昨晩、ベッドに入ってから横浜市域には大雨・洪水警報が出ていた。1時半すぎに発表になりから4時ころに解除のメールが届いていた。
レインアイよこはまを見ると私の住んでいる地域を掠るように強い雨の区域が北西から南東に移動していった。雨の区域はごく狭い。それが県内には数か所散ばっていた。現在は千葉県側に強い雨の区域がある。少しは降ったと思われるが、家の中では雨の音は聞こえなかった。朝8時に起きたときには路面も植込みの葉も濡れてはいなかった。
秋の蝉としては法師蝉(ツクツクホウシ)、や蜩(ヒグラシ、カナカナ)などを私は思い浮かべる。団地の中では以前はツクツクホウシの声がよく聞こえていた記憶がある。最近は聞いていないようだ。ただし断言する自信はない。聞こえていても認識していなかったり、忘れていたりする確率の方が高い。
★ひぐらしに肩のあたりのさみしき日 草間時彦
★暁蜩みとりに果てのありしなり 宮津昭彦
★鳴き立ててつくつく法師死ぬる日ぞ 夏目漱石
★また微熱つくつく法師もう黙れ 川端茅舎
昨日、18時半頃に家の傍の地下鉄の駅の階段を上って道路に出たときに、すでに日が暮れて暗くなりかけていた。もう日の入りがこんな時間になったのかと「秋」を今年初めて実感した。
第1句、夕方に鳴くという蜩、8月も末になると夕陽の勢いも衰えかけ、赤味の増した夕陽が心なしかやさしく感じることもある。暑いのは間違いないが、「温み」を感じる夕陽の色である。斜めの陽射しが柔らかい。
はじめこの句を読んだとき「ひぐらしの肩に‥」と読み間違えて、ヒグラシにあたる夕陽が柔らかくなった、と誤読した。景色としては悪くもないが、浅い感傷の情景描写になってしまう。読んでいる主体が前面に出てくるには、「さみしき日」は作者にあたっていないといけない。
第2句、近しい人の死に臨んでいたのであろう。一晩経った。ひぐらしが朝から鳴き始めた。亡くなった方がひぐらしに再生したのだろうか。
第3句、ツクツクホウシの生の最後の叫び、胃潰瘍の大量吐血で伏していた漱石は、その最後の叫びを受けとめるだけの余裕が生れていた、と私には読めた。回復の兆しを実感しなければ、死の直前の叫びを「鳴き立てて」と表現できないのではないか、と思ったのだ。回復の兆しを実感していないと、次の句のように「もう黙れ」と耳を塞ぎたくなったのではないか。
第4句、漱石の句よりもこちらの句の方が切実である。病に対する恐怖、打ちひしがれた感情が噴き出ている。川端茅舎は43歳で肺の疾患により亡くなっている。
わたしにとって必要最小限と思った範囲で記しています。本当はもっと詳細に紹介した方が良かったですね。