一番、最初に観たのはどこで、どの絵だったか?
1枚観ただけで、この静けさに魅了された
その後、日美で取り上げてくれて、わずか26歳で亡くなった夭逝の画家と知った
私は、なぜか昔から夭逝したアーティストに惹かれるクセがある
今回、この番組を観て、これらの絵が、はがきサイズと知って驚いた
そして井上安治が描いたのが、明治維新後の変貌する東京の町ということで
番組はちょっと『ブラタモリ』的でもあり、とても興味深かった
【内容抜粋メモ】
アニメーション:moss design unit
明治維新から50年 大きな変貌を遂げてきた 東京
その原風景を描き出した 知られざる風景版画のシリーズがあります
絵師の名は井上安治
数え26歳の若さで亡くなりましたが、江戸伝来の浮世絵とは全く異なる
リアルな風景版画を生み出しました
井上安治の描いた風景は、今どのような姿になっているのでしょうか
●北の玄関口 上野駅
ガスミュージアム副館長・高橋隆さん:
描かれているのは明治18年に建てられた初代の駅舎です
初代は関東大震災で焼けてしまったそうです
震災と戦災が大きく東京の街を変えていったんだと思いますね
●日本橋の夜景
川には何隻もの小舟が行き交っています この頃東京は水の都でした
今、日本橋は高速道路の下になり、かつての面影はありません
名橋「日本橋」保存会副会長・細田さん:
水と非常に密着してたし、親しみを持っていた
橋の上に屋根をかぶせるなんてことは考えもしなかったから
「東京真画名所図解」
明治という新時代の風景をありのままの姿で描き出した井上安治
合わせて134点にものぼる明治の東京名所絵を見つめていきます
アナ:
今年は明治維新150年
今日は井上安治が描いた明治の東京の風景を見ていきます
小野正嗣:
全く知りませんでした でもあれが東京の絵だっていうことに驚きました
切ないというか、儚いというか 静けさそのものが聞こえてくるようですね
●旧新橋停車場
井上安治の絵の現在の風景を探し求めて写真に撮っている人がいます
安治の展覧会を手がけてきた高橋さん
この日最初に訪れたのは「旧新橋停車場」
高橋さん:
オリジナルの建物は、関東大震災で焼け落ちてしまい、平成15年に当時の形で再現しています
安治の描いた洋風建築を今でも東京の街中で見ることができるのは
再現とは言いながら、この建物だけになるかと思います
今は高層ビルの谷間にあるクラシックな建物
しかしこの2階建ての洋館、蒸気機関車の駅こそが「文明開化」の象徴でした
●三代広重
当時の「錦絵」は、華々しくその姿を描き出しました
安治は、その新橋の駅を夜の中に沈めています
駅舎には明かりが灯っていますが、通りは暗く、道行く人は黒い影となっています
侘しささえ漂う文明開化の風景です
●高縄鉄道
新橋から横浜まで引かれた日本で最初の鉄道
安治は、蒸気機関車の勇姿を描いています
暮れなずむ空の下 煙を吐きながら汽車が疾走していきます
鉄道が上野に敷かれたのは、新橋に遅れること10年余り 明治16年でした
た:
こちらの上野の駅舎は、二代目の駅舎になりまして
初代は関東大震災で焼けてしまったそうです
やはり東京の街というのは、関東大震災と戦災で大被害を受けて
その中で、現在の東京の街の大まかな形ができてきたんじゃないでしょうか
明治時代の上野駅
最初の駅舎は、煉瓦造りの洋風建築 完成したのは明治18年でした
安治が描いたのは、レンガの色が映える初代の駅舎
馬車や人力車も見え 大勢の人で賑わっています
この歌を石川啄木が詠んだ明治3年 上野駅は安治が描いたこの駅舎でした
●上野公園にある不忍池
ここでは明治の一時期だけ意外なことが行われていました
池の周りを走る競馬が開かれていたのです(『ブラタモリ』でもやっていたような?
「上野競馬」
安治はその競馬の様子を横長の画面に描いています
池の淵を競走馬が駆けていきます
明治天皇が臨席したこともあるほどの一大イベントで
紳士淑女が大勢詰めかけ、競馬に熱狂したと言います
●銀座通り
これは明治10年頃の銀座の風景です
大火に見舞われたのをきっかけに、銀座にはいち早く西洋風のレンガ街が誕生しました
安治は、現在の銀座3丁目から4丁目にかけての風景を描きました
文明開化の象徴の一つだった時計塔があったのです
「銀座通夜景」
夜の銀座のレンガ街の中心に時計塔が高くそびえています
通りにはレールが敷かれ、鉄道馬車が走っていました
●鹿鳴館
日比谷公園に程近いオフィス街 内幸町
この場所には、文明開化を代表するような建物がありました
た:
ここは、かつて鹿鳴館があった場所になります
元々は、薩摩藩の藩邸があった場所に明治16年に建てられまして
明治を代表する洋風建築の建物だったんですでも
唯一プレートが当時を語るだけで安治がが描いた作品の風景というのは
もう面影は全く残っていません
明治16年 時の外務卿・井上馨が中心になって建設した鹿鳴館
政府の要人や外国人たちが集う社交の場でした
当時の華やかな舞踏会の様子はこうした錦絵からも伺えます
しかし、やがて「行き過ぎた欧化政策」だと批判を浴び
鹿鳴館は、歴史の表舞台から消えます
安治が描いた鹿鳴館は、建物には煌々と明かりがともり
夜会でも開かれているのか人影も見えます
庭のベンチにはシルクハットをかぶった紳士が一人 満月でも見ているのでしょうか
外には静けさが漂い、虫の音でも聞こえてきそうです
●陸軍参謀本部
「富国強兵」を謳っていた明治政府
今、国会議事堂がある永田町には「陸軍参謀本部」がありました
旧陸軍を率いた最高の統帥機関 参謀本部
明治14年に建設された威風堂々とした建物は
昭和20年の戦災で焼失 軍の崩壊と運命を共にしました
緑に覆われた皇居のお濠越しに白い参謀本部の建物が見えます
遠目に眺めると、建物の威圧感は消え、ホテルのような雰囲気さえあります
●築地海軍省
「海軍発祥の地」と言われるのは、卸売市場などがある築地です
かつてこの一帯は海軍用地で、兵学校や軍医学校などが建ち並んでいました
暗い空 雪に覆われた築地の風景です
赤レンガの洋館は、当時の盲学校?の建物
海軍兵学校は、右側の低い建物です
通りを行く人も見えますが、ひっそりとした雰囲気が漂います
●千住製絨所跡@南千住
富国強兵と並ぶ明治政府のもうひとつのスローガンは「殖産興業」
その事業の一つが、この荒川区にありました
た:
こちらが製絨所跡 機織物を織るための工場の遺構です
ラシャというのは当時、軍用服に使うために
官営の工場がこの地に設けられて
かろうじて当時を語る資料がこのレンガ塀になります
明治12年 政府の肝いりで作られた千住製絨所
それまで輸入に頼っていた明治政府の制服や軍服を
国内で賄うため煉瓦造りの工場が作られました
その最先端の工場は並木越し 田んぼの向こうに見えます
近寄ると、いくつもの建物が連なり、工場の規模の大きさが伺えます
た:
作品の中ではデフォルメをしたりとか
いろんなものを加筆したり、色を変えたりとか
そういうことが意外と少ないと見受けられます
そういう意味では、あの当時の風景を作品の中に写し取るような形で
制作したのではないかという感じがします
あの時代の東京の風景を134枚の作品の中に収めてくれたというのは
今の私たちにかつての東京の明治の様子を
分かりやすく伝えてくれてるんじゃないかと思います
小野:
東京は、かつてはあんなに空き地があって、空が広くて驚きました
今は建物が沢山あって、目に優しくないというか、情報過多じゃないですか
だけど安治の絵を見てると、すっとその風景が目に馴染んでくる感じがしますよね
スタジオゲスト:ドイツ文学者 エッセイスト 池内紀さん
アナ:池内さんは随分前にエッセイで取り上げたことがあるんですよね?
い:
随分昔ですね 40年近く前です
安治の絵を見た時、非常に新鮮な驚きで
絵というよりむしろ記録画みたいなもので
オリジナルは小さいんですよね 絵葉書よりちょっと大きいぐらい
小さくて、何ともないのにポエジー 詩情がなんとも言えない
一つ一つ克明に描いてあって、望遠鏡を逆にして見ると小さく見える
ああいう印象でしたね
「遠眼鏡の風景」っていうタイトルで書いた時に
これはずっと楽しめそうな人だなと思いました 実際40年くらい楽しんできました
小野:見ていて ちょっと懐かしいような、愛しい風景があるような
い:
そうですね 明治の一番最初の日本が体験した近代化ですよね
それを非常に克明に、20代の青年が何を考えていたのか分からないですけど
ある種の使命感があった気がします
浮世絵のように艶やかなものにしないで、これが現にある通り描いている
小野:記録作家みたいなものですかね
い:
江戸っていうのは大名がほとんど占めていた それが一斉に引き上げた
あの頃の東京っていうのは、空き地だらけだったと思いますよ
安治はちょうどその江戸から明治への転換期の狭間にいた人ですね
この頃に居たかったですね
●師匠・小林清親
井上安治は、明治維新を目前にした1864年 江戸 浅草で生まれました
17歳の時、絵師としてデビュー
26歳の若さで亡くなるまでの9年間 東京の風景を中心に200点以上の絵を描きました
安治が絵師になれたのは、師匠・小林清親のおかげでした
清親は、文明開化で変貌する東京の姿を詩情豊かに描き出しました
清親の代表作の一つ 華やかなイルミネーションが飾られた博覧会の会場です
(タッチが似てるな
光と影を駆使したその絵は「光線画」と呼ばれ、人気を博しました
安治が清親に弟子入りした日のエピソードが残っています
ある雪の日 清親がスケッチをしていると、そこに少年が近寄ってきて
2時間余りもじっと見つめていました
その熱心な姿を見て、清親が話しかけたのが弟子入りのきっかけでした
●無名だった安治に着目した杉浦日向子
清親の陰に隠れ、ほとんど無名だった安治に着目したのが
漫画家で江戸風俗研究家でもある杉浦日向子さんです
杉浦さんは、安治をテーマにした漫画を残しました
その中で安治の絵の特徴を清親の絵と比べながら解き明かしています
杉浦:
広重描く「名所江戸百景」にはワクワクするような異郷の香りがする
時には上空遥から、あるいは地面に這って、『ガリバー旅行記』のように街を見せる
清親や安治の描く東京を見ると、初めて自分が毎日踏んでいる地面を思い出す
清親らの視点は、いつも人間の目の高さだった
安治の風景画の1/4は師・清親の画稿をなぞっている
“安治は清親のダミーだ”と言われるが、両者の資質の違いはあらわれている
清親が描いた日本橋の問屋の風景
大勢の客で賑わう店先の様子をごく普通の角度から見ています
安治の絵は、五重塔が遠くに見える谷中の様子 こちらも目の高さから見た光景です
●杉浦さんの観る師匠と弟子の違い
杉浦:
例えば「江戸橋の景」
清親は手前に走る車夫と、富士の横の入道雲を大きく捉える
安治はそのどちらをも描かない 黄昏の画面は静まり返っている
杉浦さんが比較している2点は、同じ場所、同じ構図の風景です
人物と入道雲が加わると、絵に動きが出るのが分かります
杉浦:
例えば「廐橋」
清親は、夜空に一閃する稲光りと、傘をすぼめて家路を急ぐ人物を描く
安治は暮れゆく町の、ゆったりとしたひと時を描く
これも同じ場所、同じ構図ですが、清親の雷が光った瞬間の光景と
安治の穏やかな夕景とは、絵から受ける印象がまるで異なります
2人の比較は、安治が得意とした夜の表現にも及びます
杉浦:例えば夜 安治の夜は他のどの絵師よりも暗い
「中洲」
満月の夜の情景ですが、安治の絵は、実際に見たままの暗さを思わせます
「本町通夜」
杉浦:
総じて清親の絵は動きがあり動的で、映画のワンシーンのように甘やかで切ない
安治の絵は拍子抜けするほど淡々とし、渋い色調にもかかわらず
画面は湿り気ない奇妙な明るさに満ちている
安治が対象に冷ややかであったのではなく、それが彼のやり方だった
清親は芸術家たらんと欲したが、安治はたぶん自分のことを画工だと思っていただろう
山口県立萩美術館・浦上記念館 学芸員・吉田さん:
清親が芸術家であり、安治が画工だとたぶん自分で思っていただろうというのは
おっしゃりたいことはよく分かります
「海運橋」
清親は幕臣だったので、江戸をまだ引きずっていて
こちらの作品ですと、第一国立銀行という近代の建築物なんですが
和服姿の傘をさした女性が、意図的にだと思うんですが
新しい建築物と古いものを対比させて、江戸というものを強調したかったと思う
安治は年齢的にも若いので、江戸的なものが混ざっている今の東京を
感情移入することなく淡々と、現実がそういうものだったとして描くことができたと思います
江戸的な感性を抜けて、西洋のものが自分たちのものとしてこなされている時代
一歩踏み出したのが安治だったんでしょうね
アナ:
清親と比べると安治の個性がより見えてくると思ったんですけれども
池内さんは、清親と安治の違いをどのように捉えていらっしゃいますか?
い:
一つは年齢が大きいですよね
江戸から20年以上体験した清親と、ほとんど江戸体験がない安治
そういう時代に対する気持ちの持ち方が大きく違うことと
安治の非常にスッキリした、余計なものを入れない
あれは若者の強さだと僕は思います
ある種、凛とした表現をしたり、人間をそういう行動にさせることができるのは若さがもつ力です
余計な夢とか、政府が囃し立ている「西洋」とか、そういうものを全部消して
自分が面白いと思うものだけに限るっていうのは、やっぱり若さの持つ力でしょうね
小野:
見ていて2人の違いと思ったのは、師匠のほうはやっぱり
絵の中に物語を作っているんじゃないかと思ったんですね
人物もあるし、風景も動いてるし
だけど安治のほうは淡々と記述しているって言うんですかね、現実を
い:
清親の場合は華やぎがありますよね
安治の場合は、和やか なんとなく優しさがある そういう違いを感じましたね
だから華やぎがだんだん飽きてくるんですよ
仕掛けをしてある分だけ、ちょっと古びるのが早い
仕掛けがなくて、対象に非常に正確な姿勢をとってるほうが
作品とすれば残ってほしいと思いますね
ヘタに技巧を凝らして、ひねりを加えたりしようとすると、早く古びてしまう
甘い食べ物で言えば、甘味のところから腐っていくっていう
●隅田川
かつて東京は水の都でした
江戸時代、交通の中心は水運で、川や壕が縦横に巡っていました
明治に入り、次第に「陸運」に切り替わっていきますが
安治が描いた東京は、水辺の光景に溢れています
●安治の絵を、水辺を愛した文豪の文章と観る
芥川龍之介
明治25年に生まれ、少年時代を隅田川の傍にあった母の実家で過ごします
「大川の水」より
幼い時から ほとんど毎日のようにあの川を見た
どうしてこうもあの川を愛するのか
昔からあの水を見るごとに、涙を落としたいような 言いがたい慰安と寂寥を感じた
「両国橋」
芥川龍之介が子どもの頃、隅田川に架かる両国橋はまだ木の橋でした
かつて両国橋の辺りは水流が激しく、流れを和らげ、川岸を守るため、数多くの杭が打たれました
いつしかそれは「百本杭」と呼ばれるようになりました
「両国百本杭之景」
夕暮れ時の隅田川 百本杭の向こうに両国橋が見えます
「本所両国」より
僕は、昔の狭い木造の両国橋に未だに愛着を感じている
僕は時々この橋を渡り、波の荒い百本杭や
葦の茂った中洲を眺めたりした
百本杭も、その名が示す通り、河岸に近い水の中に何本も立っていた乱杭である
昔の芝居は殺場などにこの人通りの少ない「百本杭」の河岸を使っていた
永井荷風
東京の下町をこよなく愛して歩き回り、多くの小説や随筆を著しました
戦後の隅田川の汚れを嘆きながらもこう書いています
「水の流れ」より
私は言問橋や吾妻橋を渡るたびたび、眉をひそめ鼻を覆いながらも
欄干に身を寄せて、濁った水の流れを眺めなければならない
水の流れほど、見ている者に言い知れぬ空想の喜びを与えるものはない
「永代遠景」
隅田川の下流 広々とした水面に大小の帆船などが浮かんでいます
遠くに洋艦が並び、永代橋が見えます
「日和下駄」より
石川島の工場を後ろにして、幾艘となく帆柱を連ねて停泊する
様々な日本風の荷船や西洋形の帆前船を見れば、おのずと特種の詩情が催される
隅田川に合流する日本橋川
高度成長期に高速道路が造られ、今はその高架下を流れています
かつてこの川も文豪を魅了しました
谷崎潤一郎
明治19年 今の日本橋 人形町に生まれた
子どもの頃、日本橋川に架かる「鎧橋」をよく通りました
文明開化のシンボルの一つだった鉄橋 谷崎が渡ったのはこの鎧橋でした
「鎧橋」
「幼少時代」より
私は行き帰りに橋の途中で立ち止まって、日本橋川の水の流れを眺めるのが常であった
水の表を見つめていると、水が流れて行くのではなく、橋が動いていくように見えた
「鎧橋遠景」
鎧橋の近くに煌々と明かりが灯る洋館が建っています
明治の財界の指導者 渋沢栄一の邸宅です
「幼少時代」より
渋沢邸のお伽噺のような建物を、いつも不思議な心持ちで飽かずに見入ったものであった
明治中期の東京の真ん中に、ああいう異国の古典主義の邸宅を築いたのは、誰の思いつきだったのであろうか
あの一角だけが西洋風景画のように日本離れした空気を漂わせていた
だがそれでいて、周囲の水だの町だのと必ずしも不釣り合いではなく
前の流れを往き来する荷足船や伝馬船や達磨船などが
ゴンドラと同じように調和していたのは妙であった
●日本橋
鎧橋の上流には、かの「日本橋」があります
江戸開闢以来、五街道の起点として栄えてきた日本橋
明治になってからも日本橋は東京のシンボルのひとつでした
田山花袋
明治4年 今の群馬県に生まれましたが
9歳の時、日本橋近くの書店に丁稚奉公に出ました
「日本橋」
その頃安治が描いた日本橋の様子です
川は数多くの船で賑わい、その向こうにまだ木の橋だった日本橋が見えます
「大東京繁昌記 日本橋附近」より
私はどんな日でも京橋と日本橋を渡らない日はなかった
私は重い本を背負ったり、帳面を持って行って見せたりなどした
川沿いには魚河岸がありました
少年の花袋は魚河岸に紛れ込んだこともありました
「東京の三十年」より
魚河岸は家の作りなども昔のままだと思うが、
雑踏と不潔と混雑はさらに一層おびただしかったように私は記憶している
一度そこに行って押せ押せで出られなくなって
泣きそうになってから請いて、二度とそこに私は入らなかった
「日本橋夜景」
満月に照らされた日本橋です
洋館には明かりがともり、橋の上を大勢の人々が通り過ぎています
日本橋が木の橋から石橋に造り変えられたのは、明治44年になってからでした
その橋は、関東大震災や戦災をくぐり抜け、今もその姿をとどめています
ただ「東京オリンピック」を機に造られた高速道路の下になってしまいました
日本橋で生まれ育った老舗和菓子店の6代目・細田安兵衛さん(名橋「日本橋」保存会副会長)は
高架の撤去を呼びかけてきました
細田:
ここは水路でしょう だから大変重要な道路ですよね
道路みたいに4車線くらいに船が行ったり来たりしてたわけでしょ
生活が非常に川と密着してたし、水に親しみを持っていたということですよね
今度東京オリンピックが来た時に、おそらく外人さんがみんなここに来るかもしれない
なんでこんな野蛮なことをしたんだという風にみんな思うと思うんです
特に向こうの人たちは大変景観を大切にするから
高架はないほうがいいですよ
細田さんたちの働きかけもあって、
国や都は日本橋周辺の高速道路の地下化に向けて取り組むと発表しました
小野:
東京があんなに水に溢れる場所だったということ 全く実感しておりませんでした
池内先生は、東京の街をよく散策されて、エッセイをたくさん書いておられますが
今と昔の違いについてどのように感じておられますでしょうか?
い:
川の点で言いますと、思いもかけないところにくねくねとした通りがあるんですよね
それはだいたい以前川だった
その川の通りに当然染物屋さんとかがあったり、川涼みしたりとか
生活の中にそういう場所がだいたいあったんですよ
東京の中に川は本当にたくさんあって、水も綺麗だし
でも、残念ながら汚れた川しか知らないんです
汚れた川だから埋め立てようとなるんですよね
川を汚しておいて、汚いから埋め立てる
人間は本当に勝手ですからね 一網打尽にしてしまいましたね
小野:日本橋の風景などは象徴的っていうか まさに橋の上を道路が・・・
い:
シュールレアリスムみたいですね
外国人は日本人はこれはギャグでやったんじゃないかと
小野:
ひょっとしたら野暮と思わなくて、超近代だ スーパーモダンだと思うかもしれませんねw
い:
荷風の言うとおり、川はかつては道路だったんだと
物流の帯だったわけですからね
その帯を上手に生かした町と、もう時代遅れだから
やめてしまおうと一切切り捨てたのとはずいぶん違いますね
ヴェニスなんか水路があれだけ走っていて、そこにゴンドラだけじゃなくて
あらゆるものが船で
だからちょっと不便な街がいいんですよね どこまでも便利をかけるんじゃなくてね
ちょっと不便だけど、このままにしとこうよ
そういう発想がなかなか生まれなかったんですよね
小野:
今、僕らは安治の絵を観ることによって、そういうちょっと不便だけど
人間の情緒にとってはとても良い風景っていうのを
そういうことに思いを馳せるということがあってもいいかもしれませんね
い:
そのほうが安治が喜ぶんじゃないかな
こういう記録を作ったっていう自分なりの役割があったでしょうからね
26歳だから晩年っていうのは変だけど、名前を「探景」と変えていますよね
風景っていうものを自分なりに探した
それを絵にとどめる役目を自分で感じていたんじゃないですかね
1枚観ただけで、この静けさに魅了された
その後、日美で取り上げてくれて、わずか26歳で亡くなった夭逝の画家と知った
私は、なぜか昔から夭逝したアーティストに惹かれるクセがある
今回、この番組を観て、これらの絵が、はがきサイズと知って驚いた
そして井上安治が描いたのが、明治維新後の変貌する東京の町ということで
番組はちょっと『ブラタモリ』的でもあり、とても興味深かった
【内容抜粋メモ】
アニメーション:moss design unit
明治維新から50年 大きな変貌を遂げてきた 東京
その原風景を描き出した 知られざる風景版画のシリーズがあります
絵師の名は井上安治
数え26歳の若さで亡くなりましたが、江戸伝来の浮世絵とは全く異なる
リアルな風景版画を生み出しました
井上安治の描いた風景は、今どのような姿になっているのでしょうか
●北の玄関口 上野駅
ガスミュージアム副館長・高橋隆さん:
描かれているのは明治18年に建てられた初代の駅舎です
初代は関東大震災で焼けてしまったそうです
震災と戦災が大きく東京の街を変えていったんだと思いますね
●日本橋の夜景
川には何隻もの小舟が行き交っています この頃東京は水の都でした
今、日本橋は高速道路の下になり、かつての面影はありません
名橋「日本橋」保存会副会長・細田さん:
水と非常に密着してたし、親しみを持っていた
橋の上に屋根をかぶせるなんてことは考えもしなかったから
「東京真画名所図解」
明治という新時代の風景をありのままの姿で描き出した井上安治
合わせて134点にものぼる明治の東京名所絵を見つめていきます
アナ:
今年は明治維新150年
今日は井上安治が描いた明治の東京の風景を見ていきます
小野正嗣:
全く知りませんでした でもあれが東京の絵だっていうことに驚きました
切ないというか、儚いというか 静けさそのものが聞こえてくるようですね
●旧新橋停車場
井上安治の絵の現在の風景を探し求めて写真に撮っている人がいます
安治の展覧会を手がけてきた高橋さん
この日最初に訪れたのは「旧新橋停車場」
高橋さん:
オリジナルの建物は、関東大震災で焼け落ちてしまい、平成15年に当時の形で再現しています
安治の描いた洋風建築を今でも東京の街中で見ることができるのは
再現とは言いながら、この建物だけになるかと思います
今は高層ビルの谷間にあるクラシックな建物
しかしこの2階建ての洋館、蒸気機関車の駅こそが「文明開化」の象徴でした
●三代広重
当時の「錦絵」は、華々しくその姿を描き出しました
安治は、その新橋の駅を夜の中に沈めています
駅舎には明かりが灯っていますが、通りは暗く、道行く人は黒い影となっています
侘しささえ漂う文明開化の風景です
●高縄鉄道
新橋から横浜まで引かれた日本で最初の鉄道
安治は、蒸気機関車の勇姿を描いています
暮れなずむ空の下 煙を吐きながら汽車が疾走していきます
鉄道が上野に敷かれたのは、新橋に遅れること10年余り 明治16年でした
た:
こちらの上野の駅舎は、二代目の駅舎になりまして
初代は関東大震災で焼けてしまったそうです
やはり東京の街というのは、関東大震災と戦災で大被害を受けて
その中で、現在の東京の街の大まかな形ができてきたんじゃないでしょうか
明治時代の上野駅
最初の駅舎は、煉瓦造りの洋風建築 完成したのは明治18年でした
安治が描いたのは、レンガの色が映える初代の駅舎
馬車や人力車も見え 大勢の人で賑わっています
この歌を石川啄木が詠んだ明治3年 上野駅は安治が描いたこの駅舎でした
●上野公園にある不忍池
ここでは明治の一時期だけ意外なことが行われていました
池の周りを走る競馬が開かれていたのです(『ブラタモリ』でもやっていたような?
「上野競馬」
安治はその競馬の様子を横長の画面に描いています
池の淵を競走馬が駆けていきます
明治天皇が臨席したこともあるほどの一大イベントで
紳士淑女が大勢詰めかけ、競馬に熱狂したと言います
●銀座通り
これは明治10年頃の銀座の風景です
大火に見舞われたのをきっかけに、銀座にはいち早く西洋風のレンガ街が誕生しました
安治は、現在の銀座3丁目から4丁目にかけての風景を描きました
文明開化の象徴の一つだった時計塔があったのです
「銀座通夜景」
夜の銀座のレンガ街の中心に時計塔が高くそびえています
通りにはレールが敷かれ、鉄道馬車が走っていました
●鹿鳴館
日比谷公園に程近いオフィス街 内幸町
この場所には、文明開化を代表するような建物がありました
た:
ここは、かつて鹿鳴館があった場所になります
元々は、薩摩藩の藩邸があった場所に明治16年に建てられまして
明治を代表する洋風建築の建物だったんですでも
唯一プレートが当時を語るだけで安治がが描いた作品の風景というのは
もう面影は全く残っていません
明治16年 時の外務卿・井上馨が中心になって建設した鹿鳴館
政府の要人や外国人たちが集う社交の場でした
当時の華やかな舞踏会の様子はこうした錦絵からも伺えます
しかし、やがて「行き過ぎた欧化政策」だと批判を浴び
鹿鳴館は、歴史の表舞台から消えます
安治が描いた鹿鳴館は、建物には煌々と明かりがともり
夜会でも開かれているのか人影も見えます
庭のベンチにはシルクハットをかぶった紳士が一人 満月でも見ているのでしょうか
外には静けさが漂い、虫の音でも聞こえてきそうです
●陸軍参謀本部
「富国強兵」を謳っていた明治政府
今、国会議事堂がある永田町には「陸軍参謀本部」がありました
旧陸軍を率いた最高の統帥機関 参謀本部
明治14年に建設された威風堂々とした建物は
昭和20年の戦災で焼失 軍の崩壊と運命を共にしました
緑に覆われた皇居のお濠越しに白い参謀本部の建物が見えます
遠目に眺めると、建物の威圧感は消え、ホテルのような雰囲気さえあります
●築地海軍省
「海軍発祥の地」と言われるのは、卸売市場などがある築地です
かつてこの一帯は海軍用地で、兵学校や軍医学校などが建ち並んでいました
暗い空 雪に覆われた築地の風景です
赤レンガの洋館は、当時の盲学校?の建物
海軍兵学校は、右側の低い建物です
通りを行く人も見えますが、ひっそりとした雰囲気が漂います
●千住製絨所跡@南千住
富国強兵と並ぶ明治政府のもうひとつのスローガンは「殖産興業」
その事業の一つが、この荒川区にありました
た:
こちらが製絨所跡 機織物を織るための工場の遺構です
ラシャというのは当時、軍用服に使うために
官営の工場がこの地に設けられて
かろうじて当時を語る資料がこのレンガ塀になります
明治12年 政府の肝いりで作られた千住製絨所
それまで輸入に頼っていた明治政府の制服や軍服を
国内で賄うため煉瓦造りの工場が作られました
その最先端の工場は並木越し 田んぼの向こうに見えます
近寄ると、いくつもの建物が連なり、工場の規模の大きさが伺えます
た:
作品の中ではデフォルメをしたりとか
いろんなものを加筆したり、色を変えたりとか
そういうことが意外と少ないと見受けられます
そういう意味では、あの当時の風景を作品の中に写し取るような形で
制作したのではないかという感じがします
あの時代の東京の風景を134枚の作品の中に収めてくれたというのは
今の私たちにかつての東京の明治の様子を
分かりやすく伝えてくれてるんじゃないかと思います
小野:
東京は、かつてはあんなに空き地があって、空が広くて驚きました
今は建物が沢山あって、目に優しくないというか、情報過多じゃないですか
だけど安治の絵を見てると、すっとその風景が目に馴染んでくる感じがしますよね
スタジオゲスト:ドイツ文学者 エッセイスト 池内紀さん
アナ:池内さんは随分前にエッセイで取り上げたことがあるんですよね?
い:
随分昔ですね 40年近く前です
安治の絵を見た時、非常に新鮮な驚きで
絵というよりむしろ記録画みたいなもので
オリジナルは小さいんですよね 絵葉書よりちょっと大きいぐらい
小さくて、何ともないのにポエジー 詩情がなんとも言えない
一つ一つ克明に描いてあって、望遠鏡を逆にして見ると小さく見える
ああいう印象でしたね
「遠眼鏡の風景」っていうタイトルで書いた時に
これはずっと楽しめそうな人だなと思いました 実際40年くらい楽しんできました
小野:見ていて ちょっと懐かしいような、愛しい風景があるような
い:
そうですね 明治の一番最初の日本が体験した近代化ですよね
それを非常に克明に、20代の青年が何を考えていたのか分からないですけど
ある種の使命感があった気がします
浮世絵のように艶やかなものにしないで、これが現にある通り描いている
小野:記録作家みたいなものですかね
い:
江戸っていうのは大名がほとんど占めていた それが一斉に引き上げた
あの頃の東京っていうのは、空き地だらけだったと思いますよ
安治はちょうどその江戸から明治への転換期の狭間にいた人ですね
この頃に居たかったですね
●師匠・小林清親
井上安治は、明治維新を目前にした1864年 江戸 浅草で生まれました
17歳の時、絵師としてデビュー
26歳の若さで亡くなるまでの9年間 東京の風景を中心に200点以上の絵を描きました
安治が絵師になれたのは、師匠・小林清親のおかげでした
清親は、文明開化で変貌する東京の姿を詩情豊かに描き出しました
清親の代表作の一つ 華やかなイルミネーションが飾られた博覧会の会場です
(タッチが似てるな
光と影を駆使したその絵は「光線画」と呼ばれ、人気を博しました
安治が清親に弟子入りした日のエピソードが残っています
ある雪の日 清親がスケッチをしていると、そこに少年が近寄ってきて
2時間余りもじっと見つめていました
その熱心な姿を見て、清親が話しかけたのが弟子入りのきっかけでした
●無名だった安治に着目した杉浦日向子
清親の陰に隠れ、ほとんど無名だった安治に着目したのが
漫画家で江戸風俗研究家でもある杉浦日向子さんです
杉浦さんは、安治をテーマにした漫画を残しました
その中で安治の絵の特徴を清親の絵と比べながら解き明かしています
杉浦:
広重描く「名所江戸百景」にはワクワクするような異郷の香りがする
時には上空遥から、あるいは地面に這って、『ガリバー旅行記』のように街を見せる
清親や安治の描く東京を見ると、初めて自分が毎日踏んでいる地面を思い出す
清親らの視点は、いつも人間の目の高さだった
安治の風景画の1/4は師・清親の画稿をなぞっている
“安治は清親のダミーだ”と言われるが、両者の資質の違いはあらわれている
清親が描いた日本橋の問屋の風景
大勢の客で賑わう店先の様子をごく普通の角度から見ています
安治の絵は、五重塔が遠くに見える谷中の様子 こちらも目の高さから見た光景です
●杉浦さんの観る師匠と弟子の違い
杉浦:
例えば「江戸橋の景」
清親は手前に走る車夫と、富士の横の入道雲を大きく捉える
安治はそのどちらをも描かない 黄昏の画面は静まり返っている
杉浦さんが比較している2点は、同じ場所、同じ構図の風景です
人物と入道雲が加わると、絵に動きが出るのが分かります
杉浦:
例えば「廐橋」
清親は、夜空に一閃する稲光りと、傘をすぼめて家路を急ぐ人物を描く
安治は暮れゆく町の、ゆったりとしたひと時を描く
これも同じ場所、同じ構図ですが、清親の雷が光った瞬間の光景と
安治の穏やかな夕景とは、絵から受ける印象がまるで異なります
2人の比較は、安治が得意とした夜の表現にも及びます
杉浦:例えば夜 安治の夜は他のどの絵師よりも暗い
「中洲」
満月の夜の情景ですが、安治の絵は、実際に見たままの暗さを思わせます
「本町通夜」
杉浦:
総じて清親の絵は動きがあり動的で、映画のワンシーンのように甘やかで切ない
安治の絵は拍子抜けするほど淡々とし、渋い色調にもかかわらず
画面は湿り気ない奇妙な明るさに満ちている
安治が対象に冷ややかであったのではなく、それが彼のやり方だった
清親は芸術家たらんと欲したが、安治はたぶん自分のことを画工だと思っていただろう
山口県立萩美術館・浦上記念館 学芸員・吉田さん:
清親が芸術家であり、安治が画工だとたぶん自分で思っていただろうというのは
おっしゃりたいことはよく分かります
「海運橋」
清親は幕臣だったので、江戸をまだ引きずっていて
こちらの作品ですと、第一国立銀行という近代の建築物なんですが
和服姿の傘をさした女性が、意図的にだと思うんですが
新しい建築物と古いものを対比させて、江戸というものを強調したかったと思う
安治は年齢的にも若いので、江戸的なものが混ざっている今の東京を
感情移入することなく淡々と、現実がそういうものだったとして描くことができたと思います
江戸的な感性を抜けて、西洋のものが自分たちのものとしてこなされている時代
一歩踏み出したのが安治だったんでしょうね
アナ:
清親と比べると安治の個性がより見えてくると思ったんですけれども
池内さんは、清親と安治の違いをどのように捉えていらっしゃいますか?
い:
一つは年齢が大きいですよね
江戸から20年以上体験した清親と、ほとんど江戸体験がない安治
そういう時代に対する気持ちの持ち方が大きく違うことと
安治の非常にスッキリした、余計なものを入れない
あれは若者の強さだと僕は思います
ある種、凛とした表現をしたり、人間をそういう行動にさせることができるのは若さがもつ力です
余計な夢とか、政府が囃し立ている「西洋」とか、そういうものを全部消して
自分が面白いと思うものだけに限るっていうのは、やっぱり若さの持つ力でしょうね
小野:
見ていて2人の違いと思ったのは、師匠のほうはやっぱり
絵の中に物語を作っているんじゃないかと思ったんですね
人物もあるし、風景も動いてるし
だけど安治のほうは淡々と記述しているって言うんですかね、現実を
い:
清親の場合は華やぎがありますよね
安治の場合は、和やか なんとなく優しさがある そういう違いを感じましたね
だから華やぎがだんだん飽きてくるんですよ
仕掛けをしてある分だけ、ちょっと古びるのが早い
仕掛けがなくて、対象に非常に正確な姿勢をとってるほうが
作品とすれば残ってほしいと思いますね
ヘタに技巧を凝らして、ひねりを加えたりしようとすると、早く古びてしまう
甘い食べ物で言えば、甘味のところから腐っていくっていう
●隅田川
かつて東京は水の都でした
江戸時代、交通の中心は水運で、川や壕が縦横に巡っていました
明治に入り、次第に「陸運」に切り替わっていきますが
安治が描いた東京は、水辺の光景に溢れています
●安治の絵を、水辺を愛した文豪の文章と観る
芥川龍之介
明治25年に生まれ、少年時代を隅田川の傍にあった母の実家で過ごします
「大川の水」より
幼い時から ほとんど毎日のようにあの川を見た
どうしてこうもあの川を愛するのか
昔からあの水を見るごとに、涙を落としたいような 言いがたい慰安と寂寥を感じた
「両国橋」
芥川龍之介が子どもの頃、隅田川に架かる両国橋はまだ木の橋でした
かつて両国橋の辺りは水流が激しく、流れを和らげ、川岸を守るため、数多くの杭が打たれました
いつしかそれは「百本杭」と呼ばれるようになりました
「両国百本杭之景」
夕暮れ時の隅田川 百本杭の向こうに両国橋が見えます
「本所両国」より
僕は、昔の狭い木造の両国橋に未だに愛着を感じている
僕は時々この橋を渡り、波の荒い百本杭や
葦の茂った中洲を眺めたりした
百本杭も、その名が示す通り、河岸に近い水の中に何本も立っていた乱杭である
昔の芝居は殺場などにこの人通りの少ない「百本杭」の河岸を使っていた
永井荷風
東京の下町をこよなく愛して歩き回り、多くの小説や随筆を著しました
戦後の隅田川の汚れを嘆きながらもこう書いています
「水の流れ」より
私は言問橋や吾妻橋を渡るたびたび、眉をひそめ鼻を覆いながらも
欄干に身を寄せて、濁った水の流れを眺めなければならない
水の流れほど、見ている者に言い知れぬ空想の喜びを与えるものはない
「永代遠景」
隅田川の下流 広々とした水面に大小の帆船などが浮かんでいます
遠くに洋艦が並び、永代橋が見えます
「日和下駄」より
石川島の工場を後ろにして、幾艘となく帆柱を連ねて停泊する
様々な日本風の荷船や西洋形の帆前船を見れば、おのずと特種の詩情が催される
隅田川に合流する日本橋川
高度成長期に高速道路が造られ、今はその高架下を流れています
かつてこの川も文豪を魅了しました
谷崎潤一郎
明治19年 今の日本橋 人形町に生まれた
子どもの頃、日本橋川に架かる「鎧橋」をよく通りました
文明開化のシンボルの一つだった鉄橋 谷崎が渡ったのはこの鎧橋でした
「鎧橋」
「幼少時代」より
私は行き帰りに橋の途中で立ち止まって、日本橋川の水の流れを眺めるのが常であった
水の表を見つめていると、水が流れて行くのではなく、橋が動いていくように見えた
「鎧橋遠景」
鎧橋の近くに煌々と明かりが灯る洋館が建っています
明治の財界の指導者 渋沢栄一の邸宅です
「幼少時代」より
渋沢邸のお伽噺のような建物を、いつも不思議な心持ちで飽かずに見入ったものであった
明治中期の東京の真ん中に、ああいう異国の古典主義の邸宅を築いたのは、誰の思いつきだったのであろうか
あの一角だけが西洋風景画のように日本離れした空気を漂わせていた
だがそれでいて、周囲の水だの町だのと必ずしも不釣り合いではなく
前の流れを往き来する荷足船や伝馬船や達磨船などが
ゴンドラと同じように調和していたのは妙であった
●日本橋
鎧橋の上流には、かの「日本橋」があります
江戸開闢以来、五街道の起点として栄えてきた日本橋
明治になってからも日本橋は東京のシンボルのひとつでした
田山花袋
明治4年 今の群馬県に生まれましたが
9歳の時、日本橋近くの書店に丁稚奉公に出ました
「日本橋」
その頃安治が描いた日本橋の様子です
川は数多くの船で賑わい、その向こうにまだ木の橋だった日本橋が見えます
「大東京繁昌記 日本橋附近」より
私はどんな日でも京橋と日本橋を渡らない日はなかった
私は重い本を背負ったり、帳面を持って行って見せたりなどした
川沿いには魚河岸がありました
少年の花袋は魚河岸に紛れ込んだこともありました
「東京の三十年」より
魚河岸は家の作りなども昔のままだと思うが、
雑踏と不潔と混雑はさらに一層おびただしかったように私は記憶している
一度そこに行って押せ押せで出られなくなって
泣きそうになってから請いて、二度とそこに私は入らなかった
「日本橋夜景」
満月に照らされた日本橋です
洋館には明かりがともり、橋の上を大勢の人々が通り過ぎています
日本橋が木の橋から石橋に造り変えられたのは、明治44年になってからでした
その橋は、関東大震災や戦災をくぐり抜け、今もその姿をとどめています
ただ「東京オリンピック」を機に造られた高速道路の下になってしまいました
日本橋で生まれ育った老舗和菓子店の6代目・細田安兵衛さん(名橋「日本橋」保存会副会長)は
高架の撤去を呼びかけてきました
細田:
ここは水路でしょう だから大変重要な道路ですよね
道路みたいに4車線くらいに船が行ったり来たりしてたわけでしょ
生活が非常に川と密着してたし、水に親しみを持っていたということですよね
今度東京オリンピックが来た時に、おそらく外人さんがみんなここに来るかもしれない
なんでこんな野蛮なことをしたんだという風にみんな思うと思うんです
特に向こうの人たちは大変景観を大切にするから
高架はないほうがいいですよ
細田さんたちの働きかけもあって、
国や都は日本橋周辺の高速道路の地下化に向けて取り組むと発表しました
小野:
東京があんなに水に溢れる場所だったということ 全く実感しておりませんでした
池内先生は、東京の街をよく散策されて、エッセイをたくさん書いておられますが
今と昔の違いについてどのように感じておられますでしょうか?
い:
川の点で言いますと、思いもかけないところにくねくねとした通りがあるんですよね
それはだいたい以前川だった
その川の通りに当然染物屋さんとかがあったり、川涼みしたりとか
生活の中にそういう場所がだいたいあったんですよ
東京の中に川は本当にたくさんあって、水も綺麗だし
でも、残念ながら汚れた川しか知らないんです
汚れた川だから埋め立てようとなるんですよね
川を汚しておいて、汚いから埋め立てる
人間は本当に勝手ですからね 一網打尽にしてしまいましたね
小野:日本橋の風景などは象徴的っていうか まさに橋の上を道路が・・・
い:
シュールレアリスムみたいですね
外国人は日本人はこれはギャグでやったんじゃないかと
小野:
ひょっとしたら野暮と思わなくて、超近代だ スーパーモダンだと思うかもしれませんねw
い:
荷風の言うとおり、川はかつては道路だったんだと
物流の帯だったわけですからね
その帯を上手に生かした町と、もう時代遅れだから
やめてしまおうと一切切り捨てたのとはずいぶん違いますね
ヴェニスなんか水路があれだけ走っていて、そこにゴンドラだけじゃなくて
あらゆるものが船で
だからちょっと不便な街がいいんですよね どこまでも便利をかけるんじゃなくてね
ちょっと不便だけど、このままにしとこうよ
そういう発想がなかなか生まれなかったんですよね
小野:
今、僕らは安治の絵を観ることによって、そういうちょっと不便だけど
人間の情緒にとってはとても良い風景っていうのを
そういうことに思いを馳せるということがあってもいいかもしれませんね
い:
そのほうが安治が喜ぶんじゃないかな
こういう記録を作ったっていう自分なりの役割があったでしょうからね
26歳だから晩年っていうのは変だけど、名前を「探景」と変えていますよね
風景っていうものを自分なりに探した
それを絵にとどめる役目を自分で感じていたんじゃないですかね