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「戦後70年 ニッポンの肖像」のプロローグ~私たちはどう生きてきたか@NHKスペシャル
【ゲスト】タモリ、堺雅人、中園ミホ、半藤一利
【キャスター】三宅民夫、有働由美子
「あさイチ」で美輪さんがゲストに出た日に、この番宣があって、
「ぜひ観るべき。一度焼け野原と化した日本が、どう復興したかという歴史を見れば、これからどう生きるべきかも見えてくる。
私はまさにこの時代を一部始終生きてきた人間ですから、このオープニング映像を観ただけで、もう涙が止まらないですよ、
その頃のことがまざまざと思いだされて」と言っていたのを見て、予録して今ごろ見てみた。
紅白明けの3人(有働さん、タモさん、中園さん)の他、以前、宮さんと対談して含蓄ある言葉の数々が印象的だった
半藤一利さんが参加。
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SWITCHインタビュー 達人達(たち)・選「宮崎駿×半藤一利」
堺雅人さんは、1973年生まれの41歳で、この番組のゲストとして、最初は異色だと思ったけど、
俳優さんて、あらゆる役柄を演じるから、大抵バランスのとれた人格者が多いな、というのが私が最近思う。
とにかくNHKアーカイブスなどからかき集めた貴重な映像の数々は凄い。
歴史の授業で、つまらない教科書を朗読するより、こういった映像を子どもたちにも見せて、
それぞれの年代の生の体験談を聴かせるほうが、よっぽど身に入るんじゃないだろうか?
映像集なので長くなるから、年代別にまとめてみた。
【内容抜粋メモ】
タモさんは、1945年8月22日(69歳)福岡市生まれ。まさに終戦の1週間後。
その人生は、そのまま日本の歴史と歩んできたとも言える。
当時の実際の様子と、ニュースや世間で言われるイメージのギャップ話が面白かったし、ひと言、ひと言の重みが違った。
タ「この70年間で一番良かったのは、バブル崩壊後。飲み屋やバーが本当に面白かった。人間の悲喜こもごもが見れて」
【1940年代~終戦直後】
玉音放送を聴く人々/百聞さんの言葉!
焼け野原、ヤミ市
“現人神”と言われた天皇が一般庶民と接するようになった
進駐軍、マッカーサー
タ「私は、戦後の疑問が解ければ、その後の歴史はどうでもイイんです。半藤さんにお聞きしたいのは、
日本は
“敗戦”と言わずに“終戦”、
“占領軍”と言わずに“進駐軍”と呼んだ。
マッカーサーも敵国の軍人なのに、帰国する時は泣いて見送った、これはどういうことなんでしょう?」
半「昭和16年には、フツーにアメリカ映画も観られていた。
“鬼畜米英”と言い出したのは、戦争に負けだして、政治家や上の連中がそう思い込ませたかったから」
タ「8月15日の終戦の日、友人の
星新一さん(!)の話では、皇居の前を通ったら誰もいなくて、フツーにみんな過ごしてたって。
よく泣き崩れている映像が流れるけれども、あれは偽造ですか?」
半「いや、泣いてる人もいましたよ。歌人や俳人とか。でも、庶民は感じ方が違っていたのかもしれませんね。
昭和23年頃は、とにかく食べるものがなくて、私なんか腹が減って泣きましたよ」
台湾からの引き揚げ者たち(広島)/新憲法公布で全国がお祭り騒ぎだった
お見合い大会、ベビーブーム
「ベビーブーム」1年間で260万人産まれた→後にいう
「団塊の世代」
タ「急に思い出したけど“赤ちゃんコンクール”で、私、優勝したんです。何が基準だったんでしょうね? 発育?」爆
【1950年代~特需景気】
武器はアメリカ軍が大量に買った
ジャズブーム
タ
「あれはジャズじゃないんですよ。外国から入ってくる音楽をなんでもジャズと総称してゆってた」
この群衆っぷり怖すぎる
当時、自立式の鉄塔として高さ世界一。東京タワーは1年半で造った
タ「あのしっかりと大地を踏みしめて頑張ってるぞ!って形がイイ!
アメリカ軍の壊れた戦車とかも使ってるんです。まさに戦後復興の象徴。
実はあの場所っていうのは、昔、最大の古墳だったんですよ」(だんだん『ブラタモリ』化してきたw
ご成婚
半「昭和27年(1952)に日本は独立したんです」
【1960年代~高度経済成長期】
池田内閣
半「高度経済成長と言っても、昭和30年頃から日本は少しずつ成長していたんです」
“金の卵”と呼ばれ、上京した若者たち
通勤ラッシュは今も変わらないなあ
タ「友だちが“押し屋”をやってたんですけど、
“はがし屋”っていうのもあるんですよ。
もうこれ以上乗れないし、時間に遅れを出しちゃいかんてゆって、乗客をはがす。
押しているうちに自分も押されて、次の駅まで行っちゃった人もいる」爆
東京オリンピックに向けて突貫工事が続いた
新幹線によって東京⇔大阪間が7時間→4時間に短縮/目指すは世界一
タ
「新幹線が開通したのは、オリンピック開催のわずか5日前だったんです」驚
タ「とくに印象的だったのは“閉会式”。
各国がバラバラに入ってきた最初が日本だったんです。
それで各国の選手が喜んで、それ以降、真似するようになった。
それを観ていたじいさんがひと言
“戦争なんかしちゃダメだね”と言ったのを今でも覚えてます」
タ「“モーレツ社員”ていうのが本当にあって、一般企業の研修で、ずっと歩かされたり、突然道端で歌いだすとか。
私は、その頃から日本国や、社会に少し距離を置くようになった」爆
堺「この頃のドラマで官僚の役を演って、セリフの最後に全部
(ビックリマーク)が付いているんですよ。
戦争がまだ続いていて、アメリカに追いつき、追い越したいっていう雰囲気だったんだなって理解しました」
気づけば、
アメリカに次ぐ経済大国になっていた日本。
労働時間が今より500時間も多かった! 今でさえギリなのに!? どんだけ働き者なんだ日本人/驚×∞
アメリカとの
“貿易摩擦”が深刻になる/“国家総動員で”ってまた戦争と同じことじゃん
半「
“経済戦争”だった。ここでまたペシャンコにされてたまるか! もう一度、日本を守ろうって気概があったんでしょうね」
【1970年代~若者の反体制運動、公害】
日本万国博覧会(大阪)
タ
「多摩川もあんな感じだった。合成洗剤が出てきたから、そのまま川に流して。
公害から社会が変わり始めた。その前から矛盾は感じていたんだよね」
半「企業も政府も(公害について)かなり分かっていたと思う」
タ
「仕事を辞めると、自分の事を考えなきゃいけない恐怖があったから。
だって、自分との対話って人間にとって一番ツライものですから。
仕事してる奴に向かっては、誰も非難できないじゃないですか?!」
ベトナム戦争反対のデモが毎週、新宿で行われていた
タ「ライヴ後に警官隊とぶつかるなんて今じゃ考えられないよね!
フォークゲリラやってた友人がゆってたけど、別に反戦でやってるワケじゃないってゆってたw
でも、当時は“反戦”といわないとアホじゃないかって風潮があったんだよね」
時代が生んだナンセンス
みんなが「シェー」をした
タモさん若い! サラリーマン時代もあったんだね/驚
タ「自分の番組は一切見ない。これはもっともキライな時代w
ボクは、あるもの、言葉を信用していませんから。コミュニケーションも解体したい。
言葉=意味。意味の連鎖が社会の秩序や価値になってるワケだから。
それを解体すれば、何も意味がなくなる。意味の連鎖は、人間にとっては重いもの。
それは、たぶんjボクらの上の世代の重苦しい文化の雰囲気~暗いもの、重いもの~への反発なんでしょうね。
赤塚さんもひたすら意味がない!」
【日本人が選ぶ、戦後を象徴する人物 1位~10位~NHK世論調査】
後半はこちら。
「戦後70年 ニッポンの肖像」のプロローグ~私たちはどう生きてきたか 1980年代~