昨日は寝る間際に「監視カメラばかりの時代」を掲載した。書き忘れたエピソードをひとつ。
私の団地でも監視カメラを設置した。管理組合の議論もあったが、その過程では「必要悪」論が優勢となった。要は「監視し合うのは本意ではないが痴漢行為や泥棒などに対する抑止として有効であるから、やむを得ない」というものであった。
要するに監視し合うという負の側面もあるが、犯罪抑止のための「必要悪」である、という論理である。私も「犯罪防止」のためという建前に抵抗できる論理というものが思い浮かばずにそのまま異論はいわなかった。
運用上は警察の要請がある場合に限り、役員が立ち会うという条件で設置が決まった。しかし私の知る限り警察からの要請の案件はないようだ。たまたま団地の入り口での交通事故で、団地居住の当事者から閲覧の申し出があったらしいが、「警察の要請ではない」ということで閲覧はしなかった、と人づてに聞いたことがある。
しかし案件がないとはいえ、私が気になったのは、「必要悪」という言葉が、「必要」に力点を措いて人を納得させてしまうことであった。私のイメージでは本来は「悪」ないし「デメリット」が大きな比重の言葉だと思っていた。
だが「必要」に力点を措いた「必要悪」の前に多くの人は沈黙せざるを得なくなった。「抑止論」である。それこそ「核の抑止論」「防衛のための軍備保持論」「抑止力としての敵基地攻撃能力論」いづれも「必要悪」が「錦の御旗」になってしまう。根拠の薄い抑止論が「必要悪」として覆い被さってくる。
本当に必要なのか、監視カメラがあれば犯罪は少なくすることができるのか、そもそも団地内で泥棒や痴漢の実体はどのくらいあったのか、高齢者の割合が高くなる団地でカメラだけで犯罪者を追い払うことができるのか、他に具体的で効果的な抑止方法はないのか、痴漢や住宅内への泥棒の侵入などよりも振り込め詐欺の抑止や駐車場の車上荒らしなどのほうが優先すべきなのではないか、などなどの具体的な議論・検討はなされない。警察の一般的な議論の紹介だけで結論が出てしまう。
団地内部の住民同士の関係・絆の希薄化にどう対応するのか、という防犯のもっとも基本的な議論が抜け落ちてしまう。
そこまで言及することが、団地の中の会議で果たして実を結ぶ議論となるのか、ということの不安も大きかった。そんな意識を持ちながら私は監視カメラ設置の議論をよそ事のように聞いていた。自分ができる具体的な場面は限られており、私自身のできることはしているつもりであるものの、議論が進まないのは、無いものねだりなのだろうかとも考えた。
こういうためらいが「日本的な議論回避の温床なのか」ということも頭を過ぎったが、あえて口には出さなかった。
果たして私のこの選択、ためらいがどういう結果となって帰ってくるのか、私にも誰にもわからない。