道を選択した。あの時の友人たちとの濃密な議論や交流は、忘れようにも忘れることが出来ない。もっとも留年した後は明るい表情を装い、アルバイトに精を出したり、大学を離れて就職したり、この大学に愛想をつかして他の大学に入り直したり、不本意ながら就職のために砂を噛むような3~4年間を耐えて「卒業」する道を選んだりした。それぞれ「大学なんて・・」とばかりにさまざまな人生を歩み始めた。今でも賀状をやり取りし、メールで近況を報告し、年に数回は居酒屋に行くこともある。「革命家たらん」と音信不通になった者もいる。鬼籍に入った者も幾人か。
 この1句で、50年という時間を思い描いてしまう句というのも、得難いものである。



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