メランコリア

メランコリアの国にようこそ。
ここにあるのはわたしの心象スケッチです。

長塚圭史×舟越桂@SWITCH インタビュー 達人達 アンコール

2018-11-15 11:48:12 | テレビ・動画配信
語り:六角精児


どちらも興味深い2人の対談
舟越さんの個展を都内で観たいなあ!

もとは三沢厚彦さんの動物彫刻を観に行って知った
フシギに細長い人物像は、とても静かだけれども、
三沢さんとの彫像対決では冗談を言いながら造る人柄もステキだった

三沢厚彦 アニマルハウス 謎の館@松濤美術館(2017.11.11)


【内容抜粋メモ】

とある住宅街の一角 公演が間近に迫った舞台の稽古が行われている
俳優たちの芝居に鋭い視線を向けているのが 今回の達人 長塚圭史(42)劇作家、演出家、俳優




『かがみのかなたはたなかのなかに』(2015)@新国立劇場
各界の第一線で活躍する演者が集まった異色の舞台
演出するだけでなく、脚本を書き上げ、さらに出演も
長塚は鏡を境にしてヒロインと対になる役を演じた






朝ドラ『あさが来た』では、深い恨みを抱える炭坑の頭の役を熱演 強烈な印象を残した




長塚は大学時代に演劇ユニット「阿佐ヶ谷スパイダース」を旗揚げ





狂気や非日常 虚実せめぎあう不思議な世界観は、若者たちから圧倒的な支持を得てきた
劇作家、演出家、俳優と一人3役を担う長塚
自作だけでなく古今東西の戯曲の演出にも積極的に取り組んでいる


最新の演出作は将棋の棋士・阪田三吉の波乱万丈の生涯を描いた『王将』



長塚:使う言葉にもっと真実が欲しい なんかこう地球に二人きりみたいな感じで話してほしい

長塚は演劇を通して人間の本質に迫る


彫刻家・舟越桂のアトリエへ

今回、長塚が会いたいと願った達人は、彫刻家・舟越桂(65)
世界にその名を知られる彫刻家 舟越の生み出す作品は、静謐で瞑想的な独特な雰囲気を醸し出す




観音像のように優しげな表情
そして、大理石による深い瞳は、遥か遠くを見つめている

『海を許すために』(2016)








舟越は、40年近くにわたって人物像を彫り続けてきた
130万部を超える小説『永遠の仔』の表紙を飾る作品としても広く知られている

ドラマ『永遠の仔』(2000 全12話 第1~5話)



さらにベネチア ビエンナーレ、ドイツのドキュメント?など
海外の美術展でも高い評価を得て、世界中の人々を魅了してきた


長塚圭史と舟越桂 2人の対談に臨む思いは?

長塚:
劇を作る時に、最後の最後まで結末を決めていないんです
なんでそういう創作のあり方とか、どういう思考でああいう作品が出来上がるんだろうとか
どういう変遷であの彫像の形が変化していったんだろうとか
そういうことをお話ししたいなと思って

舟越:
彫刻の場合は動かずにずっとあるので、それを生きた人間
一人じゃなくて何人かと動いていく時間を見せる
人に観てもらうような仕事を、どういう風に作り上げていくのか
彫刻家としては興味のあるところですね

(舟越さんのアトリエの中もかなり興味があるんだけど!








な:すごい ちょっと宝が多すぎて分からなくなっちゃう

ふ:
結構ものを出しとく癖があるもので 昔のものとか 気に入ってるものとか
どこか見えるところにあるほうが、いつかそれにヒントをもらって何か始まるっていう
今までにもそういう経験があったので

な:これは今製作中の?



ふ:
おとといくらいにチェーンソーを入れて 最初四角い木だったんですけれど
そこからチェーンソーで刻みを入れてから、だんだん落としていく
やっと今、人間の顔らしくなってきたところです
これはわりと僕の中では変わった姿のものを出して来たものの一つですね


2003年に制作した『水に映る月蝕』
「祈り」をテーマにした作品だと言う



ふ:
この腕が翼ってわけではないんですけど、なんかお腹の丸みと手の形で浮いてる姿に思えて
一つ考え方のヒントになって 祈るっていうのか 現実から少し離れられる あるいは浮く
大地から離れるっていう姿をとれば「祈る」ってことにならないかなと思ったんですよね


人間を描く2人 その表現の原動力を語り合う

ふ:
変な時に突然イメージがわくことがあるんですよね
頭の中ではどんなに馬鹿やってる時でも、テレビを見ている時でも
何かずっと探し続けている 脳の中の一部では

な:夢はどうなんですか?

ふ:起きてからもちろんメモしたこともありました

な:
僕は夢を見てて、妻が寝言を書き留めていたっていうことがあって
「ちょっと目玉置いてきた」
それでそれを劇にしちゃったんですけどw


クスノキの木彫半身像




舟越桂が生み出す作品は、一般的な彫刻とは一線を画す
全身像ではなく、あえて上半身のみを切り出した木彫半身像
クスノキを素材とし、肌の質感や着衣の様子を表現するため、油絵の具で彩色が施されている




大理石が使用された眼球 その視線は遠くを見つめている
他に類を見ない舟越の作品は、彫刻界に新風を巻き起こしてきた

な:
舟越さんの彫像は半身で切れてるじゃないですか とてもすごいことに思えていて
欠落と言うかそこで終わってる

ふ:
全身の女の人が僕の身近にあるわけじゃないし
頭だけだと、この人の考えてること 性格はこんなことですよっていうことしか語らないような気がして
でもなんか人間を意識する時って、目の前にいれば全身があって

存在感がすごい強いものがあって そしてある性格があってということを考えると
俺が感じているあの人の存在感は、このぐらいまででいい
そんなことから始めた

最初に作ったのがそこにある女房の裸
これが最初のサイズの作品でしたね おへその下で切った


1979年~1980年にかけて制作した「妻の肖像」
彫刻家・舟越桂の代名詞 木彫半身像の先駆けになった作品だ




な:僕には本当にすごい存在感だったんで驚いたのと、あとは目ですね

ふ:
これは見てお分かりのように目玉入れてないんですよ
この後もうちょっとリアルにしていきたいとかって思いながら
大理石で目玉を作れるんじゃないか 親父の大理石が余っているのがあるんでw

人間の目玉って、他の部分とは全く違うもので出来ていて、光ってるし、濡れてるし
瞳孔の黒さって表面で見えるけど、あの黒さはずっと奥にあって
眼球の奥の暗いところが黒く見えてるだけだから

表面に黒はないんだとかって色々考えていくと
目玉はちょっと別な作り方をしないとまずいなって思い始めたのがきっかけです
それで作ってみたら結構一発目でうまくいって

な:
最初に奥様の作品を生で
それまで僕は写真とかで拝見してたんですけど、すごい存在感だなと思って

ふ:
人間がいる 僕のわりとそばにいる時のその人の感情を彫刻に出したいと思ってるものですから
架空の人もひっくるめて ですから割とリアルでありながら、ある距離がある 数十センチ
でも、肩を両手で捕まえられるような距離感の人物像っていうのがなんとなくイメージにあるんですね

な:
普通に美術館とかでいろんな彫像とかブロンズ像とか
色々海外とか行ったりしても観ますし 明らかに居方(いかた)が違うと言うか
それに非常に驚いて それとさっきもお話しした途切れてるあの切り方が

ふ:
おへその下ぐらいで切ったものを作った時、一つは納得したっていうのがあったんですけど
ある後輩が「人と向き合って喋ったり、あるいは見合ってる時に意識できるのってあの辺までですよね」
て言ってくれた人がいて

「足のことは意識しないけど、お腹のちょっと下ぐらいまでは視界に入っていて
 その辺までが普段対話する時のイメージを持てる人体の範囲ですよね」


って言われた事があって うまいこと言うなこいつと思って





な:まず必ずデッサンがある?

ふ:
そうですね 彫刻を作り始める前に1枚は 同じ大きさのデッサンを描きますね
納得がいくような もう細部とか そういうものに関しては 描いたりしますけどね






な:だいたいそこで試行錯誤っていうのは?

ふ:
でも僕そんなに物事をちゃんと突き詰めていかないタイプなので
大体のことで「よし、これでいける」っていう感じで進めちゃうことも結構ありますね
筋肉の状態をどうするかとか、木彫を彫っていく上で決定していくのは結構ありますね

1枚の紙の中で何かが立ち上がってくる
いい存在が主張してくれれば、もうそれで腕の形なんかも丸棒みたいになってるけれども
それで全体として良いものになってれば「これでいいや」って感じにするんですよね

設計図とは言いながら、完全な設計図ではなくて、イメージ画のような
イメージさえちゃんと掴めるようなものになっていれば、それでOKっていう感じもありますね


アトリエの2階に舟越のデッサンの秘密が隠されていた

ふ:
だいたい頭から描いてるんですけど
ざっと当たってみて 頭の顔の姿
その後は胴体を描いてくんですけど、その時はこの竹刀と木刀につけた鉛筆

ナレ:先端に鉛筆を固定した竹刀と木刀こそ舟越の秘密兵器

ふ:やってみます?

な:想像がつかないですね






ふ:
そんなに大層なことではなくて 例えば首がこうあって、肩があって
そんなに人間らしくとか、本当の形とかあんまり考えなくてもいいような感じで
始めるようにしてるんですけどね
線が下手になるけれども、離れて全体を見ながら描きたい

それとあと面白いのはね 下手な線ではあるんですけど
細かいことをやろうとしない線なので、割と魅力的だったり勢いのある線だったりする

こうやって描いていると、細かいことはできるんですけれども
縮こまっちゃったりとか、緻密になったり
あるいは、言葉は悪いけどスケベ根性が出たりとかw

長塚も竹刀を使ってデッサンに挑戦

な:なるほど 腕は難しい


舟越の父 彫刻家・舟越保武
日本では珍しかった大理石を使った作品を制作し、戦後の日本彫刻界をリードした




『LOLA』(1972)岩手県立美術館 蔵




その舟越保武の次男として舟越桂は1951年に生まれた





(お母さん似だな 彫刻の雰囲気がお母さんの輪郭に似ている ハンサムな少年


スポーツと美術が大好きな少年だった
やがて舟越は東京造形大学へ進学 父と同じ彫刻家の道を志す

1971年 東京造形大学へ進学






『トラピスト修道院』
26歳の舟越が初めて挑んだ木彫のマリア像 選んだ素材はクスノキ
以後、舟越は木彫彫刻の奥深さに目覚めてゆく




ふ:
学生の時かなんかに話してて「お前何で彫刻やろうと思ったの?」とかって誰かが言い出して
結構みんなあるんですよちゃんと

「高校の先生がさー」とか「あの時の展覧会でさー」とか
「あれ、俺何だっけなー?」と思って 全然見当たらないんですよ

その時は「僕はハッキリしたのはないな」で終わったんだと思うんですけど
何年も経ってから、あの時の答えあった 俺、もの心つく前に観てたんだと思って 父が彫刻を作るのを
だからはっきりしたポイントがなかったんだな、という風には後で思いましたけどね

な:ずっと人物の肖像に?

ふ:
人間の姿 ずっとそれはそうでしたね 子どもの時から
いたずら書きするのも 猫とか犬とかじゃなくて

抽象とか、そっちのほうには多分あんまり興味が今もない
人の作品としては、もちろん興味がありますけれども
僕自身は、多分、人間の姿でやってくしか才能もないだろうなっていう気持ちはありますね

な:
なんか舟越さんの家族のお写真を拝見して
舟越さんが作られる作品の世界にお母様の佇まいをたまに感じる時があるんですよ

ふ:
あるかもしれないですね
時々僕の作品で「お母さんに似てるね」って言われたことがありましたし

母のアートに対する許容量、許容範囲っていうのかな
それは父よりはずっと広かったように思います

父は結構「これがいい美術だ こっちは違う」とかっていう感じが割とあったんですけど
母は、とんでもないものに妙に感心したりして

知り合いの写真家の人がある時出した写真集を送ってきて
「ボンテージ」ヌードのパツンパツンの皮のストッキングを履いたりという写真をもらって
母がいるところで開いたから「あの人こんなの撮ってるんだよ」って見せたら、
「あら美しいわね」って 大丈夫か、おいw
親父には、最初にその感想は出ないだろうなと思ったんですけど



父の影響を受けて僕ら育ちましたけれども、ずっと母による光で照らされてたんだなってふっと思いましたね


『森へ行く日』(1984)




『夏のシャワー』(1985)世田谷美術館 蔵




35歳の時 文化庁芸術家在来研究員としてロンドンへ向かう
等身大の人間を描いた木彫の半身像で独自の作風を作り上げた舟越
およそ1年間、初めて一人暮らしを経験した





当時の日記を見てみると



「8月22日 この街で一人で年をとるのは孤独なことだろう
 美しい場所はあるけど 親しい友人のいない者にとってはむしろ寒々しい」



ふ:
早く芽を出せよ 頑張らなきゃダメだろって玉ねぎに喋っちゃったw
生まれて初めて孤独な日々を過ごした

家の2階の窓から外を行き交う人を見て過ごす時間が長くて、植物に話しかけたりして
孤独ってこういうことかなって 初めて孤独を意識した時間でしたね

な:
僕も全く同じ 具合が悪くなる 暗いじゃないですか
本当にどんどんどんどん一人になっていっちゃって


長塚も33歳の時、文化庁新進芸術家 海外留学制度を利用して舞台の本場ロンドンへ
現地の演出家や俳優たちと一緒にいた




な:
「作風が変わった」とものすごい言われまして 帰国してから

行く前はどっちかっていうとストーリー性の非常に高い作品を作っていて
観た人たちが確実に何を言ってるかが全部分かるものだったんですけど

それだけじゃつまんなくなってきて
それからロンドンに行ったという経緯があって 散々「作風が変わった」て言われた

割と人気劇団だったんですけど、帰国してから公演やったら
本当に面白いぐらいお客さんが「なんか難しすぎる」

本当に見えましたね そんなことないんですけど
お客さんが去っていくのが見えるぐらいに
「みんな、こんなにダメですか?」みたいな

舟越さんはどうだったんですか 変化ってありました?

ふ:
実際にはね、そんなに突然の変化はなかったんじゃないかなと思うんですけど

ただ1年間ロンドンに居たっていう経験が、
日本人のあの人たち、あの仲間たちとか、あの先生、画廊とかを説得するだけじゃなくて

あのヨーロッパの人たちに分かってもらえる作品になってるか
納得させる状態になってるかという目は、あの期間に持てたような気がしますけどね

ロンドンでモデルとして写真を撮らせてもらった人が3人いるんですけど
最初の1人は、僕の中では劇的だったかな

フリーマーケットの中でお茶を飲んでたら、向こうのテーブルにいる男女の
男の人がすごく不思議ないい顔してて、こんな細い顔で眉毛が濃くて
若いんだけど思慮深そうな

立っちゃえば何か始まるだろうと思って、バッと立ち上がって
「すいません(エクスキューズミー)」で始めて

「実は彫刻家なんですけれども、あなたの顔を彫刻にできればと思うので
 写真撮らせてもらえないでしょうか?」
て言ったら

さすがイギリス人だなと思って すごく包み込むようないい顔で僕のことを見て
話を聞きながら「私でよければ」ていう感じで

いやーカッコいいと思いながら「じゃあすいません」て写真を撮らせてもらう間に
持っていた自分の作品の写真を見てもらって「すごく面白い」とか言ってくれて
パチパチ写真撮って

その人は帰ってきてから彫刻にしました
ただその人の名前も住所も何も聞かずに帰ってきちゃったんで
本当に申し訳ないと思って
今でも未だにロンドンを歩いていると無意識にも探しちゃいますよね




な:
考えてみたら、そうかもしれない
あっちは豊かな時間が流れているんです

1週間のワークショップをさせてくれるんですけれども
みんな「ああでもない こうでもない」って言って、一緒に悩んでくれるし
僕が悩むこともよしとしてくれるし

そういう場所だから、こっちはもう散々考えるわけですよね
どうやったら面白い作品に行く道を見つけられるか 寝ないで考えるぐらい
それを喜ばれると、これが本当に大きな一歩になるっていうような体験を何度かしたんで

作り方にちょっと工夫をするように 何か違うことないかという工夫
この作品を作りたいんだったら、どうやって人を集めてそこに上っていけばいいのか
という道を考えるようになった


アトリエの壁のいたるところに貼られた舟越が書き留めてきたメモ
ふとヒラメいた言葉や、何気ない単語の羅列








「クローズアップにリアリティはあるかもしれないが
 ある意味でそれはリアリズムではないと言える」



誰かの名言や、面白い文章を書き写したものなど様々
舟越の創作のヒントを垣間見ることができる


ふ:
今の流行りの言葉っぽくなるけど“神が降りてくる”と言われれば
そう言ってもいいのかもしれませんけど
変な時に突然イメージが湧くことがあるんです

実際、頭の中ではどんな馬鹿やってる テレビ見てる時でも
何かずっと探し続けている 脳の中の一部では待っている

何か出てきた時に迷わずキャッチするという習慣があるのは、こっち側だと思うんですね
グローブ持って待ってる もしかしたら寝ててもあるんで

それが現れてきた時には、すぐ書き留めたり
とりあえず書いた上で、どんな意味があるのか

どんな風に彫刻にしたら、彫刻として成立するかというのは、
ある程度吟味していかないと、とは思ってるんですけれども

それはデッサンの時とかということではなく、日常生活の中からあると思います
トイレに立ったり、風呂だったり、車を運転している時に
なんか変な形とかを思いついて、車を停めてメモしたりとかってことがありますね

な:夢はどうですか?

ふ:
結構けったいな夢はありましたね 起きてからメモしていたこともあります
夢で僕が時々見るのは、空を飛ぶ夢を見るんですけど 最高ですよ!






3Dにして 頭の上に飛んでるのは僕なんですけど
あれが夢で見る僕が飛ぶときの姿なんですね
いつか彫刻にしたいなと思って 数年前に彫刻のパーツとして使ったんですけれども


人間の胴体を巨大な山に見立てた「山シリーズ」
ありのままを描くだけではない 新しい世界を切り開いた作品




ふ:
学生の時に 高尾にあった造形大
駅からバスで行ったり、何人かでタクシーで行ったりしたんですけど

その造形大の後ろに小高い城山があるんですね
それが見えてきた時に、タクシーの助手席に座ってたんですけれども

突然ですけど「あの山は、俺の中に入る」て思った
突然浮かんできて、え、なんだこれ?って思ったんですけど
それはすごくある意味、衝撃的だった

あの山があのサイズのまま俺の中に入るってなんだろうと思って
でもそれは不思議な経験として、ただずっと頭の中っていうか、胸に残ってて

彫刻家になって、普通の人っぽいものを作っていく中で
ある時突然、山のように大きい俺が、大きいというよりも
「俺の頭の中には、あの山さえ入る」 あるいは「あの山の大きさを把握できる」てことなのかな

天文学者は、きっと僕らよりも地球から月までの距離をリアルに感じられるでしょうし
ボルト選手は、僕たちが把握する100mと全く違う、リアルな100mを頭の中に持ってるだろう

そういうことをいろいろ考えていくと、人間て見えてる大きさよりも
もっと大きいという風に考えていいんじゃないかって思ったことがあったんですね

なんかそんな風にしてだんだん自由になっていって、動物的な作品を作って
その後、スフィンクスが現れたりとか

な:スフィンクスって 何なんですか?


「スフィンクス」シリーズ
神話の怪物 スフィンクスに着想を得た異形の像たち
人間に謎をかけ、答えられない人間を食べてしまったというスフィンクス
舟越は「人間とは何か」という問いを込めた






ふ:
俺たちはみんな一人一人スフィンクスなのかな
始める時はそこまで行きませんでしたけれども
なんかそういう意味合いから、スフィンクスを彫刻にしてもいいんじゃないかって思って

動物と人間 男と女を混ぜちゃう
最初の一個の時に、大げさですけど

「オレはこの作品を作るために、今まで彫刻を続けてきたのかもしれない」と思った

人間の存在 醜くかったり、愚かだったり、酷かったり 色々ありますけれども
それでも肯定したい

肯定していけるものが人間の存在なんじゃないかなって思ってるところがあって
だからその肯定的に人間の存在を彫刻にしたいっていうのが
共通して初めから今までのテーマとして言えるとすれば
そういうことなんじゃないかなという風に思いますね

人間の存在を何か美しく、そして良きものとして彫刻にしておきたいなという気持ちは
やっぱり昔からあります

だから人間ってきっと一人一人は、人類始まって初めての存在ですし
誰一人として同じ人は生まれてないわけだから

その人が自分の中をよく考えてみたりしながら、
その人だけのものを作れば、必ず新しいものができるはずだ
論理的には甘いだろうけれども、そんな考えを持ってるんです

そうすれば、こんな俺でも新しいものを少しはできてきたし、これからも出来る
出来続けるはずだという気があって
それはある種、今の原動力にはなっているんじゃないかなと思います

な:それはやる気が湧きますね 聞いてる僕が

ふ:そう言われるとホっとしますけど



<後半は舞台をスイッチ>

この日、舟越が向かったのは、長塚が待つ 神奈川県川崎市の稽古場




な:ここが舞台でここが客席
ふ:『王将』でしたよね

スタッフを紹介する

な:これは半分稽古です


1947年に初演された戯曲『王将』 北条秀司 作



明治から昭和にかけて活躍した棋士・阪田三吉の波乱万丈の生涯を描いた作品だ
舟越が見つめる中、稽古が再び始まった

物語は、明治・大正・昭和と時代ごとの3部で構成されている

この日は、阪田の晩年を描いた第3部の稽古日
いくども上演されてきた『王将』に長塚はどう挑むのか

江口のりこさんがいる!








今回の劇場は、席数はわずか80
客を間近にして誤魔化しは一切きかない
セリフ1つ、間1つ 長塚は俳優の全ての動きに目を光らせる


ノート(細かなダメ出し)
稽古終了後「ノート」と言われる細かなダメ出しが行われる

な:
出征の気持ちはいいけれども、セリフにもいっぱい情報が眠っているから
全部ちょっと押しすぎた せっかくの感情がもったいない

三吉の話で下に歩いて降りるのが単独の時間になってしまってる
もうちょっと興味を持続させるとか
ちょっと前からセリフを始めるとかしたほうが空間が埋まってくると思う

(メモを取りながら 聞いている舟越さん


3部を合わせて5時間以上の舞台を1ヶ月の稽古で仕上げていく


稽古後の対談



ふ:
どうもありがとうございました お疲れ様でした
本当に何かすごい体験をさせてもらいました

涙が出そうになるところがあって
日本人てヨーロッパと違って、お辞儀だけだったりするじゃないですか
あのお辞儀の長さだけでなんかグっときちゃって そこが参りましたね
日本人のあのお辞儀っていうのもいいもんだな



あと時間を感じますね 濃密な時間というのかな どうやって作られてこうなってるのか?

な:
僕らは「ノート」って言ってますけど、ダメ出しとも言われる
いろいろな話し合いの時間も、せっかくいらしてちょっと悪いなと思ったんですけど

ふ:
いえいえ、あそこがすごく面白くて
長塚さんが誰かの一言の喋り方がちょっと違うとか 出し方がスゲーと思って

見てて気がついたのは「理由のない時間になってしまう」ておっしゃいましたよね
どういう感じで出てくる言葉なんですか?

な:
記者のコが駅長さんに何か理由を聞くところがあって「これどうなってるの?」みたいな
それで向こうに行く


舟越が指摘したのは、新聞記者が阪田三吉のことを駅長から聞き出そうとするシーン

な:
彼は向こうに聞きに行く タッタッタと走って
走ってる時間は、ちょっと泥棒された
無言で走って行く時間は、僕にとっては、この空間で泥棒された数秒

この数秒って無駄にしないで欲しい
この時間も生き物に変えて欲しいと

凄いエネルギーを持って、劇をつんざくようにバッと現れてくるんだったら違うかもしれないし
ただ走った ただこの距離を走るっていうのは、ほとんど意味がない
ここからそこをでも絶対ダメなんです このセットですから

やっぱりその人物には、いろんな人間と対話する時に
1シーン1シーン自分でちゃんと意思を持っていられるかっていうことがすごく大事になって
その人物が背景を背負う

ふ:あーそういう言い方になるんだ

な:
その人がここにいるっていう思いが畳を作るし
そこに何か近いけど、もっと距離を作るし
それをイメージできるかっていう

それにはやっぱりその人物を知っていく
台詞があればあるほど、それは広がっていくけれども イメージしやすい


長塚は1975年生まれ 父は演技派で知られる俳優の長塚京三(そうなんだ/驚






ふ:
僕も父親が彫刻家でしたけれども、長塚さんもお父様が俳優さんですよね
なんかその辺のことで色々と思う事っていうのはありますか?

な:
父の仕事もそうですし、映画とか観る機会が多いし、劇場に行くこともあるし
できるかできないかは分かってないだろうけれど、
なんとなく映画を観ながら、その中にどっかで入るんだろうなと僕も思ってたんですよね

特に僕は空想することが好きで
家で本当にずっと「人形遊び」をしているのから抜けられなくて

中学になると人形遊びはヤバイじゃないですかw
でも、かなり抜けられない

母親が心配しているのが見えるんで、中学になったらスっと止めて
紙に名前書いたり動かしたりして遊んだりして

ふ:その紙一つ一つは人なんですか?
な:大体人でしたね

ふ:それって演出って言うんじゃないですか?w
な:そうですね 近いです いろんな人物を置いて ああでもない こうでもない

ふ:それはストーリーが動いていくわけですよね?

な:
1時間でも2時間でもやってたんですよ

ちっちゃい自動車が1つあれば、この場所があれば
もう旅するところがいっぱいだと思える

石垣の下をずっと歩いていた時に、その小さな車がものすごいドラマで
なんかちっちゃいドラマがいっぱいあるんでしょうね

石垣の所をちっちゃい車をゆっくり動かして
途中で休んだり、眺めてみたりとかしながらずっと遊んでたっていう
一人でずっと そういう壁とかをずーっとじっと見て歩いてるみたいな子どもだったと思います

ふ:
面白いですね
部外者から見ると、それってお芝居とか演出とか映画とかに
行くしかないでしょう!っていう気がするけど

な:
そうですね もしそうじゃなかったら僕どうなってたんでしょう 非常に心配ですねw


長塚は早稲田大学在学中に演劇ユニット「阿佐ヶ谷スパイダース」を旗揚げ
俳優として自らも舞台に立ってきた



映画『リアリズムの宿』では初主演を果たし、駆け出しの脚本家をみずみずしく演じた

『リアリズムの宿』(2003)




ふ:
朝ドラ「あさが来た」に出てらっしゃいましたよね
あの時の経験みたいな事っていうのは 何かおありですか?

な:
僕の役が炭鉱夫で筑豊弁なんですけど、実は大阪のネイティブ ていう設定で
言葉が本当に難しかった 大阪弁の難しさと言ったら! 全然できないです

朝の15分 僕と玉木宏さん 主役の方たちと座ったままずっと喋らなくちゃならなかった
それは地獄だったなと思いました

ふ:
そういう場合っていうのは、テレビの演出の方がいらっしゃるけれども
自分でもどっか演出家のような視線を持っちゃうものですか?

な:
そう思われちゃうんですけれども、持たないです
もちろんさっき言った「このシーンはこうあるべきだ」ということは多少は考えますけど
その監督さんがどうやりたいのかなっていうことに乗って行く

違うことを求められれば考えますし

でも何か思ってることがあるだろうから
あんまり自分に変なプライドを持つと
それで何回も持ってちゃったら 酷い目に遭うわけですよ 頭固くなっちゃってるから

要するに「そこで笑え」と言われても「なんで笑うんだろう」と思っちゃったら
やっぱり勝負にならないって言うか 決め込んでいっちゃダメなんだなと思いつつ
でも台詞はしっかり覚えていかなきゃいけないしみたいな

ふ:
それって考えると難しそうですね
セリフを覚えないでいいなら、真っ白なままで行けますけど
セリフを覚えているのに、色をつけないでいくっていうのは

な:
僕は演出のお仕事のほうが割と多いですし
俳優のほうで呼んでくれると「ああ面白そうだし、行ってみたい」と思っていきますけど
それを生業にしてる人たちは大変だろうなと思って

舞台はまだこうやって構築する時間があるけれども、映像は瞬発力が必要ですし
だから皆さん素晴らしいなと思って


33歳の時、演出を学ぶためロンドンへ留学した長塚
帰国後実験的な演劇に挑んできた


『南部高速道路』(2012)
高速道路で渋滞にはまった人々の交流を描いたこの作品もその一つ
決まった脚本は用意せず、俳優たちとワークショップを繰り返し、即興で作り上げていった




な:
渋滞の芝居を作った時があって 車の渋滞
車が渋滞しちゃって、何時間経っても解消されない

たまにちょっと動くんです だから車から離れることもなかなかできない
いつまで続くか分からないし でもたまにちょっと動くから離れられない

何時間にもなっていき、夜になって、みんな近くの人たちと協力しあって
食べ物どうするとか、情報をどうするとか話し始めるわけですね ご近所様みたいな

それは翌日になっても、2日経っても、1週間、1月経っても
ちょっとずつ動くけど

そうするとここにコミュニティが完全に生まれて 隣りと争っちゃったりとか
最初は仲良かったのに まるで仲が悪くなっちゃったりとか

そういうのも即興劇的に 俳優11人~12人集めて
だんだん近くに座った人と話をして協力しあったりするっていうのを演じてもらって
みんなへとへとです

どうなるかって言うと、その12人の中でも、即興劇だから
だんだん怒りとか、仲間の感情とかが生じてくるわけです
あれは奇妙なんですけど

さっきまで揉めてた相手が、自分の言葉で演じるから
まだ怒りがちょっと残っちゃったりするんです あれは危ない

これは危険だと思って、最後に必ずちょっとふざけてゲームをしたりとか
みんなでちょっと確かめ合うとか 体温を落としていって

みんなで「これ全部芝居だよ」ていう事を1回確認して終わらせないと
それぐらい危ない現場だったんですよ でもすっごい面白かったです

ふ:それを経験したら、多分役者はやめられなくなるんでしょうね


『浮標(ぶい)』(2011)
(出た! 長塚さんが出るならきっと田中哲司さんも出ると思った

舞台『浮標』 三好十郎/作



演出家・長塚圭史が大胆な試みをした舞台
戦時下で妻の看病に明け暮れる一人の画家の物語

上演時間は4時間を超えるが、派手なセットや大掛かりな仕掛けは一切なし
舞台は砂が敷き詰められているだけ


長塚は『浮標』を2011年以来、3度上演してきた
この舞台にかける想いは強い
実は、舟越も『浮標』を長塚に合う前に観て心惹かれていた






ふ:砂が波打ってましたよね あれは豊かな舞台装置だなって感じがして美しかったな

な:まさにあれも あの稜線 始まる前に一生懸命考えて あれが生命線なんで

ふ:
最初はそんなに認識しなかったんですけど
さっきまではただの砂山に見えてたのに波みたいに見えて て事はあっちが海かって思って

な:嬉しい

ふ:
ここまで考えてるんだとかって思って、ある種感激しました
本から砂がこぼれ落ちるところも綺麗でしたね
あの時はスゲー ヤラれたって感じで すごいアイデアだなと思って



な:
4時間なんですけど、僕は頭にちょっとだけ砂の場面
急に思い出みたいに劇の中に入ってくるように作って

砂の中から見つけた本で、4時間は一瞬て言うことを
その4時間ていう時間を変質させたいと思った






僕は中華料理屋かなんかで、ずっと助手の人とか音響の人とかと飯食いながら
最後に何か必要なんだよ 「あっ!」て立ち上がって
「本から砂が落ちればいいんだ!」と気づいた時は本当に嬉しかった

ふ:すごいなそれ


舞台『王将』 本番
客席わずか80の小さな劇場に、16人もの俳優たちがひしめき合って演じる
セットらしいセットは、中央のシンプルな台だけ

な:
本来だったら匂いのあるセットがそこにあったりする それは使わないって決めてる
そうすると僕ら 人がそこに立ってるわけで

実は何もないのに、いろんな状況を浮かべてくださってる そのことが非常に喜び
ないのに、実はすごいことしちゃってるよ、みたいな喜び
お客さんが気が付かなくてもいいんですけど

ふ:
分かりますよ 日本には落語もあるし、能もあるから、感じやすい民族なのかもしれませんね

な:
能もそうですし、どこかそこに戻ってきて、そういうことができてる場所なんだっていうことを
常に自分の中に意識しながら作ること

全部を与えたい どんどんどんどん物を増やしていくことじゃなくて
削ぎ落としたりしたほうが

僕らが今やってるいろんな光景が浮かぶ
豊かさが「活性要素」になっていくので、そういうのを探すのが面白いですよね

ふ:でもどっかで誰かが作った戯曲を探して選ぶわけですよね
な:そうですね

ふ:そういう時に選ぶ基準っていうのは ?

な:
戯曲を選ぶ時には、ちょっとどうやって行ったらいいか分からないやつを選ぶ

面白いけど 凄いなって思う、普通にセットを組んで成立する劇は
「本当面白かった ありがとう きっといい演出家に出会って演ってもらえたらいいな」と思います

だけど、これはやり方がちょっと分からないな どうやったらいいか
どういう劇場でやったらいいか ちょっと見えないぞ
普通に演ったらまあこうだけど 何か別の可能性がありそう

どうしよう どうやってセットなしにこれをやる?
セットなしに砂でってことを思いつくと これはなんかあるぞ

僕はどういう風に進行して、稽古をやっていこうかなということを考えます
どうやって稽古していったら、僕の行きたい到達点に届くんだろう

何が一番この劇に必要だろう
お客さんに観せる時に輝かしい段階に行けるまでの道筋を
ただいつもこの通りにやっていればいいっていうのは、僕はあまりまだ疑いを持っていて

その劇にはその劇の道のりが必ずあるはず、と考えています
いい道のりが踏めると、お客さんに観せる時にワクワクします
なんかさっき書かれてたじゃないですか?

ふ:ちょっとスケッチ 頭が坊主でしたっけ?
な:山内圭哉君の優しいところを完璧に捉えてます 優しい




ふ:『王将』是非見たいけど
な:是非いらしてください 絶対観て欲しいです

ふ;
さっき書いたんですよ 作品がだいぶ進んだ時に長塚さんに来てもらって
ダメ出しを出そうとかw ここはこれでいいんですか?とか、すいませんw

(舟越さん、お茶目w





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