メランコリア

メランコリアの国にようこそ。
ここにあるのはわたしの心象スケッチです。

『ノーザンライツ』(新潮社) vol.1

2015-01-10 15:13:36 | 
『ノーザンライツ』(新潮社)
星野道夫/著

「彼らはオーロラをノーザンライツ(北極光)と呼ぶ。
 星野道夫はこの遺作のなかで生きている。」


図書館には1997年発行と、2000年発行の新潮文庫の2冊だったので、古いほうを選んだ。
表紙も上半分が黒いほう。



星野さんの遺作ということで、他の作品を読んでから最後にとっておいた1冊。
星野さんの著書の集大成であると同時に、アラスカに埋もれた伝説を後世に伝える貴重な1冊でもある。

それぞれの人物の伝記はたくさんあるかもしれないけれども、
アラスカという土地にオーロラぐらいしか思い浮かばない日本人の私たちにとっては、
星野さんを通して知る物語はかなり貴重。

シリアとジニー。
2人の怖いもの知らずのパイオニアが、まだまだ未開のアラスカに引き寄せられ、
「キャンプ・デナリ」を建て、そこに無数の伝説的クライマー、ナチュラリストらが集い、
後には部族、土地の権利・保護活動の中心人物にまでなるわけだけれども、
ここでは本書にある通り、サン・テグジュペリが書いた『夜間飛行』の時代が生き生きと描かれていて
無鉄砲な冒険の数々にただただ夢中になってしまう。

その2人の若いパイオニアが女性だというところが、とくに私を強烈にひきつけた。
それらの人物が偉業を成し遂げるつもりなどまったく想像すらせずに、
ただひたすら空を飛びたくて、山に登りたくて、アラスカという土地に惹きつけられて生きていた様子が、
文章とともに所々にはさまれた当時の写真に見られるのも素晴らしい。

過酷なブッシュパイロットの遭難救助の件は『岳』を思いださせる。

他の著書がアラスカに棲むカリブー、グリズリーなどの動物に焦点があてられているのと比べて、
遺作となった本書には、星野さんも含め、アラスカに魅了されて一生を捧げた人々の壮大な物語がたくさん詰まっていた。

同時に、その後、かつてのパイオニアたちは、時代の流れとともに散り散りになり、
油田開発という大事件が起こって西洋文明がなだれこみ、国立公園が指定されたことで原住民や土地に“見えない線”が引かれ、
かつて太古から受け継がれてきた精神文化と消費文化の狭間で悩み、もがく姿も描かれ、居た堪れない思いに囚われる。

先日観た岩合さんの写真展では、広大な国立公園で自然環境に近い状態で野生動物が生きている様子を写真で観て、
「自然が守られている」という安心感を持ったけれども、その自然を糧にして、共存してきた人々にとっては脅威だったんだな・・・

一点から見ると「善」でも、別の視点から見ると「悪」にもなる。この世界の複雑さ。
星野さんは今でもきっと空から時代の流れと、アラスカの人々、動物の暮らし、自然の移り変わりを静かに眺めていることだろう。



【内容抜粋メモ】(ネタバレ注意

  

「フロンティアというのはね、2つの種類の人間を魅きつけるところなの。
 実に魅力的な人々と、悪人たち・・・両方とも、生まれ育った世界に溶け込めず、何かから逃げてきた人間たちだからね」

フェアバンクスの町も、何もない原野に一人の詐欺師が現れたところから始まった。

1901年 ゴールドラッシュ
一攫千金を夢見てアラスカに来た商人バーネット。
蒸気船の煙を見つけて、何か手に入る物資はないかと、何マイルも山中を走ってきたイタリア人探鉱者・フェリックス・ペドロ。
ペドロは砂金を掘り当て、原野は一夜でブームタウンと化し、バーネットは最初の町長となる。

1917年 ジニー・ウッド産まれる@オレゴン州モロ
1919年 シリア・ハンター産まれる@ワシントン州アーリントン

1927年、リンドバーグが大西洋無着陸横断に成功。
1929年、ドイツの飛行船ツェッペリンが世界一周に成功。


******************************シリアとジニー、アラスカへ

シリアもジニーも、初めての飛行機との出会いは「バーンストーマー」。バーン(納屋)ストーマー(嵐)
彼らは空軍からボロボロの練習機を安く買って、アメリカ中の農場に突然現れ、5ドルで5分の空の旅という商売をしていた

シリア「女性パイロットのパイオニア、アメリア・イアハートは私の憧れだった」
製材所の事務員となったシリアは、ある日、なにかに導かれるように小さな飛行場で飛行訓練の申し込みにサインする。
その後、民間の航空学校をトップの成績で卒業した。

ジニーは、大学の飛行クラスを終えて、パイロットライセンスを持っていた。

WASP(約150人の米空軍女性パイロット)
 

彼女たちは造られた飛行機を戦闘各地に運ぶ仕事をした。
最新鋭戦闘機には、たった一人のパイロット席しかなく、飛行訓練を十分に受けることもなく、
新品の飛行機を、マニュアルを反駁しながら飛ばさなければならず、命を落とした仲間もいた。

第二次世界大戦が終わり、WASPは解体、女性パイロットは職を失う。
彼女らはアメリカ中に飛行機を運んだが、アラスカだけは除外されていた。
フェアバンクスのアラスカ空軍基地には女性用施設が何もなかったため。

ジーン・ジャックという詐欺師が、アラスカに古い飛行機を運ぶ仕事を持ってきて、シリアとジニーは飛びつく。

ジニー「確信していたの。本当にやりたいことを想い続けていれば、いつかその夢は叶うって」

アーチー・フィガーソン:キング・オブ・コッツビューと言われた男。レストランやロードハウス(宿泊所)を経営し仕切っていた。


1946年12月6日 アラスカに飛び立つ
 
シリアとジニー/小さなイグルー

飛行機があまりにボロくて、それを女性が運ぶというので許可が下りず、どんどん遅れる予定の中、ギリギリで飛び立つ。
ジニーの飛行機“小さなイグルー”とシリアは並んで飛んだが、途中ではぐれ、キンブリングという緊急滑走路で再会する。
気温はマイナス60度。「ウィングオブノース」というラジオ番組は、2人の女性パイロットの様子を毎日のように伝え、
飛行時間27日目、1947年1月1日、2人はフェアバンクスに到着する。


******************************多民族をまとめた「アラスカ核実験場化計画」


エドワード・テラー:「水爆の父」と呼ばれた物理学者。

「プロジェクト・チェリオット(アラスカ核実験場化計画)」
アラスカ北極圏で原爆の実験を目的とした人工港を造ろうとした計画。
1万年以上も個々に散らばって生きてきた先住民(エスキモー、アサバスカンインディアン)をまとめる引き金となった。
シリアとジニーらも、その反対運動の中心人物となる。


環境調査が行われた頃のケープトンプソン

19C。
イギリス人のキャプテン・ビーチェイが率いる探検隊が初めてティキラック地方(現ポイントホープ村)を訪れ、ケープトンプソンと名付けた。
星野さんがアラスカに移住した1978年、最初の旅で行った場所でもある。

1939年。考古学者ルイス・ギディングらが調査し、何万年と手付かずだった600~700戸の壮大な住居跡を発見。
現ポイントホープ村は、人間が暮らし続けてきた北アメリカ最古の場所だった。

1945年。オッペンハイマー率いる「マンハッタン計画」に参加。
同年。ヒロシマ、ナガサキに原爆投下

テラーは、ビキニ環礁での実験で反対を受け、新たな実験場所を求め、“あまり人が住んでいない”という理由から
AEC(アメリカ原子力委員会)がアラスカを選んだ場所は、皮肉にも人間が太古から暮らし続けてきたポイントホープ村だった。


ビル・プルーイット:

環境調査を任された生物学者。シートンを愛読して、北方の自然に憧れ、1953年、初めてアラスカにやってきた。
ビルのフィールドバイオロジストとしての力は圧倒的だった。

物理の専門用語ばかりの話を理解する村人はほとんどいなかったが、
ケープトンプソンの風景が、キノコ雲とともに消えるアニメーションは衝撃を与えた。

「放出された原子灰のほとんどは数時間で無害になります。原爆で生き残った日本の被爆者はすっかり回復に向かっています。
 カリブーや海の生物には何の影響もありません」と説明する関係者。

ポイントホープの村人は、委員会の発言を自慢のテープレコーダーにすべて録音した。
計画の環境アセスメントの委託を受けたアラスカ大学は、巨額な予算に酔いしれていた。
アラスカの財政を潤すという魅力に、小さな政界、経済界はすっかり揺さぶられた。


******************************アラスカは誰の土地か?

反対運動の芽は、まずエスキモーの中からはじまった。
村で一番多くカリブーを食べている男が放射能量がもっとも高かった。

カリブーが主食とする地衣類は、放射能を蓄積するもっとも理想的な生物だった。
その関係に気づいたビルは、この計画が生態系に及ぼす未来がはっきり見えたが、こよなく愛したアラスカから去らねばならない未来も見えた。

1960年。ネバダ州はアメリカンインディアンの居留地がある砂漠地帯で、アメリカの最初の核実験場になったばかりだった。
核開発の信奉者だったウィリアム・ウッドがアラスカ大学の学長となり、大学に巨額の予算を引き込もうとしていた。
ビルのレポートは、データのいくつかが大学側によって削除された。
地衣類とカリブーの食物連鎖と放射能の危険性を示唆した箇所はまったく削られ、心配はほぼないという根拠のない安全性が強調されていた。

当時の一般大衆の核への知識は低く、環境保護論者さえ、自然破壊となるダム建設に代わるものとして大きな期待をかけていた。

結果的には、委員会に雇われた3人の研究者が、計画を潰すために立ち上がる。
FBI、CIAエージェントが来て、ドン・フットはその後不慮の死を遂げる。
3人の研究者は解雇されたが、シリアとジニーが送り続けたニュースレターは、アメリカ本土で論争を巻き起こす。

1961年。アメリカ人宇宙飛行士が月面着陸成功、キューバ危機。

ハワード・ロック(当時50歳):一時期は浮浪者だったが、エスキモーの芸術家が故郷のポイントホープに戻り、やがて救世主となる。

ニュースレターは、「アメリカンインディアン協会」(代表:マディガン女史)を大きく動かした。
マディガン女史「アメリカがロシアからアラスカを買った時(約100年前)の土地法「先住民権」で、伝統的な暮らしが保障されています」
ハワードは村の代表として内務省に抗議の手紙を書いた。



白人が来るずっと以前から暮らしてきたエスキモーたち


同じ頃、バロー村では一人の村人がケワタガモを撃って逮捕された。渡り鳥はクジラが捕れない時期、生存に関わる食料となる。
1961年。「国際渡り鳥条約」が施行され、狩猟は営巣が終わる9月以降に限られた。
この条約は白人のスポーツハンティングのために作られた。

同年、バローの集会場にさまざまな村から200人以上のエスキモーが、有史以来初めて1つの目的のために集まった。
モンゴロイドがベーリング海峡を渡って以来、これほど大きな歴史的出来事はなかっただろう。
ニューヨークタイムズの記事は「地衣類を食べるカリブーが核実験の障害となるかもしれない」と見出しを飾った。

1962年。アメリカ原子力委員会の計画に内務省が介入するという通告が届く。
同年。委員会は記者会見を開き「プロジェクト・チェリオット」は中止された。

しかし、ビルはブラックリストに載り、カナダに移住。30年が経つ。
1994年。星野さんはビルを訪ねにウィニペグに行った。
1979年、星野さんが海鳥の調査をしていたある鳥類学者とビルは知人だった。
ビルは、星野さんの愛読書『Animals of the North』『旅をする木』の著者でもある。

3年前の夏、アラスカ大学の図書館員が、古い資料から、当時、計画中止後も、核廃棄物が極秘で実験的に
ケープトンプソンに埋められたままになっている事実を見つけて、周辺のエスキモーの村をパニックにおとしいれた。

2年前、ビルは長年の極北の野生動物の研究業績に対し、カナダ科学アカデミーから最高賞を与えられた。
アラスカ大学も名誉博士号を与えたが、ビルは1週間滞在後、カナダにすぐ帰っていった。


フェアバンクスにあるビルの丸太小屋。30年近く手放さなかったが、2年前に他人に譲った

"Give me a winter
Give me dogs
And you can have the rest"

(私に冬を与えてくれ。私に犬を与えてくれ。あとはすべてお前にあげるから)
ビルが好きなある探検家の言葉。



現在は、マニトバ大学の動物学で教授を務めるビルに、星野さんは核について一切話さなかった

この一連の事件は、後にアラスカを大きく揺るがす「原住民土地請求権」の闘いへとつながる。


******************************マッキンレー山への挑戦

 
左からウッド、テイラー、レス、ジョージ/空からサポートしたジニー

1954年。4人の若者が誰もなしえなかったマッキンレー山を南面から登るルートを探していた。
エルトン・テイラー、ジョージ・アーガス、レス・ベリック、オートン・ウッド(ジニーの夫)。
4人はむしろこの登山がニュースになるのをとても避けていた。

「登攀(とうはん)」登山で、険しい岩壁などをよじ登ること。とはん。

登山開始から3週間後、最大の難関、巨大な雪庇が立ちはだかっていた。
が、まるで誰かが導いたように、小さな氷のトンネルを見つけて入っていった。
そこを抜けるとサウスバットレスの稜線の上にいた。
翌日パーティは山頂に立ち、すっかり高度順化ができあがっていたため、ハイキングのように下降をはじめた。



屈強のクライマー、エルトン・テイラー

突然、エルトンが滑り落ちた。雪壁からザイルにぶら下がった彼はすでに息絶えていた。
ジョージは骨盤を外していたため、食料とともにテントに残し、2人は下山し助けを求めた。
この救出行は、南面からの初横断の成功とともに、『タイム』『ライフ』に取り上げられ、全米に報道された。
その後、このルートから登った者は誰もいない。

エルトン遭難後、すでに妊娠していた妻バーニーはアラスカを去った。
バーニーは、幼い頃に両親を亡くし、夫の遭難、不慮の事故で他人の子どもを轢死させたことで、晩年は精神に破綻をきたした。
40年ぶりにアラスカに戻って、キャンプ・デナリでジニーと再会を果す。

バーニー「ひとつだけどうしても悔やまれるのは、エルトンが父親になることを知らずに死んでしまったこと」
ジニー「それは違う。あの日、ルース氷河で最後のフードドロップをして、あなたが妊娠したことを私は確かに伝えたわ」


******************************キャンプ・デナリ~伝説のロッジ

 
キャンプ・デナリからマッキンレーを見る

シリアとジニーにアラスカの中でもっとも懐かしい場所はどこかと聞くと「マッキンレー国立公園ね」と迷いなく答えた。
ブッシュパイロットの時代が終わり、彼女たちの青春はマッキンレーの山麓に広がっていく。
パイオニア時代からある、アラスカの歴史的なロッジを建てたのが2人だった。

ジニーはレインジャーのウディと結婚して、カトマイ国立公園の初めてのレインジャーに任命された。

レス・ベリック
マッキンレー登頂の仲間の1人。後にビルとともに「プロジェクト・チェリオット」と闘い、アラスカ大学を追放された植物学者。
晩年、「アラスカの植物学の父」と呼ばれ、フェアバンクスで暮らした。


 
アコーディオンを弾くウディ

シリア「私たちは大工、水道管工事、医者、ガイド、なんでもやった。キャンバステントからスタートしたのよ」
小さな山小屋は、さまざまな出会いの場所となった。

ビル・ベリー:アラスカの伝説的な動物画家。キャンプ・デナリの最初のコック。
ミュリー兄弟:『マッキンレー山のオオカミ』の著者。アラスカの生物学のパイオニア。
ブラフォード・ウォッシュバーン:マッキンレー山域の地図を作成した著名な地理学者。
クレム:フェアバンクスの山道具屋の老主人。ヒッチハイクをしていてジニーに拾われた。そのままドイツに帰らず、アラスカに移住。

1976年。「私は最初、環境保護論者でも何でもなかった」と言っていたシリアは、のちに
アメリカでもっとも権威のある自然保護団体「ウィルダネスソサエティ」の女性初会長となる。

星野さんは、毎年3月、日本の子どもたち十数人をルース氷河に連れてきて、キャンプをし、星やオーロラを見る体験ツアーをしていた。


 
ドン・シェルドン/マッキンレーに向かうドン・シェルドンが操縦する飛行機

ドン・シェルドン:マッキンレー山域でひとつの時代を築いた伝説のブッシュパイロット。1975年、53歳で死去。

優れたブッシュパイロットとは、飛行技術だけでなく、さまざまなレベルの客の気持ちや体験を、どれだけ同じ立場に立って、
その苦しみや感動を互いに分かち合うことができるかのような気がする。
客を運ぶために飛ぶだけのパイロットならいくらでもいる。

1972年。ドンは5人の日本女性隊をカヒルトナ氷河に運んだ。
1週間後、最後の頂上アタックに向かった3人が行方不明になり、遺体が見つかるまでドンは10日間、毎日飛び続けた。
その飛行時間の莫大な捜索費用は、妻と相談して、一切請求しなかった。


ドンとブラフォード・ウォッシュバーンの出会い
ウォッシュバーンは、マッキンレー山域の地図を作成する夢を抱いていた。
空気が究めて薄く、高山での飛行には特別なセンスが要求されるが、ドンはどんな場所にも冷静にランディングした。
ウォッシュバーンは、旧友ボブ・リーブに「あいつはいつか山で命を落とすか、信じられないほど優れたパイロットになるだろう」と語っている。

ボブ・リーブ:氷河への着陸に初成功したアラスカの山岳飛行のパイオニア。

ウォッシュバーンは、あらゆるピークの標高を測り、あらゆる氷河を測量し、現在の地図を作った。
ドン亡き後、彼が愛したルース氷河源流にドン・シェルドンの名前がつけられた。


ドン・シェルドンの飛行機格納庫

星野「アラスカで会ってみたかったが、ぼくは間に合わなかった
(この著書にも、この「間に合った」「間に合わなかった」という言葉がよく出てくる
が、彼の未亡人ロバータと知り合った。日本の子どもたちの体験にシェルドン小屋を使わせてくれと相談したのがきっかけ。


******************************タクシードライヴァー

コバック川の川沿いには、わずか5つのエスキモーの村がある。
ノルビック、カイアナ、アンブラー、ショグナック、コバック・・・・その人口はきっと1000人にも満たない。
「早春の頃、雪解けとともにこの川が流れはじめるだろ。その時の風景がすさまじいんだ」

 
セス、白人のステイシー

セス・キャントナー
アラスカ大学を卒業後、両親は狩猟だけによる原野の生活を求めてコバック川流域に移住した。
10年前、脳腫瘍を患った母アーナのため、両親はハワイ島に移住。
セスは白人でありながら、エスキモーの魂を持つという複雑な境遇にあり、それを著作『タクシードライヴァー』にしたためた。

その最初の一文でセスの立場がよく表れている。白人は、白人女性を決して「白人女性」とは呼ばないからだ。
セスは、老婦人が自分を胡散臭そうに見ているのを感じる。それらしく振る舞おうとするほど、なぜか泥沼に入ってゆく。
老いてゆくことが無用な存在になるアメリカ社会と、それが重要な存在になってゆくエスキモー社会との違いを感じる。

路上で酔い潰れているエスキモーの脇を情けない思いで通り過ぎた後、あれは自分が子どもの頃に世話になった知人ではと気づいたりする。
セスのストーリーには、白人社会とのギャップと、変わりゆくエスキモー社会に対する悲しみが、
どちらにも属することができない自身の想いの中で生き生きと描かれていた。

キャントナー夫妻の長男コールは原野を去り、それまで一度も学校に行った事がなかったのにアラスカ大学に一番の成績入学した。
その時、フェアバンクスの新聞社のインタビューを思い出すと今でも笑ってしまう。

「君は一体、今まで北極圏の山の中で何をしていたのですか?」
「・・・生活をしていました」

コールは大学卒業後、「ピースコア(アメリカの青年海外協力隊)」に参加し、アフリカに渡った。

セスは白人のステイシーと今年結婚し、コッツビューで、セスはエスキモーに野菜の栽培を教え、ステイシーは図書館で働き、
それが終わるとコバック川の原野の家に帰る。

「ミチオ、いつかコバック川の家を失うかもしれない。
 国立公園のレインジャーが火をつけて燃やすことができる家のリストにずっと入っているんだ」

アラスカの土地所有権問題は、ゴールドラッシュなど比較にならないほど歴史的な出来事となり、激動の時代になっていった。
アラスカの原野は、アメリカ、アラスカ州、先住民の間で見えない線が引かれ、かつてのフロンティアは終わりを告げた。
セスにとって、国立公園ほど恐ろしい存在はなかったのだ。


(vol.2につづく

コメント

『ノーザンライツ』(新潮社) vol.2

2015-01-10 15:12:00 | 
『ノーザンライツ』(新潮社)
星野道夫/著


******************************郵便配達人~ヘイリー・ティケット

セスの小さい頃の話。
昔、ヘイリーの奥さんがアンブラー村の郵便局の仕事をしていて、
冬になるとセスの父はまったく村には行かなくなるから、小さな小屋が我が家の郵便物で一杯になる。
ヘイリーの狩猟への想いが重なると、犬ゾリでついでに持ってきてくれるのさ。

ヘイリーは必ず父に聞いた「オオカミがやって来るかい?」

ある日、ヘイリーはスノーモービルでオオカミを追っている時、エンジンが止まってしまい、息絶え絶えに家にやって来たことがあった。

その後、父は一番優秀な2匹のリードドッグが亡くなり、犬ゾリへの興味を急に失った。

12、3歳の頃、ヘイリーの家に寄ると、白人の作るガラクタにいつも文句を言っていた。
テレビ、カセットデッキ、CBラジオ、コーラ・・・。

つい数ヶ月前、国立公園の人間がアンブラー村に来て、セスについていろいろ尋ねたらしい。

「ここは新しい国立公園の境界線の中に入っています。
 この家は不法侵入ですので、私がいつでも火をつけて燃やせるリストに挙げられています。
 もう21世紀なのですから、こんな暮らしは出来ないんですよ」


******************************最後の白人エスキモー~ドン・ウィリアムス


レインジャーをしていたドン

1960年。ドンはコバック川流域を訪れた。セスの父、ハウイ・キャントナー一家らとともに土のイグルーを建て、
狩猟だけによる原野の生活に入った。ドンは、マッキンレー国立公園のレインジャーだった。

1980年。星野さんは、ドンに初めて会う。

多くの若者が、原野の暮らしにあこがれて、この土地にやって来ては消えて行った。
極北の自然は歳月の中で彼らをふるいにかけ、素晴らしい理想さえもこぼれ落ちてゆく。
ある者は最初の冬で去り、ある者は何年かの貴重な体験を思い出を胸に町の暮らしへと戻ってゆくのだ。

コバック川流域に来た仲間の中でドンだけがこの土地に残された。
エスキモーのメアリーと家庭を持ったドンには、もう帰る場所がなかった。



人はいつの日かどこかで根を下ろさねばならないことを、ドンの憂いを秘めた笑顔はそっと教えてくれた。

セスにとって、ドンの一人息子アルヴィンはたった一人の親友だった。
アルヴィンは家庭を持ち、レッドドッグ鉱山で働いている。
現金収入の機会がないこの土地で、多くの若者たちが鉱山で働くことを夢見ていた。

新しい時代との狭間で、エスキモーの若者たちはどうしていいかわからないんだ。
 彼らだって変わってゆきたいのだと思う。だから仕事があるということは、きっといいことなんだよ」(セス)

アラスカはアメリカに残された最後のフロンティアだった。
1968年、北極圏の油田発見は、それを根底から変えていった。

壮大な原野の広がりは何も変わらないが、人々の心の中に、どうしても消し去ることができないラインが引かれていったのである。
アラスカの原野に散った開拓者たちは、その見えないラインによって閉め出されようとしていた。

そのラインは、エスキモーやインディアンの人々の土地に対する観念さえ変えつつあった。
太古から、土地は個人が所有するものではなく、ただそこに存在するものだった。
しかし、「アラスカ原住民土地請求権解決法」により、それぞれの土地所有権が決まった。
ある村人が、自分の土地で誰かが焚き木を切ったとこぼしていた話をドンは信じられない思いで語った。

誰もが、人生の中で、何かを諦め、何かを選びとってゆくのだろう。
アラスカもまた、人の一生のように、新しい時代の中で何かを諦め、何かを選びとってゆく。


******************************苦悩するグッチンインディアン~リンカーン

地平線をわずかに滑ってゆく束の間の太陽を見つめていると、可笑しな話だが、その愛おしさに心が満たされてくる。

「北極圏野生生物保護区における油田開発の問題」ほど、アメリカの環境保護運動の歴史の中で大きな論争はなかったかもしれない。
かつてアイゼンハワー大統領が、未来の世代のために残そうと指定した場所だった。


アメリカ中を揺るがした論争の中でさえ、グッチンインディアンの人々は忘れられ続けていた

リンカーン:グッチンインディアンの若きリーダー的存在の一人。星野さんの古い知人。

「オレたちの想いは、あなたたちの考えている自然保護とは少し違う。
 オレたちは季節とともに通り過ぎるカリブーを殺し、カリブーと共に生きている。
 自然は見て楽しむものではなく、存在そのものなんだ」

星野さんにとっても「野生生物保護区」は特別な土地だった。
カリブーの旅を“間に合って”見ることができた大切な世界。
狩猟民から見たカリブーの世界を追いたかった。


オールドクロウ村でのグッチンインディアンの集会
若者たちの伝統的文化の喪失、アルコール中毒、自殺、古老と若い世代のギャップ、未来への不安。
彼らの抱える問題が、そのまま僕たちの問題であるという驚きにとらわれた。

長い目で見れば、今抱えている問題も、次の時代へたどり着くための、通過しなければならない嵐のような気もしてくる。
一人の一生が、まっすぐなレールの上をゴール目指して走るものではないように、ヒトという種の旅もまた、
風向きを見ながら、手探りで進む航海のようなものではないだろうか。

「バッファローの大群は消えてしまったが、私たちはまだカリブーを救うことができる」

「大変な時代がやってくるだろうな」とリンカーンがつぶやいた言葉は忘れられなかった。
それは、グッチンインディアンだけでなく、私たちも含めた人間の時代という意味だった。

混沌とした時代の中で、私たちはある無力感に襲われる。それは正しい1つの答えが見つからないからである。
が、こうも思うのだ。正しい答えなどはじめから存在しないのだと。
しかし、その時代、時代で、より良い方向を模索してゆく責任はある。

あの集会で出会ったグッチンインディアンをゆっくり訪ねてみよう。
新しい時代の中でどう生きてゆこうとしているのか、もっとゆっくり耳を傾けてみよう。




******************************アラスカはだれのもの?

開発か自然保護かの選択は、人間が抱える環境問題の1つのシンボルとして、世紀末に生きる私たちに課せられた最後のテストのような気もする。

「1960年中ごろに開かれたNYのワールド商業フェアが大きな引き金になったかもしれない」(シリア)

「私たちが“アラスカ自然保護協会”を作ったのは1956年だった。最初の目的は、“北極圏野生生物保護区”のラインを地図上に引くことだった。
 当時、アラスカは州に昇格したばかりで、資源開発による経済自立を目指しはじめていた」

「ワールドフェアで、伝統的な土地がアラスカは州政府議員によって売りに出されていたの、別荘にどうかって。
 “州昇格法”によって、アラスカの1/3が州に委譲され、25年以内に具体的な土地の選択を行うよう定められた。
 土地の選択が進むにつれ、原住民の“アボリジナル・ライト(原住民土着権)”と至る所で衝突していたの」

「原住民土着権」が定められたのは1867年。
“原住民は、現実に使用している土地の利用は妨げられないが、所有権を取得する条件は、将来の議会の立法に委ねる”という曖昧なものだった。


「ランパートダム計画」
ユーコン川のランパート渓谷に巨大ダムを築き、アメリカに500万kwの電力を供給する計画。
もしシリアらが中止活動をしなければ、多くの内陸インディアンの村々が水の底に沈んだだろう

1968年、プルードー湾に大油田を発見。
1971年、「原住民土地請求権解決法」ができ、原住民に4000万エーカーが与えられた代わりに、アボリジナル・ライトを放棄し、10億ドルが与えられた。
シリアは、アメリカでもっとも権威のある自然保護団体「ウィルダネスソサエティ」の女性初会長となり、ワシントンDCに移った。
会長を2年務め、フェアバンクスに戻り、地元の新聞『フェアバンクス・デイリーニューズマイナー』に週1回のコラムを書き始める。

「開発派が圧倒的で“反対意見って?”と聞き返した編集者の言葉を覚えているわ」

シリアの最初の記事に驚いた新聞社は、2回目以降、どんどん片隅に場所を変えていった。
シリアのコラムは今も続いている。

1980年、カーター大統領により「アラスカ国有地自然保護法」が成立。1億400万エーカーが国立公園、野生生物保護区になった。
カーターは大統領選に敗れ、共和党のレーガンの時代となる。

「100%の勝利なんて絶対存在しないのよ。
 時代はいつも動き続けていて、人間はいつも、その時代、時代にずっと問われ続けながら、何かの選択をしなければならないのだから・・・」



ブッシュパイロットのドン・ロス

「アラスカの厳しい自然は観光客を寄せ付けないし、壮大なカリブーの旅を見るヒトもいない。
 人々が利用できない土地なら、たとえどれだけ貴重だろうと、資源開発のために使うべきではないか」(ドン)


******************************「何かがおかしい」と見通す力~アークティックビレッジ

12月のフェアバンクスの太陽は、じれったいほどなかなか昇らない。
が、長い長い夜をへて現れる太陽に、人々は生かされているという温もりを感じ、人間の脆さに気づかされる

アークティックビレッジに行こうと思ったのは、歴史的な土地制度に唯一参加しなかったこの村を訪れてみたかったから。
二十数年を経て、理想的だと信じた土地制度は、さまざまな問題を生み出している。
個々が所有した広大な土地は、何の利益も生み出さないことで、目先の利益のために売られる危険性が出てきた。

アークティックビレッジは、連邦政府からの補助金を受け取らない代わりに、アメリカの資本主義経済に組み込まれることを拒否し、
「リザベーション(留保)」という自治権を獲得した。

オールドジョンレイクには、「カリブーフェンス」という19Cのカリブーの狩猟跡がある。
移動ルート沿いにV字状の巨大な木の柵をつくり、知らずに入ってくる獲物を槍や弓矢で殺す。
上空から見下ろすと、ナスカの地上絵のように白いV字が浮かび上がるという。

古老の話は、アラスカに対するぼくのイメージをゆっくりと変えた。
手付かずに残された、未踏の原野は、実はさまざまな人間が通り過ぎた、物語に満ちた原野だった。



トリンブル:村で尊敬される牧師

村人に「土地制度に参加しなくて良かったですか?」と聞くと、
「大切なのは、お金ではなくて、昔からの暮らしをこの土地で続けられるかどうかだからな」
「その判断はどう決めたのですか?」
「みんなで話し合って決めたのさ。未来の孫たちのことを考えると、なんとなく、それが一番いいような気がしたのさ」

「ヒトが生き延びるために一番大切なのは、自然に対する畏怖という感覚を持てるかどうかだと思う」

次の世代を担う人々と話していて感じるのは、村の古老が次々と世を去ってゆく悲しみと焦りだ。
大切な舵を失いながら、嵐の中の航海へ出てゆくような不安なのだろう。

先週この土地を去った90歳の老女の訃報は、アラスカ中のインディアンの村々を衝撃となって駆け巡った。
彼女は、最後のスピリチュアルリーダーの一人だったのだ。


******************************クリンギット族の寡黙な墓守~ボブ


ボブ

「エスキモーやインディアンだけでなく、白人だって新しい時代を迎えるだろうな。
 もう何かが変わろうとしているよ。次の時代を背負う世代が少しずつ出てきているから」

目まぐるしく、加速度的に動き続ける時代という渦の中で、ぼくは新しい力が生まれつつあることを確信しはじめている。
それは、ただ“昔は良かった”という過去に立ち戻ることではない。
ノスタルジアからは何も新しいものは生まれてはこない。
自然も、ヒトの暮らしも、決して同じ場所にとどまることなく、すべてのものが未来へ向かって動いている。

「クリンギットインディアンにとって、デビルスクラブほど大切な薬草はない」(ボブ)


歳月の中で消えてゆく木の文化~トーテムポール
北アメリカとユーラシアが陸続きだった1万8000年前、干上がったベーリング海を渡り、
インディアンの祖先の最初の人々が北方アジアからアラスカにやって来た。
その中に、後にトーテムポールの文化を築いたクリンギット族がいる。

それは後世まで残る石の文化ではなく、歳月の中で消えてゆく木の文化だった。
そして多くの古いトーテムポールは、世界中の博物館に持ち去られていった。

ボブは10代の終わり~20代にかけてアラスカ中を転々とし、アル中、ドラッグ、ある種のアラスカ先住民の若者たちが陥る世界の中で、
一時は浮浪者にもなり、やがてフェアバンクスにやって来た。

1970年、さまざまな村から出てきたインディアンを差別視する警察との闘いは熾烈だったらしい。
ボブは逮捕され、すさまじいリンチを受け、フェアバンクスから追い出された。
ボブは古老たちから“人を許すこと”を学び、白人へ憎しみも消えていったという。

故郷の南東アラスカには、誰も見向きもしない古いロシア人墓地が住宅建設の場所となった。
だが、そこは千年以上にわたるクリンギットインディアンの墓地だった。
工事が始まり、人骨は投げ出され、埋葬品は盗まれた。
ボブは毎日一人で骨を土に戻していった。この行動が大論争を引き起こし、住宅建設はストップされた。

「ボブがあの墓を守ってから、この町のクリンギットインディアンの世界が少しずつ変わった。
 とくに若者たちが自身のアイデンティティに目覚めていった。そしてとても自信を取り戻した」

アメリカ陸軍フェアバンクス分隊の小部隊が去年の秋から墓地の下草刈りを手伝っている。

“木も、岩も、風さえも、魂をもって、じっと人間を見据えている”
いつか聞いたインディアンの神話の一節をふと思い出していた。


******************************思い出の結婚式~アル・スティーブンス

アル・スティーブンス:アサバスカンインディアン。アラスカ大学の新学期に星野さんと出会って意気投合した。

「パイプラインができてからムースの数がめっきり減った。どうしたらいいのか、知りたかった」

アルと白人のゲイの結婚式。買い物に想像以上に時間がかかったが、人々は4時間も待っていてくれた。
翌日は快晴。こんな秋の日を「インディアンサマー」という。本当にいい式だった。

 


「アルカトラズ」
サンフランシスコ湾に浮かぶ小さな無人島。1969年、14人のインディアンの若者が上陸して、19ヶ月占拠した。
彼らは、この島が先祖から受け継いだ神聖な大地の一部だと訴えた。その中心人物がアルだと星野さんは知る。

「ミチオ、誰もが自分の人生を書きつづる力があったらいいだろうな。どんな人間も人生を語るに値するものだと思う。
 とても時間がかかったけれど、白人に対する憎しみが消えてから、オレは生まれ変わったような気がする」


******************************ベトナム帰還兵・ウイリー

 
それぞれのクランの衣装をまとう村人/ウイリー

南東アラスカに約100年ぶりにトーテムポールが建てられた。
そこには、初めてワタリガラスとハクトウワシが一緒に刻まれた。

クリンギットインディアンの人々は、祖先の始まりを動物と信じ、それぞれの家系(クラン)の物語をトーテムポールに託した。
クランは大きくワタリガラスとハクトウワシに分かれ、さらにハイイログマ、シャチ、とさまざまに分かれてゆく。
21世紀を迎える現代も、人々はクラン同士の長い歴史の中で対立や怨念さえも生み出してきた

「ミチオ、明日漁に出るけど、一緒に行くか?」
「それ、ジャパニーズタイム? それともインディアンタイム?」
ジャパニーズタイムは、時間になっても来なければ行ってしまうこと、インディアンタイムは遅れてもいつまでも待ってくれること。
つまり時間通りになんて誰も現れないことだ。


ベトナム戦争
より多くの黒人が、より危険な前線に送られたように、エスキモーや極北のインディアンもまた同じ運命をたどった。
ベトナム戦争で、5万8132人の米兵が命を落としたが、戦後、その3倍の約15人の帰還兵が自殺したことはあまり知られていない。
ウイリーも首をつって自殺未遂を図ったが、7歳の息子が必死に支え続けたという。

10年以上前、ぼくはワシントンDC郊外の「ウォール(壁)」と呼ばれるベトナム戦没者慰霊碑を訪れた。
戦後、生きて帰った多くの若者が、「ポストベトナムシンドローム」という精神病に侵されていった。


セブンサークル
ジャコウウシの群れはオオカミに襲われた時、円陣を組んで、知恵のある年寄りが外側に立ち、一番内側にいる子どもを守る。
つまりオオカミは、ドラッグ、アルコール中毒、自殺、暴力、、、今の子どもたちが抱えている問題のこと。
セブンサークルは、そんな願いをもったグループ。


スウェットロッジ
スー族、ナバホ族などアメリカンインディアンに残る古い儀式。
自己の魂と出会うため、たった一人で何も食べずにヴィジョン・クウェストという旅に出る時、ここで身を清める。

私たちは裸になって焚き火の周りに立ち、“シャチがやって来た”という古いクランの歌がうたわれた。
テントの中で輪になって座り、“火を守る女”によって焼けた石がテント内に運ばれる。
すり潰した薬草が回ってきて、祈りながら石にかけると、テント内はその匂いに満ちた。

「グランドファーザー・・・私は祈ります・・・聖なる大地、ストーンピープル、家族、ワタリガラスの魂のために・・・」
グランドファーザーは、なにか大いなる存在を意味しているのだろうか。
ぼくは意識が薄れる中で、人が祈るという姿に打たれていた。
人はいつも、それぞれの光を捜し求める、長い旅の途中なのだ。


******************************クジラとともに生きるエスキモー~エイモス

人々はただ自然に生かされているのである。


エイモスはポイントホープ村の次世代を担う男

星野さんは十数年ぶりにポイントホープ村を訪れる。
エイモスは荷物をスノーモービルに積みながら“ミチオがポイントホープに戻って来た”と独り言のように何度も呟いている。

21Cを迎えようとしている今、遥かなエスキモーの村のどの家にもテレビ、ガスのキッチンもある。

ぼくが立っていたのは、何百年、いや何千年も昔の土のイグルーで作られたポイントホープの住居跡だった。

ぼくはこの土のしたに眠る古老を知っていた。ローリー・キンギック。
アラスカのさまざまな村で、新しい時代に希望を託す次の世代が確実に生まれている。


******************************約束の川の旅~シーンジェック


アラスカ大学の博物館に飾られるミュリー夫妻の絵

ミュリー兄弟:
アラスカの伝説的な動物学者、ナチュラリスト、探検家、パイオニア。『マッキンレー山のオオカミ』の著者。
オーラス・ミュリーと妻のマーガレットがブルックス山脈を旅した時の姿が絵に描かれた。
未亡人となったマーガレットが書いた『Two in the Far North』は今もアラスカの古典。

ミチオと、シリア&ジニーは「いつか一緒に川下りをしよう」と約束してから何年も経っていた。

 
ワクワクしながら出発を待つ4人/焚き火でくつろぐシリア&ジニー

誰もが、それぞれの老いにいつか出会ってゆく。
それは、しんとした冬の夜、誰かがドアをたたくように訪れるものなのかもしれない。
年齢の差を超え、私たちが大切な友人同士だったのは、アラスカという土地を、同じ想いで見つめていたからだろう。
シリアとジニーは、ずっと遅れてこの土地にやってきたぼくに、何かを託すように語り続けてくれた。
そしてシーンジェックの旅は、ぼくが最初で最後に分かち合う、2人の物語になるような気がした。
夜が明ければ、シーンジェックの美しい流れが私たちを運んでゆく。


あとがき:ミチオとの旅~シリア・ハンター

アラスカのシーンジェック川をのんびりと旅した話の結末は、私たちの最良の友ホシノミチオが亡くなってしまったために、
残念ながら私が書くことになってしまいました。

ミチオと私たちの旅の目的の1つは、この地を訪れ、北極圏の野生生物保護に多大な貢献をした夫妻を讃えることにありました。

ミチオは、食事当番を決める段になると、頑として、それは自分がやるんだと譲りません。
自然の中を旅する時には、美味しいものをたっぷり食べたいんだ、だから食事のことは自分が計画をもって担当する、と宣言したのです。

私たちの旅は、のんびりとした、楽しいものでした。
(アラスカの人なら、こういうたびを「レイドバックな」旅と言うでしょう)
毎日、数時間、川をボートで行き、後の時間は岸に上がって周辺を探索してまわるのです。

ジーンと私は、今でも、あの不思議な旅のこと、そしてあのような素晴らしいプレゼントをしてくれた、穏やかで、思慮深い男のことを多い浮かべます。
自分のスピリットを自然界の鼓動に共鳴させていた男、それがミチオでした。
彼は大地と一体になり、そこに暮らす動物たちと一体になっていました。

ミチオのおかげで、私たちは、人間の生活とともにある野生の役割、そしてその存続が人間に必要であるということを、理解することができるのです。
1996年8月13日


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