午前中は、昨日に引き続きブラームスのピアノ協奏曲第2番を聴きながら、「日本美術の核心」の第5章を読み終え、第6章へ。
天気予報では、朝に雨が降るという予報と、夜から降るという予報があった。どちらが後からの予報だったか記憶にないのだが、結局は朝8時ころから降り始め正午近くまで降り続いた。21時以降再び雨が降るとの予報になっている。
昼食後は、雨があがったようなので二人で買い物へ。
夜は講演会で関内まで出かける予定。いったん帰宅してから出かけたい。
午前中は、昨日に引き続きブラームスのピアノ協奏曲第2番を聴きながら、「日本美術の核心」の第5章を読み終え、第6章へ。
天気予報では、朝に雨が降るという予報と、夜から降るという予報があった。どちらが後からの予報だったか記憶にないのだが、結局は朝8時ころから降り始め正午近くまで降り続いた。21時以降再び雨が降るとの予報になっている。
昼食後は、雨があがったようなので二人で買い物へ。
夜は講演会で関内まで出かける予定。いったん帰宅してから出かけたい。
杖を突いて歩くことのつらさや、道路での危険などはこれまでも記載した。今回は別の角度から。
日常生活がおおいに変わった。その第一はきびきびした動作ができないこと。全体に動作がゆっくりになってしまった。私も思っていたことだが、歳を撮った方は動作がゆっくりである。きびきびと動く40代までは、「鈍いな」と心の奥底で思っていたときもある。
50代になって長期入院を経て、退院直後には一時的に動作がゆっくりなったという実感があった。それ以降、高齢者の動作がゆっくりなことを厭う気持ちは消えたとおもう。
そして現在の状況はさらにひどくなった。まずパンツやズボンの脱着がつらい。朝の着替えに時間がかかる。パジャマを脱ぐのに時間がかかる。前かがみになれないので、椅子に座ってズボンを脱いで、リビングテーブルの端に手をかけてズボンを履く。この動作で5分以上かかる。さらに靴下を履くの3分はかかる。右足の靴下は片手でないと履けないので、靴下を右手で引っ張ってやっとの思いで履いている。靴下が敗れてしまったこともある。
ズボンを下げて便器に座るのも同じようにつらい。以前坐骨神経痛になった時に便所に手摺りを突けたので多少は助かっている。この手摺りがなかったらどうなっていたか。
そして浴槽に入ったり、出たりするときも以前につけた手摺りがないと危険である。手摺りがなかったら一人では入れない。しかもしゃがめないばかりか、風呂用の椅子が低いので、座るのも立ち上がるのも手摺りにつかまって掛け声をかけないとできない。お尻を洗うのも苦労している。
お風呂から上がって、パジャマに着替えるのに手間取り、布団に入るときには疲労困憊である。
足の爪を切るのも10分以上かかる。膝が曲げられないので、爪切りが足の指先に届かないのである。気合を込めて腰を曲げ、爪切りが足先に届いた一瞬に爪を爪切りの内部に入れて、思い切って切るという危ない動作を10回繰り返す。とても怖い。
台所で食器の後片付けや食事の用意を手伝うこともつらい。すぐに背中から腰にかけてだるくなり、食器洗いは3分も立っていられない。これは膝ではなく、坐骨神経痛の後遺症だと思う。
洗濯物を取り込むのは膝の屈伸が伴うので、これも妻にすっかりお任せである。
そして食事から立ち上がるとき、パソコン作業から立ち上がるとき、まだまだ膝に痛みが走る。掃除機をかけるのもまだつらい。体を前後左右にゆすることが出来ないのである。
多分、この一日の一連の動作を他人が見たら、こんなに鈍間になったのか、という感想を持つと思う。
外に出ても、階段では昇り降り、どちらの方向もゆっくりと歩かざるを得ない。後ろから来た若い人に舌打ちされることにはすっかり慣れた。
買い物に行っても高い棚の商品に手が届かなくなった。スーパーの買い物かごが重くなると、左右に体が振れてしまい、人によくぶつかる。
膝の具合はかなりよくなったが、普段の生活のリズムはまだまだ戻らない。動作が痛める前の7割程度でしかない。
私の場合はまだ回復の可能性が高いので、気分的には前向きになれる。梅雨が終わるころまでには元に戻っているはずだという気持ちがある。
しかしもっと歳を重ねて、筋肉の回復も思うようにいかず、回復の見通しもっと先延ばしになると気分は落ち込んで、気持ちが萎えてしまうと思う。
このように一連の動作がゆっくりになると、気分も落ち込み、動作に合わせて体内時計もゆっくりと進むようになっていると思う。体力と動作の機敏さでは、これまでは妻には負けたことは無かったのが、この半年、すっかり妻に労わられるのが当たり前になってしまった。
70歳を超えて、体が思うように動かなくなった時のつらさというのを先取りしたようなこの半年であった。
モーツアルトのピアノソナタとピアノ協奏曲の後に、ブラームスのピアノ協奏曲第2番というのも少々そぐわないと思いながらも、第3楽章のチェロのソロが無性に聴きたくなって実に久しぶりに棚から引っ張り出してきた。
ピアノはクリスティ・ツィマーマン、レナード・パーンスタイン指揮のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、1984年の録音である。
51分にも及ぶ大曲であるが、私はどうも第1楽章が好みではない。私の耳には合わない。しかしこの第3楽章のチェロのソロは初めて聴いた時からはまってしまった。
ただし初めて聴いたのがいつだったかは覚えていない。学生時代ではなく、横浜で就職してしばらくしてFM放送で聴いたと思っているが、定かではない。
このCDも全体を聴くというよりも第3楽章と第4楽章だけを聴いたことのほうが多いと思う。
昨日モーツアルトのトリルが美しい、と記したが、ブラームスはあまりトリルは使わない。そして短い音符に使うのだが、私はいつもその効果に疑問を感じている。しかしこの第三楽章の特に78小節から最後までのピアノのトリルと、鐘のように響く高音の交互の繰り返しは、聴くたびに心が広がる。当然にもモーツアルトとは異質の美しさを感じる。
多くの人が、ブラームスは甘ったるいというが、スコアを見ながら聴くたびに、手の込んだ緻密な構成力と、旋律を発展させる力技に感心する私は、甘ったるさを感じない。
太陽が時々しか顔を出さなかった。しかし気温はほぼ昨日と同じと思えた。湿度が高かった分爽快とはいえない。
横浜駅界隈で親に頼まれていたいくつかの用事を済ませてから、オフィス街にあるいつもの喫茶店に入ろうとしたが、席がないほどの混雑であった。ちょうど15時過ぎでティータイムということなのだろうか。
直射日光もなく、気温も温かいので、コンビニでコーヒーを購入し、公開空地と思われる小さな公園のベンチで読書タイム。端っこにある石製のベンチにいったん座った。近くに座っていた高齢の男性(私よりは年下らしいが)が突如大声でスマホで会話を始めた。さらにボリュームも最大くらいに上げているらしく、相手の声も大声で聞こえてきた。やむ無く10m以上離れたベンチに移動して、読書を続けた。それでも十分に喧しかった。
外であれだけの大声を出し、スマホのボリュームを10m先まで響かせて聞くというのは、難聴がかなりすすんでいるのだろう。自分も気を付けたいと心から思った。あれだけの迷惑を周囲にかけることのないように、のちのち、私に遠慮なく注意喚起をするよう妻と娘には頼みたいものである。私自身が大きな音が大嫌いである。集音マイクではなくきちんとした補聴器も購入したいものである。
先日のフラワー緑道で撮った写真を加工してみた。どうもしっくりとこない。これ以上はいじくってもどうにもならないようなので、諦めた。
本日は右膝の治療で整形外科でリハビリを受けた。今週の日曜からかなり調子がいい。今週はまだ杖を突いて歩いていない。
階段も下るときはゆっくりであるものの、手摺りにつかまらずに降りている。ただし昇り階段はつらい。先に昇りのほうが楽になるのかと思っていたが、下りのほうが先に楽になった。
本日は昨日よりも少し痛みを感じるが、杖に頼ったり、歩くのに支障となるようなほどではない。
明日は曇りでところにより雨、という予報だが、親から依頼された用事があって横浜駅まで出かけなくはならない。傘はリュックに入れて出かける予定。杖はできれば使わずに済ませたい。これよりメールをいくつか送信してから就寝準備。
本日は友人に進められてモーツアルトのピアノ協奏曲第13番を聴いている。
ビアノは内田光子、ジェフリー・テイト指揮、イギリス室内管弦楽団。1987年の録音。ネット情報によれば、11番、12番とともに予約演奏会のために作らり、1783年にオーストリアのヨーゼフ2世隣席のもとで演奏されている。
第1楽章から、いかにも宮廷華やかりしころの雰囲気を醸し出していると感じる曲である。華やかな第1楽章とは対照的に第2楽章は可憐な曲。オーケストラにトランペットとティンパニーが加わり、大きな編成と音を背景にしているにもかかわらず、この第2楽章ではオーケストラは少々手持無沙汰なのかな、と余計な心配をしてしまう。しかし第3楽章のロンドに至って、余計な心配だったと思わせる。
なかなか玄人受けのする曲かもしれない。もっとも勧めてくれた友人はプロである。私の感想など笑い飛ばされそうである。曲の構成的な分析などのレクチャーをしてもらえると嬉しいと思っている。
個人的な感想をもうひとつ、モーツアルトはトリルが美しいと思う。モーツアルト曲を聴くたびにトリルがメロディーに溶け込んでいることに感嘆する。
好天気に誘われて、フラワー緑道を散歩。汗が滲むほどのウオーキングにはまだ自信がないので、ユックリと歩いた。杖は使わなかった。
コンビニで購入したサンドイッチとお茶の昼食をベンチで。陽射しは眩しいが、気にせず30分ほど日光浴。
写真を幾枚か撮ってみた。蝶とテントウムシと蜂が飛び回っていた。
その後所用を済ませて、これより、居酒屋へ。まだ陽が高い。
やっと陽射しを浴びた。太陽が空に現れた。私の5月のイメージの天候である。現在は五月晴れという言葉はこのような天気を指していると思っている。本来は梅雨時の晴れ間をいう言葉であるらしい。誤用が一般化した例らしい。
誤用ではないが、私の言葉使いのこだわりをひとつ思い出した。「太陽の顔を見た」という表現は、目に危険な行為なので使わない、という話を聞いてから同調している。私のつまらないといえるかもしれないこだわりである。実際に太陽を見続ける人はいないと思う。
本日は先日購入したばかりの半袖のポロシャツ。半ズボンはまだはかない。
このような好天気で過ごしやすい日は散歩日和。フラワー緑道を歩いてみたい。
私の予報というな勘は見事に外れて、午後4時近くまで雨は降り続いた。しかしかなり小雨になったので、杖を突かず、傘をさしていつもの内科で短時間の受診後、フラワー緑道を歩いて横浜駅まで。雨はほぼ上がっていた。
フラワー緑道ではアジサイをスマホで撮影してみた。もう一株、赤い小ぶりの花のアジサイが美しかったが、高いところにあり、1mほどの高さの花壇に登らないと撮影できないので撮影は断念。膝に痛みが残る私にはとても無理。次回は下からの視点で撮影してみたい。
横浜駅では、いつものとおり書店をのぞき、家電量販店でプリンターなどのパンフをめくり、喫茶店へ。コーヒーは注文したものの一口も飲まずに店を出た。喫茶店では15分ほど「日本美術の核心」の第3章「そこにあるのは「美」か、「真理」か」を途中まで読んだ。
明日は昼前から出かける。帰宅は夜遅くなる予定。明日はかなり気温が上がるようなので半袖がいいかもしれない。半ズボンにするか、悩みどころ。
15時ころには雨は上がっていたらしい。16時にバスにて横浜駅まで出向いた。特に用事があるわけでもなかった。横浜駅についたころ、少しだけ雨が降り始めたけれどもすぐに止んでくれた。
本日も右膝の具合はかなり良い。家を出てから近くのバス停までの歩き始めは痛みがあったが、途中から痛みが無くなった。横浜駅で下車し、地下道への階段を降りるとき、手すりにつかまらなくとも、それなりの速さで降りることが出来た。帰りの道も痛みはほとんど感じなかった。
しかし本日の歩数は3500歩に満たない。普段は買い物など近くのスーパーに出かけたり、横浜駅まで出向くにも8000歩前後歩いている。8000歩程度歩いてみないと、比較にはならない。
明日の予定はとりあえずはない。そろそろ机の上の整理をしなくてはまた雪崩が発生しないとも限らない。書類の整理も必要である。ということで早めに就寝したいものである。
朝から少し気温が低いことをのぞけば梅雨のような天気。
雨で、出かけるのが億劫。横になりながら「日本美術の核心」の第2章「デザインへの傾斜」を読み終わった。
「辻(惟雄)は日本美術のオリジナリティを分析し‥「飾る喜び」と「遊技する心」の二点を大きな柱に据え‥“装飾的”というやや消極的なニュアンスで説明されがちであった日本美術のデザイン性を、“かざり”をキーワードに論じている。‥辻は「日本の装飾美術の大きな特徴は、衣装の多彩な変化、一作一作が皆違うといってよいほどの非画一性」にあると述べている。‥デザイン性の高さが日本美術の大きな特色である‥。」
午後からは「日経サイエンス6月号」を拾い読みの予定。雨が小やみになったら出かけてみたい。