退職者会の幹事会は無事終了。発送作業が大変であった。いくつかのブロックがそれぞれの事情で発送物の重量が違う事態となり、重量の違う郵便物が一部混在してしまった。
幹事会後に数人で再計量などの作業に1時間。
こういうときは疲れがどっと出てくる。減量中で体力が落ちているときは尚更。
早々に冷たい酎ハイでも飲み干したいものの、18時より講演会。20時まではお預け。医師からは外呑みは週1回といわれているが守れる自信なし。
講演会場まで歩いた。大雨・洪水・雷・光化学スモッグ注意報・竜巻注意情報が出ていたものの、今のところその気配はなかった。
暑さは身に沁みた。
本日もかなりの暑さのもよう。30度以上の時間が夜遅くまで続くとの予報もある。
本日の退職者会の幹事会の前には会員へのニュースや資料やチラシの発送作業がある。その準備作業を数人で行ったが全員汗だく。
封筒などの事務用品、チラシ数種、新聞・・・。毎回のことながら紙は重たい。腰も腕もパンパン。ようやく一息ついた。
これより役員会。
最高気温は34.1℃、昨日よりも少し低かった上に多少風があり、昨日よりは楽だったと言えるのだろうか。
しかし妻は昨日の昼過ぎに出かけてうんざりしたようで、本日は引きこもり。食材二つの購入を依頼された。私も午後すぐには出たくないので、15時半ころにようやく出かけた。
頼まれた食材二つの外に、二つほどの事務用品を購入するために出かけた。歩いて駅まで出かけたので、一服するために喫茶店に入ったものの2軒とも満席。涼んでいる人が多いのであろう。2軒目の店で諦めようとしたらたまたま席を立った人がいたので、座れた。かなりラッキーだったようだ。
ここ数日、運動のための昼間のウォーキングは暑さのため断念、体重は現状維持で減量は停滞中。
本日の夕食に、いつものドレッシング抜きの野菜サラダと野菜スープの外に、久しぶりに炭水化物として、冷凍してあった鯖寿司を一貫。きわめて味が濃く感じられた。昔からかなり薄味の我が家、さらに減量中はほとんど味をつけていない。購入したり店で食べるものの味の濃さにはなかなか慣れないものである。
明日の退職者会の役員会・幹事会の資料の準備はほぼ出来上がった。朝早く出かける。明日は猛暑復活らしいが、最高気温を記録する時間帯はありがたいことに多分建物の中。
本日の午前中は昼間で団地のボランティア活動で草刈りの屋外作業。さすがに暑さで参った。作業時間が終わる正午直前には35℃に達していたかもしれない。
シャワーを浴びて、昼食後はベッドで1時間ほど睡眠。寝ている最中に両手指と足の爪先が攣ってしまい、慌てて湿布薬を塗って再度寝た。目が覚めた時にはなんとか痛みは取れていた。
14時過ぎに35.6℃と猛暑日となっていた。ちょうどそのころにふたたび外出して今度は近くのJRの駅まで出向いて喫茶店で涼もうとしたら、どこも満席。やむなくオフィス街の広いコンビニのイートインコーナーにもぐりこんだものの、満席でテーブル席も相席となった。
読書する雰囲気でもなく、午前中の疲れと、駅までのウォーキングの疲れもあり、ボーッと1時間ほど涼んでから遠回りをしてバスにて帰宅。近くの公園ではサルスベリの赤い花が目立っている。
帰宅後は、退職者会のブロックニュースの最終校正を行い、記事をひとつ追加した。夕食後に印刷を開始。
両腕の筋肉の疲労でキーボードを打つのがつらい。時々打ち間違える。午前中に年甲斐もなく少し頑張りすぎたようだ。
もう新しいお札は銀行からおろせるのだろうか。市中に出回っているのだろうか。そんなことをふと考える場面に出くわした。
地下街の通路のど真ん中で、歩いている私の方を向いて立ち止っている60代くらいの男がいた。どうも財布からお札が10枚ほど見えるようにして数えている。真新しいお札らしいということは判ったが、視力が落ちている私にはそれが旧札のピン札なのか、新札なのかはわからないが、色彩は鮮やかに見えた。まして千円札か5千円札か1万円札かまでは判然としない。どちらにしろ、危なっかしいことをするな、という程度で通り過ぎた。
ここから先は小学校・中学時代の思い出。どこの学校でも、見せたがり屋というものはいて、新しいものをまず学校に持参して得意げに見せたがる。どんなものでも大概は2週間もすると市中に出回って、珍しさは無くなるのだが、この1~2週間の振る舞いは得意の絶頂である。
どうやってこの新しいものを手に入れるのかはわからないが、小学校のうちは羨望のまなざしで、うらやましがられる。中学生になると、2~3回繰り返すと飽きられる。高校生のときはそんなことをするのは見かけなくなった。あるいはそのような人間とは付き合わなくなったというほうが正しいか。
しかし就職してみると、不思議なもので新しい電子機器、とくに携帯電話、OS、ソフト、スマホなど休暇を取って徹夜で並んで購入して、他の職員に自慢して回る職員に出くわしたことがある。その得意満面な顔を見て、これが30代の人間のはしゃぎようか、とおどろいたものである。
あまりつき合いたくはない職員だったので、会話もしなかったが、新しい商品・ものに飛びつく人は何処にでもいるんだ、歳に関係ないのだ、と思ったことを思い出した。
本日すれ違った還暦を過ぎたばかりのような人もそんな人であったのかとふと、懐かしさがこみあげてきた。新しいお札を見せびらかしたかったのだろうか。あるいは私の勘違いか。
新しいものには飛びつかずに、じっくりと見極めて廃れないものばかりを購入してきた私は、多分この世にさよならする時まで、そのように過ごすと思う。いつも少しばかり時代遅れではあるのかもしれないが、それもまたいいものである。時代から少しだけ遅れて、且つ一歩離れてじっくりと観察すると、見えてこなかったものも見えてくるものである。そのほうが楽しいし、世の中がそれなりに見渡せる。
最高気温が14時前に33.5℃という気温の最中、少し遠回りして横浜駅まで。いつも入るオフィス街にある喫茶店まで行こうとしたが、汗もだいぶかいて疲れたので、手前の地下街の喫茶店に入った。
しかし満員の喫茶店、ようやくあいた席に座ったものの、声の大きな若い女性ふたり連れのけたたましい会話のために読書にならず、汗が引くと同時に早々に退散。
お喋りな人の典型で、直接話法、読点がなく文章に終わりがなく、その場にいない人が常に悪者、結論に辿り着く前に寄り道の長い会話が果てしなく続く。しかも大きい声。
やむなく、書店、家電量販店、百円ショップ、ドラッグストアをグルグル回ってみた。足の疲れが癒えないので、もう一軒の喫茶店に入って、うつらうつら。ひどい目に会ったものである。
帰途も途中まで遠回りで歩き、途中からバスに乗車。帰宅してみると汗だくで1万3千歩ほど。腕はだいぶ日に焼けたようだ。疲れて一寝入りしてしまった。
こういう不愉快で疲れた日は、諦めて早寝に限る。
「20.西行から芭蕉へ」、「21.文化史の巨人・西行」、「おわりに」に目を通し終わり、「西行 歌と旅と人生」(寺澤行忠、新潮社)を読み終えた。
芭蕉の西行の歌を念頭に措いた句について、これまでは知らなかった多くの指摘があり、参考になった。
しかし芭蕉は西行の歌や生きざまに何を見、何を汲み取ろうとしたか、何を捨象したか、判らないところがある。芭蕉という俳人について自分が理解できていないことの証左であるのだろう。
「通常の社会生活を断念ないし放棄した人間が、かえって同時代ならびに後代に、きわめて大きな影響を与えたことは、歴史上の一種のパラドックスとも言うべく、単に和歌史の上のみならず、思想史、文化史の上で、稀有の存在・・」(21.文化史の巨人・西行)
この結語については、これまで幾度も違和感を記載した。時代や社会との格闘・軋轢、政権上層部との意識的な接近と緊張感こそが、西行説話の源である、という私の持論は手放したくない。
本日も雨に遭遇してしまった。夕刻近く外に出たら大きな雨粒が落ちてきた。次第に激しくなり、5分後には傘に叩きつけるように降り始めた。傘を持参していなかったらびしょ濡れになるところであった。失敗はザックカバーをザックの中に入れていたのに、すっかり忘れていたこと。中の本が少し濡れてしまった。大事には至らなかった。
本日は昨日とは違い、一人居酒屋。ハイボール2杯を冷奴ひとつで。安く飲んだ。直前に有隣堂で購入した水木しげるの「厳選集 異」(ヤマザキマリ編、ちくま文庫)の中から2編程を詠んだら眠くなってきたので、本を綴じた。水木しげるは1970年頃から時々読んでいた。好感の持てる作品が多かった。
★「一番病」 現役時代の自分を思い出してしまった。上昇志向はなかったが、労働組合の役員として、多分に上昇志向のバイタリティーと同じようながつがつとした人生であったことは否定できない。
★コケカキイキイ 顔に似合わず“実力闘争”も辞さない体制へアンチを取り続ける妖怪。妖怪の出自は国に捨てられた老婆、親に捨てられた赤子、飼い主に捨てられた猫、宿主が死を迎えているシラミの生きる執念が合体して結実したもの。現代にもよみがえらせたい気がする。
1969年、1970年の作品である。あの時代を彷彿とさせる。時代を象徴した作品群に敬意。
本日は午後からは予報よりも強い雨が降ったようだ。帰宅間際にも時間雨量換算で最大30ミリの雨の区域が通過していた。気温も低かった。最高気温が25.8℃。
短いズボン、サンダル履きという姿は少々横浜駅から石川町駅界隈では浮いていた、というか目立った軽装であったと思う。
帰宅時のバスの中でもこのような恰好は私一人。恥ずかしかった。しかもバスを降りてから、小さな傘でリュックも濡れ、ズボンにも雨がかかり、サンダルと足は雨でぐちょぐちょ。
さすがに玄関ドアを開けて中に入るのは気がひけた。
明日も雨もよいの一日であるらしい。最高気温は30℃まで上がるということなので、かなり蒸し暑く感じそうである。明日は短いズボンとサンダル履きで出かけるのはまずいので、現役時代に通勤で履いていたズボンを引っ張り出してきた。楽に履けるようになったのはとても嬉しい。
(追)先ほどのニュースでコロナは第11波に突入か、といっていた。薬も病床も逼迫し始めているらしい。5類に引き下げたものをどのように取り扱うのか。それ以前に現政権に対処能力があるのか、はなはだ疑問である。
午前中は、先週の採血と採尿の結果と診断、薬の処方などのためにかかりつけ医へ。さまざまな数値はかなり改善、ほぼ正常値に戻っていた。医師に褒められるて一喜一憂するのは情けないが、減量の成果ということで素直に喜んでおこう。
ということで、薬の処方は今まで通り、減量も続けるということで、次回は8週間後。減量の目標値に達するであろうか。
病院は診察を待つ人も多く、薬局で薬をもらったのが正午間際。頼まれた買い物をひとつしてバスにていったん帰宅。
午前中はポツリポツリと傘をさす必要のない雨だったが、帰宅直後に音を立てて雨が降り始めてびっくり。1時間も経たずに一応雨はあがり、蝉がふたたび鳴き始めた。
いったん途切れた雨の区域はふたたび西から迫ってきている。これから出かけるのが億劫になってきたが、サボるわけにはいかない。
本日の午前中は家の北側の草取りを6㎡ほど。やる予定の半分ほどで本日は終了。腰がずいぶん張ってしまった。高さ30㎝ほどの椅子に座りながら、草刈り用の電動バリカンを使用したものの、前かがみの姿勢はつらかった。
残りは今度の土曜日にでもするつもりでいる。予定が入らなければという前提である。
退職者会の私の属するブロックの会報、娘に見てもらって散々に修正を指摘された。今回は自分で印刷するものなので、印刷会社にお願いはしない。ということで身内に校正してもらった。直すべきところはすぐに直し終わった。しかしこれほどまでに直されるとは思っていなかったので、それなりに落ち込んでいる。
原因は、退職者会ニュースよりも身近な仲間ということで、慣れ親しんだ表現や省略した言い回しをしてしまったこと。第三者の目から見れば、伝わらない表現であったことを的確に指摘されてしまったということであろうか。おおいに反省中。
明日の午前中は通院。減量を強く申し渡された医師の診察である。一応目標よりは大幅に減量しているので、血液検査の結果がいい方向に出てくれているといいのだが。
医師の指導の下での減量なので、気力を奮い立たせるのは大変であるものの、42年前の減量よりは安心といえば安心である。
8週間でとりあえず8キロの減量にはなった。これからは減量のスピードを少し落としながら、そしてリバウンドしないような方策を真剣に考えないといけない。それは医師との相談である。
明日の夕方からは組合の会館で退職者会の打合せ。打合せの始まる頃から雨の確率が60%となっている。ただし降雨量は0ミリなのでポツリポツリといったところか。日付の変わるころまで続く予報である。残念ながら傘は必携。
本日は「18.示寂」と「19.西行と定家」を読み終えた。
有名な西行の一首を引用している。
★願はくば花の下にて春死なむ その如月の望月の頃 (山家集)
著者も記す通り、西行の死よりも10年も前に編まれた「山家集」所収であるから、所謂辞世の歌ではない。
しかし実際にこのような時節に亡くなったという。1190(文治六)年2月16日、73歳での死である。
西行の死に接して交流の深い歌人の歌が並べられている。
★願ひおきし花の下にて終わりけり 蓮の上もたがはざるらむ 俊成
★望月の頃はたがはぬ空なれど 消えけむ雲の行方悲しな 定家
★君知るやその如月といひおきて 詞におくる人の後の世 慈円
このようにして西行伝説は生まれていった。著者も「日頃の願いを詠み置いたものと解釈」「誠実に生きた人生の、まさに大団円というべき終焉」(18.示寂)と記している。
しかし私は、昨日のようにこの「願はくば花の下にて・・」の一首にも、「現実過程」と「西行の理想」の落差、どろどろとした現実に苦闘する西行の像をより強く想像してしまう。
現役時代も、退職後も日々の人々との軋轢や、組織のしがらみの中でもやもやしながら、深夜にふと「死ぬときくらい、こんな死に方にあこがれるな」と漏れ出てくるため息に似た「願はくば花の下にて・・」ではないだろうか。
たまたま終焉がそうであったとは、うらやましいのひとことである。大団円などとは違うのではないか。
実は、昨日引用した歌についても慈円の哀悼歌を引用している。
★風になびく富士の煙の空に消えて 行方も知らぬわが思ひかな 西行
★風になびく富士のけぶりにたぐひにし 人のゆくへは空にしられて 慈円
定家も慈円も知っていたのではないだろうか。西行という人格が伝説化されるだけの力があること。その根拠は、死が日常化しているような災害と争いの時代に、現実の政治的な諸関係の格闘の中で、ふと漏れたため息のような歌群を作り続けたこと。武家と貴族・天皇、源・平・奥州藤原の複雑な関係を豪胆にかつ手玉に取るように躱し続けた力技が多くの人をひきつけていること。
これらが合わさって臨終の様が伝説化されていく必然について十分承知していたと思われる。定家の「紅旗征戎 我がことにあらず」(明月記)という強い決意ながらも、定家自身は後鳥羽院政に振り回され、承久の乱に遭遇し、御子左家の家の確立に奔走せざるを得なかった。
そんな定家と西行は似通っているという視点を私は持っている。西行は「我がことにあらず」とは言わなかったが、遁世しつつ現実過程を正面から引き受けたように推量している。それが最晩年では奥州への旅となり、頼朝との駆け引きであったのではないか。
こんな思いを数十年ぶりに思い出している。
「西行 歌と旅と人生」の「16.神道と西行」、「17.円熟」を読み終わった。
西行の最晩年の歌として有名な歌がある。
★風になびく富士の煙の空に消えて 行方も知らぬわが思ひかな (新古今集)
この歌について「(慈円は)西行自らが、この歌を自嘆歌の第一にしていたという事実を伝えている。この歌によって、歌いたいものを歌い切った、という強い思いがあったのではなかろうか。西行の歌人としての生き方を締めくくる生涯の絶唱」(17.円熟)と記載がある。
私もこの歌がとても気に入っている。しかし私は、「歌いたいものを歌い切った」という断定には与したくはない。歌自体からは「煙の空に消えて 行方も知らぬ」という句からはどこか諦念のような、あるいはもどかしさすら漂ってくると私は感じている。
人間、そんなに「やり切った」という満足感というのは生涯の末近くなったという自覚のある時に訪れてくる感慨であろうか。あったとして「ここまでだったか」「時代は自分の思うところには行きつかない」という諦念の方が私には大きいような気がする。
その私の気持ちをさらに強くするのは、次のエピソードがその後に起きているからである。
1186年、鎌倉に辿り着いた西行は頼朝に面談を求められ(頼朝が鶴岡八幡宮で偶然西行を見かけたことになっているが、私は事前に何らかの互いの水面下の折衝があったと当然のように思っている。西行はそのような駆け引きもきちんとこなす人である)、「歌道ならびに弓馬のこと」を下問されている。最初は「弓馬」=兵法のことは「罪業の因たるによって、その事かつて心底に残し留めず、皆忘却しをはんぬ」と断っている。
幕府を開く直前、平家から取り上げた荘園を500余を得、関東6か国を知行する権力の頂点をめざす武家の棟梁に対して「(兵法のこと)皆忘却しをはんぬ」とは豪胆な言いぐさである。現在に当てはめれば、東京都知事に面談する段取りとなり「あんたの政治に利するようなことなんか言わないよ」と開き直っているのである。たいした度胸である。
何しろ、平家との人脈が強く、奥州藤原氏との同族という家柄であり、家を継いだという弟は荘園の利害で源氏とは相容れない関係である。首が飛ぶ緊張感が漂う面談である。吾妻鏡の記載は、ひょっとしたら頼朝による西行の連行・取り調べではなかったのかと勘ぐることもできる。
頼朝が面談を請うたのは、奥州藤原氏の動向、平家の動向というなまぐさい背景がある時期である。出家者であり、政権に近い歌人であっても、この面談の背景は生臭い。結局西行は無理強いする頼朝に根負けする形で「弓馬のこと」を話をしているが、どのようなものであったかは詳らかではない。それほど血なまぐさい政治が、政権に近い貴族や武士・僧侶の周りには渦巻いている。
だからこそあの西行の歌群が生まれたのである。この有名な吾妻鏡の挿話があるかぎり、「歌いたいことを歌い切った」という境地ということには与したくない。
二度目の奥州紀行で秀衡から砂金の寄進を得て文覚の依頼を達成した西行は、京都の嵯峨にすむ。「聞書集」の「たはぶれ歌」13首から10首を引用している。私も好きな歌である。ここでは冒頭の1首をあげると、
★うなゐ子がすさみに鳴らす麦笛の 声におどろく夏の昼臥し
この「たはぶれ歌」13首の方が、私には最晩年の境地が漂ってくるように思える。
本日は、きわめて蒸し暑かった。午前中は時々晴、太陽が照るたびに予報が外れ9時ころまで降っていた雨が蒸発して蒸し暑さがつのった。
午後になってから出かけた。当初は図書館か公会堂で暑さを凌ごうかと思っていた。図書館は遠いので、公会堂まで歩いた。しかし小さな子どもがたくさんいて、断念。
土・日は割と空いているいつもの喫茶店まで行ったら、本日はどういうわけか混雑。我慢して外のテラス席に座った。初めは日陰だったが、太陽と反対側にあるオフィスビルからの反射光が挿し込んできて、直射日光に当たったいるような具合になってしまった。
昨日と同じくらいの歩数を歩いた。昨日とは違い、かなりの運動量になった。そのかわり汗だくになって帰宅しシャワーを浴びている間に、すべての着衣は洗濯機に放り込まれていた。
一昨日、団地の中で来年初めて蝉の声を聞いた。一昨日・昨日はミンミンゼミの鳴き声であった。本日の夕方に聞いたのは、アブラゼミの声に聞こえた。