午前中は「万葉の歌びとたち」の第Ⅳ章の6編のうち、「天武天皇」「中皇命とは誰か」の2編を読む。
昼に電話があり、夜に新宿中央公園の集会への退職者会としての参加依頼。夕刻に横浜駅集合との連絡。ウクライナへのプーチンによるロシア軍の侵攻への抗議行動。久しぶりの東京での行動参加である。本日参加要請があったらしい。急な参加は厳しいが、事態が事態だけにそれなりの参加はありそう。
しかし77年前の3.10の戦争犯罪のひとつ東京大空襲という無差別爆撃、東日本大震災とそれによってもたらされた福島原発事故の11年目の3.11に近くなって、軍事侵攻による市街地への無差別攻撃、チェルノブイリ原発への攻撃・電源破壊などが行われることには、暗澹たる気持ちである。
ロシアの安全を確保するため、というプーチンの「屁理屈」は日本が権益確保と言った韓国併合・日中戦争・満州国でっち上げの論理と同じである。「占領」され生活の場を奪われた人々の反感は、戦後70年を経ても解消されてはいない。ロシアはたとえ軍事侵攻で多大な戦費による損失だけではなく、プーチンと彼を支えた政権の人々ヘの強い反感をこれからどんなに小さく見ても百年単位で受けることになる。ロシアの民衆が、侵略してきたナチス・ヒトラーへの反発がきわめて強いことの裏返しでもある。
ウクライナは旧ソ連時の過酷なスターリン支配に抗して、ヒトラーの旧ソ連への侵攻に協力した人々もあり、両国民間の感情は複雑と聞いている。
第2次世界大戦が開始されてから80年あまり、それをもたらした世界情勢への根源的で真摯な反省なくしては、平和への道はいつも逆戻りの危機にある。80年を経て、ロシア、NATO・アメリカという「均衡」による「平和」は崩れ去り、世界の状況と乖離している。
武器供与で連帯などしたくない。報道の自由度の低い国々や、あるいは近年、報道機関が特に「忖度」によって低くなっている日本では、「どちらの側に立つか」が迫られているような精神状態にされる。本質はそんなところにはない。私はどちらの国や国の軍事同盟にも与したくない。与していけないと思う。
戦争の犠牲になる人々、戦争に駆り出されて死と直面させられている若者、いづれもが被害者である。戦争に反対する運動はロシア国内でも公然と行われている。かつてレーニンがあるゆる帝国主義戦争に公然と反対の声を上げ、反戦運動をつくったように。ロシアの軍事侵攻の枷となる運動がいま必要である。「戦い」ではなく、武器を持たない「闘い」が問われている。
日本は憲法上「軍備」をしていないことになっている。本当は日本が非軍事の面で和平の下支えの役割を果たさなくてはいけない国家の一つである。その国家の役割が果たせない為政者に変わって、武器を持たない「闘い」が大きなうねりとなることを願っている。
たとえ「空理」と蔑まされようと、その信念は変わらない。