私は美術を見、詩歌を読むときは、これまでも無意識にではあるが、その作品から漂ってくる「時間」を感じ取っていたのではないか、と思った。
「時間」というものは「累積」して「価値」が生ずる。その「時間の累積」が感じ取られる作品に私は共鳴しているとも言える。
作者が「時間の累積」に自覚的かどうか、というのは作品とは別のことである。作者の意識があくまでも作者にとっての「現在」にこだわったものでも、ある過去から作品の作られた時点までの時間が類推されれば、わたしにとっては優れた作品に見えると思う。
また作者が描く対象、言語で表現する対象から何らかの「時間の累積」を感じ取ってそれを表現しようとしていることがわかると、私の記憶にさらに残りやすいのではないか。
同時に鑑賞した時点で、「時間の累積」を感じないものでも、ひょっとしたら時間の経過とともに作品自体が輝きを増してくるものがあるような気もする。多分そこに作用をするものは、作品が人間社会との関係の中で翻弄されてきたことと関係があると思う。社会に何らかの強い作用を与えたが故に、社会にもまれるようにして評価を受けてきた「時間」が作品に固着していく。そんな思いが頭の中で湧いている。
工芸品が美術品の違いというのも、これも「時間の累積」による作用の結果などではないか。工芸品と美術品の違いは何か、職人と芸術家の違いは何か、ということをどう定義するかと問われることがある。そのようなときの一つの答えとして「時間の累積」という切り口も有効だと思う。
日本で仏像というものがある。古代から近世にかけて、そして現代も盛んに仏像は作られている。仏像を美術品として制作するといよりも、信仰の縁(よすが)として作成されると思う。しかし時間とともに、あるいはその作品が時代の変遷の中で、人々の信仰や救いへの思いを託されることで、「作品」から「美術品」として変容していくのではないか。
私は仏像や過去の建築物などは当時の装飾に基づいて復元すべきだと思っているが、古びて装飾が消えた現在の姿を残したいという思いというのは、ひょっとしたらできた当時の姿よりも、古びて黒ずんで表情もわかりにくいさまに「時間の累積」を読み取ろうとする意識があるのかもしれない。
私が生きてきた70年近い時間、さらに生まれた数年前の時間というのは、ほぼ私が経験した時間である。家族や近しい諸先輩との付き合いの中で、この自覚的に体験した時間というのが感じられる作品とは共鳴しやすい。
ただし同時代の社会の経験でも、自覚的にそれを自分の中に取り組み、格闘していないものには共鳴しない、ということは自明である。
「時間の累積」とは、社会との格闘と言い換えることもできる。社会や周囲との摩擦なしに受け身だけでは格闘にならないとし、体験という時間も堆積しない。
社会との格闘といえばきつい言葉だが、何かを受け入れるときの違和感・摩擦といえばいいかもしれない。就職して職場に根付こうとして以降、できるだけおおくの違和感を飲み込むことが自分にとっては成長であると思ってきた。
受け入れるときの違和感や摩擦を自覚的に自分の中に、肯定するにしろ否定するにしろ組み込むこと、これもまた自分にとっての「時間の累積」である。
これと共鳴する芸術作品との出会いが、うれしいと思う。