Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

減量中

2024年07月05日 20時17分07秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 夕食までの間に、印刷会社から贈られてきた校正刷りを点検して3校まで作ってもらった。つい先ほど校了。いつもながら素早い対応に感謝である。予定より1週間早く出来た。これで7月22日の幹事会に納品してもらえる。肩の荷が降りた。

 いつもなら、肩の荷がおりて、少し余計にお酒に手を伸ばすのだが、かかりつけ医の指導で減量中のために自重。マイナス5キロから、減量は停滞している。この壁を乗り越えないと次に進まない。耐えどころである。
 以前に減量したときにも、壁はいくつもあり、それを乗り切ると次のステップは意外と楽であった。若い時のようには短時間での減量は無理だが、リバウンドしない減量にしたい。
 30歳の時の17キロの減量はリバウンドしなかった。25年かけて少しずつ8キロほど元に戻った。その後の体重増は想定外。せめて50代後半の体重に戻りたいものである。

 


ウォーキングで心地よい汗

2024年07月05日 19時30分24秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 本日も熱中症警戒アラート・光化学スモッグ注意報・雷注意報が出た。3日連続である。14時ころに最高気温34.3℃。昨日より0.4℃低いとはいえ、また暑さに少し慣れてきたとはいえ、体には良くない気象条件である。

 こんななか、となりのターミナル駅のそばのショッピングセンターまでウォーキング。日陰の道を縫うようにして5千歩ほど歩いてから到着。すぐには暑さと汗で買い物もできないので、喫茶店で一服。大きめのハンカチもすぐに濡れてしまった。
 買い物の目的は、運動靴とサンダルがぼろぼろに見えるようになったので、ウォーキングシューズと軽いウォーキングにも耐えられる少し高めのサンダル。合わせて1万4千円ほど。そのほか百円ショップなどで買い物をしてから、帰途もウォーキング。

 帰途の途中のコンビニでヨーグルトと塩飴でさらにひと息。帰宅したら1万歩を超えていた。二日続けてウォーキングで心地よい汗を大量にかいた。着ていたものはぐしょぐしょのため、シャワーののちは着替えてクーラーで体を冷やし、疲労回復のため梅干しをひとつ口に入れてから15分の昼寝。

 贅沢と言えば贅沢な一日の過ごし方である。


横浜も34.7℃、光化学スモッグ注意報

2024年07月04日 22時54分42秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 やはり本日も熱中症警戒アラームに加えて、光化学スモッグ注意報が発令された。昼は娘と親と4人で横浜駅でイタリアンの店で昼食会。私は医師の指導で減量中のため、ズッキーニのステーキとワインを少々のみ。手が伸びてパスタを食べないように、と念じていたが、意外とその誘惑は起こらなかった。摂食がすっかりなじんでいるようだ。
 この店、パスタの量が多い様で、私以外の3人はたらふく食べたが、持て余していたことも確か。3人とも少し残していた。

 14時までお付き合いののち、私は所用のため別れた。ウォーキングがてら、横浜駅近くを歩いて、待ち合わせ場所へ行き、所用を済ませた。13時過ぎに最高気温34.7℃を記録した横浜の街中は日陰であっても茹だるような暑さで、頭から汗を大量にかいた。待ち合わせ場所の喫茶店で涼んでようやくひと息。雷や雷雨とならず、ホッとした。
 所用を済ませてから、夕方の通勤ラッシュの東横線に乗り、副都心線に乗り入れて新宿駅経由で大久保駅まで出かけた。大変な混雑であった。
 大久保駅近くの居酒屋での会合は短時間でおいとま。食べたのは焼き鳥1串とハイボール1杯半のみ。ここでも食べたいと思わなかった。
 自分で自分にかけた摂食の暗示が効いているようなもの。朝は野菜ジュース1杯、昼と夜で焼き鳥1本とズッキーニ1本だけであった。ただしワイン1合くらいとハイボール1杯半が余計だった。

 横浜駅までは空いており、新宿三丁目駅から座ることが出来たのは幸運であった。


熱中症警戒アラート・雷注意報

2024年07月04日 11時18分21秒 | 天気と自然災害

 本日の神奈川県では、すでに熱中症警戒アラートが気象庁から発表されている。横浜市域には雷注意報も発表された。多分昨日のように県下に光化学スモッグ注意報も出される予感がしている。

 本日はこれより出かける。熱中症や雷注意報、ひょっとして光化学スモッグと外に出ると、これらのリスクは高まるが、レジャーなどではないので、予定通りにこなすしかない。

 帽子、大きめのハンカチ2枚、そして途中で購入する飲料水は必携。
   


「西行」から 3

2024年07月04日 10時42分35秒 | 読書

   

 昨日西行の歌で今回惹かれたものを引用した。追加で3首。西行の述懐の歌に惹かれる時もあるが、今回は自然詠に惹かれている。

★横雲の風に別るゝしのゝめに 山飛び越ゆる初雁の声    (新古今集)
 この1首が定家の有名な「春の夜の夢の浮橋とだえして 峯に分かるる横雲の空」に影響を与えた、という指摘がかかれている。

★白雲をつばさにかけて行く雁の 門田の面の友したふなる  (新古今集)
 この1首は記憶に残っていなかった。

★古畑の岨の立つ木にゐる鳩の 友呼ぶ声のすごき夕暮    (新古今集)
 荒れた畑の傍に立つ多分異様な姿の木、そこで鳩が不気味な声で「友」を呼ぶ。荒涼とした寂しい風景と声に「友」が配され、人との関係を求める西行の孤独感が醸し出される。自然詠でありながら、述懐・感傷と一体。このあたりが西行の魅力とされるのであろう。

 


ウォーキングと日焼け

2024年07月03日 20時24分34秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 本日の午後は親の通院2箇所の付き添い。午後2箇所も回ったのは高齢の親にとっては体力的につらかったかもしれない。3時間程度かかり、私も疲れた。しかし行きも帰りも、病院間の移動もタクシーを利用したので、あるいた歩数は700歩程度。戻ったのは16時30分に近かった。

 帰宅後、団地の周囲をかなり大きくぐるりとまわり、一周で約8000歩程度のウォーキング。かなりのスピードで歩くことが出来た。帰宅すると汗が滴り落ちるので、シャワー室にそのまま押し込められた。
 夕方になってから歩いたものの、陽射しはそれなりに強烈。夕陽に向かって歩いたので日焼けが進んだ。シャワーを浴びるとお湯が沁みた。気分は爽快。

 夕食後はウォーキングの疲れが出たのか、30分ほどウトウト。


「西行」から 2

2024年07月03日 11時40分27秒 | 読書

   

 「西行 歌と旅と人生」を読んでいる。「5.西行と旅」、「6.山里の西行」、「7.自然へのまなざし」まで読み進めた。

 今回は「桜」や「旅」の歌よりも、山里での生活で詠んだ歌や自然詠にどういうわけかとても惹かれている。著作者の引用の仕方にもよるのだろうか。「旅」の歌が少し感傷に過ぎるように思えた。

★きりぎりす予寒に秋のなるまゝに 弱るか声の遠ざかりゆく  (新古今集)
★岩間とぢし氷も今朝は解けそめて 苔の下水道もとむらむ   (新古今集)
★ほととぎす深き峰より出にけり 外山のすそに声の落ちくる  (新古今集)

 どういうわけか新古今集に取られている歌が多くなっている。とくに「弱るか声の遠ざかりゆく」という歌の、秋の深まりとキリギリス(コオロギ)の生命の弱まりを「遠ざかりゆく」という物理的距離に転換していることが新鮮に感じられた。
 一方で山里での生活や、自然詠でも

★山里にうき世いとはむ友もがな くやしく過ぎし昔かたらむ  (新古今集)
★心から心に物を思わせて 身を苦しむる我が身なりけり    (山家集)

などの西行らしい感傷の勝った歌も多数あるのだが、今回はあまり惹かれなかった。


世の中の縮図

2024年07月02日 18時55分00秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 本日の喫茶店、とても読書に集中できなかった。席を変わったものの、イライラとした気分が納まらなかった。

 私が座った席に後から、至近距離の隣の二人掛けの席が埋まった。若い物静かな女性が座り、対面に年上の女性が座り、面談らしきものを始めた。話の内容は隣の席の私に筒抜けである。
 しかし話の内容はいたって深刻。若い女性は派遣された職場で、ハラスメントもどきの扱いを受け、派遣元に訴えたらしい。その聞き取り調査のようであった。物静かな若い女性は、誠実そうで好感は持てるが、的確には状況が説明できないところもある。端で聞いていてもどかしい気分も伝わってきた。
 聞き取りの女性は、ノートに派遣先の職場にいる職員の配置図、氏名などを記入し、話は進んでいった。聞き取りをしている女性は経験もあるようで丁寧な説明はしている。要領も良さそうである。しかしそこに血が通っているかどうかは、私は判断はできない。
 この若い女性は、ハラスメントをした社員に抗議の意思表示はしたようだ。ハラスメントをした職員は謝罪の意向は示しているようだが、被害を受けたこの女性にとっては、それだけでは納得はいかないようだ。ここについては私も十分了解できる。

 私がイライラしたのは別のことである。こんな大事な相談事を、しかも個人名が飛びかうような聞き取り調査を、短時間利用の一服客を対象にした喫茶店で、そのうえ狭い席の隣の私に筒抜けの会話で、済ませようという派遣会社の対応のひどさである。
 派遣先職場とは離れているのかもしれないが、少なくとも派遣元の会社の一室で、彼女の発言や訴え内容が外に漏れないように配慮する義務があるはずである。
 こんな派遣会社に採用されているこの若い女性にいたく同情した次第である。聞き取り調査をしている女性の対応がひどいものではなさそうなのが少しは救いであったが、それでもこのような喫茶店を選択したのが、彼女であることにもイライラした。

 相談を求めている若い女性は、一人では決して強くはない。労働組合もないのであろう。働くものを守る仕組みが、派遣企業の苦情処理のシステムしかないというのも悲しい現実である。

 この件が、相談を求めている若い労働者に良い方向で解決されることを切に願いたいものである。


「老いの深み」から 5

2024年07月02日 11時30分07秒 | 読書

   

 黒井千次の「老いの深み」を読んでいて、不思議でもあり、「そうだな」と同意する視点でもある箇所に出会った。「遠景への関心を忘れず」という題がついている。

 欅の巨樹に夕刻に群れる小鳥の大群の描写と、電線に止まる鳥の並び方の決まりを類推する描写があり、次のように結んでいる。
(鳥の並び方は)いわば遠景の中での出来事であり、近景とは切り離された外界の事情で動くものである・・。離れた光景は見るのが面倒で近づきたくないから、その眼を自分のすぐ足もとの衣類や紙屑籠などに向けてしまうのではあるまいか。この面倒臭さ、対象との距離の遠近の感覚が、遠景を遠ざけ、近景ばかりでことをすませようとしているのではないか――。近くの自分が見えなくなるのは困るけれど、しかし遠くの自分が見えなくなるのもまた困る。遠景の中の自分はどこに居て何をしているのか――。せめてその関心くらいはどこかにそっと育てていたい。

 引用の後半部分が何とも不思議な視点である。「外界の事情で動く」「遠景の中の自分」とは何を指しているのか、ふとわからなくなりながら、惹かれた箇所である。遠景・近景の距離を、自己と社会との距離感に置き換えてみてもいいだろう。「遠景」に社会との葛藤にもがく自己を投影すれば良い。
 年齢とともに人の関心は、内向きになりがちである。他からの強い働きかけがないと、社会に対して視線は向けられなくなる。
 私は「そっと育てていく」のではなく、「人との交わりを通して、身の動く限り、近景に目配りしつつ、遠景の中でもおおいに泳ぎ続けたい」と思っている。もがき続ければ、身が動かなくなっても、見続けることはできる。

 私は欲張りすぎるのであろうか。


読了「図書7月号」

2024年07月01日 21時53分09秒 | 読書

 今月号で目を通したのは以下の8編。いつものとおり覚書。

・【表紙】天神来遊図           加藤静允

・あとがきの告白             小山内園子

・近代の宿業を生きた作家         安藤 宏
太宰治は不思議な作家で、世の中が平和なときは自殺未遂を繰り返し、戦時中は明るく健康的な作風を貫いている。戦時体制は太宰の自己卑下のスタイルとある種、奇妙な親和性があり、・・いかに「自分」がダメであるかを強調しながらしたたかに時代に対応していく姿が浮かび上がってくる。・・・戦中を戦後に接ぎ木しようとし、それが無残に破綻し、絶望を深めていく様相を読み取りたい。

・「鵲の渡せる橋」と日本の七夕伝説    冨谷 至
日本における七夕説話であるが、私には腑に落ちないことがある。七夕を題とする歌を多く載せる「万葉集」「古今和歌集」「新古今和歌集」などには、橋渡しの役を担う鵲は登場せず、彦星が舟で、もしくは浅瀬を徒歩で銀河を渡るのである。・・・理由は日本列島への七夕の伝説伝来が二つの流れを持っていたことに起因するのではないか。一つの水流が朝鮮半島であり、「懐風藻」の詩である。(もう一つの水流は遣唐使による)多くの漢籍が日本に将来される。
かささぎのわたせる橋におく霜の白きを見れば夜ぞふけにける(大伴家持)。この歌は「新古今和歌集」「冬歌」の部に入っており、配列に疑問があるとされる。低下を初めとした「新古今和歌集」の編者たちには、もはや七夕と鵲橋は結びつかなかった。

・扇の話、裏おもて(上)          福井芳宏

・ツェッペリン飛行船の戦争と平和     清水 亮
ローカルな地域の歴史のかけらを集めて掘り下げる実践は、単に日本史というナショナルな歴史の一部を保管する作業ではない。グローバルな世界史を、生活する地域から捉え直す可能性をもつ。・・地域に息づく歴史のかけらを拾い集める街歩きは、歴史を〈自分ごと〉として経験し想像する方法のひとつだ。

・ショックドクトリンとアメリカ例外主義  西谷 修

・台湾にいったい何があるというんですか?  清水チャートリー
数えきれない「物語」が取り繕うこの世界に疲弊した人がいるのであれば、「言葉を紡がない音の世界」で少しの間、自分の心と向きあい、ごまかしなく生きてみるのも良いのではないだろうか。

・佐藤正午さんの孤高           田中裕樹

・じゃじゃ馬の結婚            前沢浩子
近代の資本主義はすべて商品化し、人々を欲望に従って自由に売買をする契約者へと変貌させていく。その価値観のン課は市民階級から始まる。「じゃじゃ馬ならし」のような笑劇にさえも近代市民社会の胎動は感じられるのだ。