いつか見て感動した木々の絵の画家さんでは?と
日曜美術館で放送したので録画して見てみた
「白樺の森」(1995)は番組中では紹介されなかった
第2回 川越町歩き(その1)
生誕100年 歿後20年 相原求一朗の軌跡 ―大地への挑戦―@川越市立美術館
第1部:2018年12月1日(土曜)から2019年1月27日(日曜)
第2部:2019年1月31日(木曜)から2019年3月24日(日曜)
開館時間:午前9時から午後5時(入場は午後4時30分まで)
【内容抜粋メモ】
北海道から初雪の知らせが届く頃、必ず訪れる画家がいました
相原求一朗 自ら撮影した8mmフィルムには
寒風吹きすさぶ壮絶な風景が映し出されていました
いつ止むとも知れぬ雪
乗降客を待つ小さな駅
北海道出身の女優・高橋恵子さんが画家の足跡をたどります
何が相原を北の大地へ向かわせたのか
読み解く鍵は、戦時中書きためていた異国の風景です
それがなぜ北海道へと結びついていくのか
北の大地を静かな熱情で描いた画家の生涯に迫ります
北海道の厳しい冬を数多く描いた画家
実際、現地に何度も行かれている
柏の森がすっかり葉を落とした秋の一日
高橋さんは北海道中札内にある「相原求一朗美術館」に行ってきました(素敵な美術館
●斜里岳
た:
やっぱり北海道の風景ですよね 雄大な感じ
この山知ってます 斜里岳
私は小学校6年まで北海道にいましたけれども
最後にいた場所が斜里だったんです
2年間斜里にいて、この山を見ながら学校に通ってたんです
やっぱりこうして見ると、とても姿形も美しいですね
いつもそこにあるって言う感じで、見ると安心するんです
●北海道を描き続けた洋画家・相原求一朗
初期から晩年に至る作品を展示した美術館 ※美術館は現在冬季休館中です
風景の中にそこはかとない人間の息づかいが感じられます
●北海道をスケッチする
歌志内・雪(1975)
旅の途中で出会った街
かつて石炭産業で栄えた歌志内の夕暮れです
た:
北海道で暮らしていたわけじゃないのに
これだけ北海道の、特に寒い時期が多いですよね
人が暮らしているっていうことの それがいかに普通のことじゃなくて
かけがえのないものっていう風に思われたんじゃないかなと思います
●相原が暮らした街は北海道から遠く離れた 埼玉県川越市
大正7年(1918) 相原家の長男として生まれました
先祖代々穀物や肥料を商う川越の名家でした
鋳造会社と田園の風景(1929)
11歳の時に書いた絵 色づいた稲穂が広がる秋の田園風景
担任の先生に「甲の上」 よくできましたと褒められたそうです
少年漫画の模写も夢中でしました
将来は画家になりたいという夢を持ちますが
長男であるために許されず、生涯に渡り家業と画業両方を担うことになります
川越に残る相原邸(すごい真っ白な豪邸/驚 中は見られるのかな?
実業家、そして画家として80年の生涯をここで送りました
納戸は画家・相原の一面を伺える資料で溢れています
相原が残した膨大なスケッチや、日記 そのどれもが北海道一色
●長年、相原の秘書として働き 取材旅行にも同行した石黒誠さん
石黒さん:
北海道に初冠雪が来ると、先生が踊るような形で
「石黒くん そろそろあれだね 雪が降ってきたら準備だね
帯広の気象庁へ電話して、何時頃が天気が良いか聞いておけ」
という風なことで それで日程を組むわけなんですが
「スケッチのいいのが今日は描けそうだな」と喜んで
帯広なり、旭川なり、札幌なり、1日で500 km も移動する時がありますから
さらに納戸には、相原が北海道のスケッチ旅行を
自ら記録した8ミリフィルムが残っていました
相原は、忙しい仕事の合間を縫って、3日からせいぜい5日というわずかな日程で
スケッチ旅行に出かけたと言います
(自分がスケッチしているところをわざわざ8ミリで撮らせるって記録魔なのかな
●相原を北海道に駆り立てたものとは 一体何だったのか
「満州点描」
その鍵となるのが「満州点描」と題された一冊のスケッチ帳です
使い古した軍靴の紐で閉じられています
描かれていたのは、異国の風景でした
●昭和15年 相原は21歳で召集される
旧満州(現在の中国東北部)で4年半の兵役につきました
旧満州の東の端「牡丹江」から弟に宛てた手紙が残されています
「本日はちょっとお願いがあるんですが・・・」
意外なことにスケッチブックや絵の具を送ってほしいという願いでした
戦場でも相原は絵を描いていたのです
果てしなく広がる大地
のどかに草を食む牛たち
物みな凍る極寒の冬
手紙にはこう記されていました
手紙:
戦場にあっても、私は絵筆を手放すことはできません
現在の私にとっては唯一の友なのですから
特に相原は大陸の空を染める夕焼けを何枚も描きました
死と隣り合わせにある日々の中で見つめた命の輝き
この時の風景が、後に出会った北海道の風景と心の底で響きあったと言います
「相原求一朗の言葉」より
北海道の風土が、かつて多感な青春時代を過ごした
あの満州の原野に酷似していることに
まず愛着を感じ、ノスタルジーを掻き立てられた
相原の8mmは、帯広の残照をとらえていました
「私は不覚にも涙した 赤い夕陽の満州がここにある」
それから毎年毎年、決まって極寒の冬、相原は北海道への旅を続けました
手書きの地図には、描きたい場所が克明に記されています
8ミリフィルムには、バスを乗り継いで「襟裳岬」に向かう映像もありました
(川越の家に帰っても8ミリフィルムを見るために撮ったのかな
この8ミリフィルム映像もまた貴重な記録
馬凍てつく風景の中、精力的にモチーフを探しています
●襟裳岬
(歌とかで聞いたことあるけど、こうして改めて見たのは初めてかも
た:
ここが襟裳岬です
私も相原さんの旅したところを追体験してみようとやって参りました
やっぱり風が冷たいです
●好んで描いたのは 灯台の東側にある 断崖絶壁
それは、北海道の風景の中でも特に相原の心を捉えた場所でした
相原が潮風にさらされながら描いた場所です
凍える手で撮影した8mmにもこの断崖が映っていました
そこから生まれた作品です
「岬の家」(1974)
絶壁に立つ一軒の家 漁師小屋でしょうか
小屋の存在が相原を度々この場所に向かわせたと言います
た:
相原さんはどの辺で描かれてたんでしょうね
あの家がこれですかね 寒い海に向かって一軒ぽつんと
あそこにへばりつくように建っていますけれども
なぜ相原さんはこの場所をこだわって描いていらっしゃるのかなと思うんですけれども
「岬の家(襟裳厳冬)」(1976)
相原は、最も厳しい冬の季節にもここを訪ねています
画家のまなざしは、過酷な自然の中で生きる人の営みに向けられます
相原の風景画から人間の息遣いが感じられるようです
●「新井旅館」@えりも町
「新井旅館」56年前の相原の8mmと現在
襟裳に来るたびに泊まりました
この旅館で育った手取敦子さん
当時、旅館を切り盛りしていたのが敦子さんの母・コヨさん
敦子さん:
(母は)気っ風はいいですし、お客さんと仲良くなったら
家族同様みたいで、何でもお話ししたり
きっと友達みたいになったんじゃないかなと私は思うんですけど
だから何泊もしたのかもしれません
この旅館の事を相原は日記に記していました
日記:
襟裳の小さな旅館は、五十がらみの母親と娘二人でやっている
漁師上がりの節くれだった掌で母親が料理を作る
昨晩のお客は私だけ
ミシミシと階段の音がして、やがて怒ったような表情で
体格の良い妹のほうが膳を運んできた
昆布の酢の物、昆布と油揚げの味噌汁 それに牛乳が一本付いている
娘は「おはようございます」と聞き取れないような声で言ったが
後は一言も口をきかないで降りていった
相原が書き記した娘とは、実は敦子さんの妹のことでした
敦子さん:
「おはようございます」って言っても聞こえないような声
かすかな声で 相手は分からないようにきっと声を出すんですね まだ慣れないですしね
親には持って行けって言われるしねw
コヨさんは、夫が中国で戦病死し、3人の子どもを育てるために旅館を始めたそうです
た:相原さんも満州で過ごしていらしたことがあって
敦子さん:だから、そういう話もきっと気が合ったんでしょうね 戦争の話やら
●胸の奥に抱えていた暗い闇
戦争の悲劇は相原にとって他人事ではありませんでした
終戦間近の昭和19年(1944)
搭乗していた輸送機が不時着
戦友の多くが亡くなる中、相原は奇跡的に助けられたのです
死んでいったもの 生き残った自分
癒せぬ傷が相原の心に刻まれました
小野正嗣:
人間誰しも生きていく中で、自分にとって大切な風景とか場所とかあると思うんですけれども
それが相原さんの場合は、過酷な経験をした戦争体験をした満州であったと
た:
あの美術館でびっくりしました この斜里岳が絵になっていることが
いつも毎日学校に通うときに眺めていた身近な山だったので嬉しかったです
学校に歩いて通って、手足の感覚がなくなるほど寒くて
雪が斜めに降るという感じ 吹雪の時は まともに前を見られない
前を歩く人の足元だけを見て集団下校する
断崖の風景は、ただ寒いというだけじゃなくて心まで凍てつくというか
でも、こういう風景の中でも、小屋があって
人の営みというか、暮らしというか
こんなに過酷な状況の中でも生きているというような
一色に覆われた雪景色は静かです
でもその静かな中で、何かと対峙したいという心の中のものがあったのか
日記にも細かく記録されているのも、日常を大切にされていたんですかね
そういうところが面白いですね こんな荒涼とした風景をお描きになっていても
●昭和19年結婚
戦後再び相原の川越での暮らしが始まりました
伴侶を見つけた相原は、家業を継ぐ傍ら本格的に絵を描き始めます
「白いビル」(1950)
相原が所属した「新制作派協会展」で見事初入選を果たします
以来、毎年入選し、順調な画家人生は約束されたかに思われました ところが・・・
●1950年代 モダンアート展
(あの曲がりくねったイスは太郎さんっぽい
この頃、画壇に吹き荒れていたのが抽象画の嵐
「アクション・ペインティング」など型破りの手法が「前衛」ともてはやされ
それまでの絵は「時代遅れ」と否定されていきます
「自画像」(1955)
「不惑」と言われる40歳を迎えた相原は思い悩みました
「私は、昭和34年頃から絵画制作に対し大きな疑問が次々と生まれて
思うように絵が描けなくなってしまった
私としては大変な冒険とも思える抽象作品を出したが見事に落選した
その翌年にも抽象作品3点を搬入したが、これも全点落選してしまった」
相原の秘書だった石黒さん:
家に帰ってきてもどうもご立腹で
なかなか当たるのも、こっちの社員のほうにもお言葉が回ってきまして
これはやむを得ないことだとは思いますがw
●すがるような思いで訪れた北海道の旅がスランプから脱するきっかけとなる
根室本線に乗って、石狩と十勝を結ぶ「狩勝峠」にさしかかった時のこと
相原:
ひときわ高くレールのきしむ音がすると
目もまばゆい狩勝の展望がワーっと音を立てるように迫ってきた
白樺の木々の抜けるような白さ
紅に染まった灌木の林の鮮やかな赤
色面構成はそのまま抽象の画面であった
しかし、そこに展開する風景は明らかに具象の世界なのである
ダイナミックな北海道の風景を目の当たりにして
抽象だ具象だと拘っていることの虚しさを相原は悟ったのです
「風景」(1962)
木々の一本一本に筆を走らせ、狩勝峠の眺望を描きました
相原:
今まで抽象でなくてはならないとかたくなに考えていた呪縛から
解き放たれた思いで、これからは自分自身の絵を描こうと心に決めた
●画家人生を変える転機となった 北海道への旅
以来、相原の心の磁石は吸い寄せられるように北を指したのです
昭和62年 旧国鉄広尾線の幸福駅
明日で廃線となる日に相原はここを訪れました
「幸福駅二月一日」(1987)
人の気配が消えていく駅への哀惜を込めた作品です
雪の中で描く相原の姿を鮮明に記憶している人がいました
土産物店を営む杵渕ケイ子さんです
ケイ子さん:このあたりから描いていたような感じです
高橋:その時、雪も降ってましたか?
け:降ってましたね あたりは真っ白で 1時間くらいはおりました
た:それ以上いたら凍え死にますw
相原:
ふと見ると、国鉄の職員が3人
厚い防寒服に身を固めて、手に手にハンマーを持ち
雪を払いのけながら黙々と線路の点検を始めた
明日、最終日の無事故を願っての最後の作業であろう
まもなく3人の姿は粉雪の中に見えなくなったが
断続的に聞こえてくるハンマーの鈍い金属の音は
広尾線の終わりを告げるにふさわしい最終楽章の響きに思えて
しばらくスケッチの手を休め、耳を澄まして立ち尽くしていた
(文章のセンスもあるんだね
●冬の景色に執拗にこだわった相原の特別な思い
長年、親交のあった作家の高橋玄洋さん
冬の北海道を描いた作品が自宅に飾られています
「浜辺への道」(1976)
この絵と出会ったのは銀座の画廊
色とりどりの絵の中で色彩のない寒々とした1枚に目が留まったと言います
玄洋さん:
寒さの緊張度って言いますかね それも厳しい温度って言うんですかね
そういうのが僕は相原先生の一つの、他の人にはない特徴だったような気がしますけどね
中国東北部の寒さの中で体感されたっていうのは大きかったんじゃないでしょうかね
部下の方々で亡くなられた方のことだとか
死に関してはかなり敏感でいらしたように思いますけどね
自らも戦争体験のある高橋さんは、相原の描く冬の風景には
常に死のイメージが重なっているといいます
玄洋さん:
言ってみれば、そこにある戦争体験の中の生死の問題みたいなのは
生涯の先生のテーマにあるんじゃないでしょうかね
小野:
ご自宅の壁に絵が飾られていましたが
あの絵に心を奪われた 何がそこまで心を掴んだのでしょうか?
玄洋さん:
無常観というようなものが画面の中に
どっちかっていうと暗い
白黒に近いような色を厳しく見ていた
「どうしてこう色がないんですか?」って素人だから言えるようなことを言いましたら
「むしろ色は邪魔になって 変に生ぬるい温もりが出たりするからね」って
話は何回もしましたね この絵なんかもそうですね
た:
痛い寒さ
そんな寒い時に外で絵を描く人はいません 凍死してしまいそうな
●高橋恵子さんが好きな絵
「天地清寂」(1994)
た:
畑に雪が積もって、真っ白なんですけれども
この畝からちょっとだけ緑の芽が出てるんですね、よく見ると
緑色をちゃんと使って
北国に住んでいると、冬が長くて、春になる時に
福寿草が雪の間から顔を出した時に「春かな」と思うんですけれども
こんな寒い中でも土の中で植物とかが生きてるっていう
ちゃんとそういうところを描いてくださって
玄洋さん:冷たい風景を描きながら、温かみみたいなものが感じられるんでしょうね
た:
やっぱりそこに身を置くことが 多分 私の勝手な思いですけれども
亡くなった戦友の方々に対しての誠意というか
厳しいところに身を置いて体感することを自分に課してたような気もします
玄洋さん:
そうですね そういうところに話題がいくと、逆にされなかったですね 黙られた
別の話にそらすような そういう辛さはあったんでしょうね
●晩年、相原がこだわったのが北海道の山
1996年 亡くなる3年前 十勝・幌尻岳を描こうとしていました
当初、吹雪で山は見えなかったと言います
ところが、相原の思いが通じたのか、山が姿を見せ始めました
この時案内した樋口勝久さん:
晴れてきたんですよ 晴れてきたからここで止めろっていうことで 描いて
一瞬の晴れ間を相原は見逃しませんでした
その間わずか30分 一気呵成に描きました
「雪の平原 十勝幌尻岳」(1996)
描きたいという一念が神々しい冬の山の姿を浮かび上がらせました
●亡くなる前年の異色の大作
中札内の美術館には相原が訪ね歩いた北海道の名山が雄々しい姿を表しています
その中に、とりわけ大きな異色の作品が展示されていました
「天と地と」(1998)
縦1m80cm、横は2mを超えています
相原は150号という、今まで描いたことのない大作に亡くなる前年挑んだのです
最後のスケッチ旅行に同行したのも石黒さんでした
1年半前から患っていた病が悪化する中、大雪山系の黒岳に向かいました
石黒さん:
この頃の体調は、だいぶ先生も弱っておりまして
やはり自分でも取材というものに対して相当無理して出かけていたように思います
「もう俺には描く時間が少ない 決められた一枚の絵でも残したい」
ということを言っておりました
●相原がその時写した写真
山並を5枚つなぎ合わせて構想を練りました
しかし出来上がったこの絵は、現地で取材したにも関わらず
実際には存在しない風景になりました
相原は、パノラマ写真から雪の峰、黒い崖、鋭く落ち込んだ谷を
大胆に切り取っていったのです
明るい山頂とは対照的に、奈落の底のような切り立った谷が描かれています
石黒さんは、この絵を描いていた相原の姿が忘れられないと言います
石黒さん:
先生の後ろ姿は、何か強いものが燃えているようで、声をかけることは難しいことです
自分の魂を入れて描いているものですから 気力が燃えたぎっているようですね
命を削って描いた作品には、迫り来る死をまるで覗き込むかのように暗く深い谷
それから半年も経たずに相原は旅立ちました
「天と地と」 渾身の絶筆です
た:
実際に拝見して、本当に迫ってきますね
一番何か相原先生の思いが伝わってくる
天国と言うか、素晴らしいところと
地獄ではないですけれども、やはり生きていく中での
両方あるというような感じもしますし
観る人によっていろんな受け止め方ができるような気もしますけど
でも力強さは一番感じました
玄洋さん:
体が弱っていかれたものですから もうそれが気になって
2階のアトリエに誘われるんですけれども
何か呼吸していること自体が音がするような
でもね 観て欲しかったんですね
小野:
いわゆる現実の風景というものを描いてきた人が
最後の最後で、現実をある種、改変するというか再創造すると言いますか
そうした描き方をして作品を作ったということはどのようにお考えですか?
玄洋さん:ひと言で言ってしまえば、自分の理想像だったんだと思います
アナ:この絵で表現したかったものは何でしょうか?
玄洋さん:
絵描きさんの一番奥の秘密みたいなものだから、よく分かりませんけどね
見せたかったっていう気持ちは分かんないでもないですね
でも、自分で大自然を作ったんだと思いますよ
あの絵の前で亡くなられてたんです
病院から運んで、帰って来られた時にね
この絵の前で この絵が飾ってあったのを覚えてますけどね
小野:
山並の線が相原さんの呼吸に見えてきました
やっぱり作品を作るということは創作者にとって
常に何か自分の故郷を作ることだと思うんですね
亡くなった時にこの絵があったということで
ご自身の作られた故郷に還っていかれたのではないかなっていう風に感じました
た:
最後の最後にこれだけのものを残されたというのは
絵を描くということに対してすごく
自分の存在の意義を見出されていたのではないかなと思って
玄洋さん:
素晴らしい生涯だったような気がしますよ
堂々と歩かれたんじゃないでしょうかね 自分の道っていうのをね
日曜美術館で放送したので録画して見てみた
「白樺の森」(1995)は番組中では紹介されなかった
第2回 川越町歩き(その1)
生誕100年 歿後20年 相原求一朗の軌跡 ―大地への挑戦―@川越市立美術館
第1部:2018年12月1日(土曜)から2019年1月27日(日曜)
第2部:2019年1月31日(木曜)から2019年3月24日(日曜)
開館時間:午前9時から午後5時(入場は午後4時30分まで)
【内容抜粋メモ】
北海道から初雪の知らせが届く頃、必ず訪れる画家がいました
相原求一朗 自ら撮影した8mmフィルムには
寒風吹きすさぶ壮絶な風景が映し出されていました
いつ止むとも知れぬ雪
乗降客を待つ小さな駅
北海道出身の女優・高橋恵子さんが画家の足跡をたどります
何が相原を北の大地へ向かわせたのか
読み解く鍵は、戦時中書きためていた異国の風景です
それがなぜ北海道へと結びついていくのか
北の大地を静かな熱情で描いた画家の生涯に迫ります
北海道の厳しい冬を数多く描いた画家
実際、現地に何度も行かれている
柏の森がすっかり葉を落とした秋の一日
高橋さんは北海道中札内にある「相原求一朗美術館」に行ってきました(素敵な美術館
●斜里岳
た:
やっぱり北海道の風景ですよね 雄大な感じ
この山知ってます 斜里岳
私は小学校6年まで北海道にいましたけれども
最後にいた場所が斜里だったんです
2年間斜里にいて、この山を見ながら学校に通ってたんです
やっぱりこうして見ると、とても姿形も美しいですね
いつもそこにあるって言う感じで、見ると安心するんです
●北海道を描き続けた洋画家・相原求一朗
初期から晩年に至る作品を展示した美術館 ※美術館は現在冬季休館中です
風景の中にそこはかとない人間の息づかいが感じられます
●北海道をスケッチする
歌志内・雪(1975)
旅の途中で出会った街
かつて石炭産業で栄えた歌志内の夕暮れです
た:
北海道で暮らしていたわけじゃないのに
これだけ北海道の、特に寒い時期が多いですよね
人が暮らしているっていうことの それがいかに普通のことじゃなくて
かけがえのないものっていう風に思われたんじゃないかなと思います
●相原が暮らした街は北海道から遠く離れた 埼玉県川越市
大正7年(1918) 相原家の長男として生まれました
先祖代々穀物や肥料を商う川越の名家でした
鋳造会社と田園の風景(1929)
11歳の時に書いた絵 色づいた稲穂が広がる秋の田園風景
担任の先生に「甲の上」 よくできましたと褒められたそうです
少年漫画の模写も夢中でしました
将来は画家になりたいという夢を持ちますが
長男であるために許されず、生涯に渡り家業と画業両方を担うことになります
川越に残る相原邸(すごい真っ白な豪邸/驚 中は見られるのかな?
実業家、そして画家として80年の生涯をここで送りました
納戸は画家・相原の一面を伺える資料で溢れています
相原が残した膨大なスケッチや、日記 そのどれもが北海道一色
●長年、相原の秘書として働き 取材旅行にも同行した石黒誠さん
石黒さん:
北海道に初冠雪が来ると、先生が踊るような形で
「石黒くん そろそろあれだね 雪が降ってきたら準備だね
帯広の気象庁へ電話して、何時頃が天気が良いか聞いておけ」
という風なことで それで日程を組むわけなんですが
「スケッチのいいのが今日は描けそうだな」と喜んで
帯広なり、旭川なり、札幌なり、1日で500 km も移動する時がありますから
さらに納戸には、相原が北海道のスケッチ旅行を
自ら記録した8ミリフィルムが残っていました
相原は、忙しい仕事の合間を縫って、3日からせいぜい5日というわずかな日程で
スケッチ旅行に出かけたと言います
(自分がスケッチしているところをわざわざ8ミリで撮らせるって記録魔なのかな
●相原を北海道に駆り立てたものとは 一体何だったのか
「満州点描」
その鍵となるのが「満州点描」と題された一冊のスケッチ帳です
使い古した軍靴の紐で閉じられています
描かれていたのは、異国の風景でした
●昭和15年 相原は21歳で召集される
旧満州(現在の中国東北部)で4年半の兵役につきました
旧満州の東の端「牡丹江」から弟に宛てた手紙が残されています
「本日はちょっとお願いがあるんですが・・・」
意外なことにスケッチブックや絵の具を送ってほしいという願いでした
戦場でも相原は絵を描いていたのです
果てしなく広がる大地
のどかに草を食む牛たち
物みな凍る極寒の冬
手紙にはこう記されていました
手紙:
戦場にあっても、私は絵筆を手放すことはできません
現在の私にとっては唯一の友なのですから
特に相原は大陸の空を染める夕焼けを何枚も描きました
死と隣り合わせにある日々の中で見つめた命の輝き
この時の風景が、後に出会った北海道の風景と心の底で響きあったと言います
「相原求一朗の言葉」より
北海道の風土が、かつて多感な青春時代を過ごした
あの満州の原野に酷似していることに
まず愛着を感じ、ノスタルジーを掻き立てられた
相原の8mmは、帯広の残照をとらえていました
「私は不覚にも涙した 赤い夕陽の満州がここにある」
それから毎年毎年、決まって極寒の冬、相原は北海道への旅を続けました
手書きの地図には、描きたい場所が克明に記されています
8ミリフィルムには、バスを乗り継いで「襟裳岬」に向かう映像もありました
(川越の家に帰っても8ミリフィルムを見るために撮ったのかな
この8ミリフィルム映像もまた貴重な記録
馬凍てつく風景の中、精力的にモチーフを探しています
●襟裳岬
(歌とかで聞いたことあるけど、こうして改めて見たのは初めてかも
た:
ここが襟裳岬です
私も相原さんの旅したところを追体験してみようとやって参りました
やっぱり風が冷たいです
●好んで描いたのは 灯台の東側にある 断崖絶壁
それは、北海道の風景の中でも特に相原の心を捉えた場所でした
相原が潮風にさらされながら描いた場所です
凍える手で撮影した8mmにもこの断崖が映っていました
そこから生まれた作品です
「岬の家」(1974)
絶壁に立つ一軒の家 漁師小屋でしょうか
小屋の存在が相原を度々この場所に向かわせたと言います
た:
相原さんはどの辺で描かれてたんでしょうね
あの家がこれですかね 寒い海に向かって一軒ぽつんと
あそこにへばりつくように建っていますけれども
なぜ相原さんはこの場所をこだわって描いていらっしゃるのかなと思うんですけれども
「岬の家(襟裳厳冬)」(1976)
相原は、最も厳しい冬の季節にもここを訪ねています
画家のまなざしは、過酷な自然の中で生きる人の営みに向けられます
相原の風景画から人間の息遣いが感じられるようです
●「新井旅館」@えりも町
「新井旅館」56年前の相原の8mmと現在
襟裳に来るたびに泊まりました
この旅館で育った手取敦子さん
当時、旅館を切り盛りしていたのが敦子さんの母・コヨさん
敦子さん:
(母は)気っ風はいいですし、お客さんと仲良くなったら
家族同様みたいで、何でもお話ししたり
きっと友達みたいになったんじゃないかなと私は思うんですけど
だから何泊もしたのかもしれません
この旅館の事を相原は日記に記していました
日記:
襟裳の小さな旅館は、五十がらみの母親と娘二人でやっている
漁師上がりの節くれだった掌で母親が料理を作る
昨晩のお客は私だけ
ミシミシと階段の音がして、やがて怒ったような表情で
体格の良い妹のほうが膳を運んできた
昆布の酢の物、昆布と油揚げの味噌汁 それに牛乳が一本付いている
娘は「おはようございます」と聞き取れないような声で言ったが
後は一言も口をきかないで降りていった
相原が書き記した娘とは、実は敦子さんの妹のことでした
敦子さん:
「おはようございます」って言っても聞こえないような声
かすかな声で 相手は分からないようにきっと声を出すんですね まだ慣れないですしね
親には持って行けって言われるしねw
コヨさんは、夫が中国で戦病死し、3人の子どもを育てるために旅館を始めたそうです
た:相原さんも満州で過ごしていらしたことがあって
敦子さん:だから、そういう話もきっと気が合ったんでしょうね 戦争の話やら
●胸の奥に抱えていた暗い闇
戦争の悲劇は相原にとって他人事ではありませんでした
終戦間近の昭和19年(1944)
搭乗していた輸送機が不時着
戦友の多くが亡くなる中、相原は奇跡的に助けられたのです
死んでいったもの 生き残った自分
癒せぬ傷が相原の心に刻まれました
小野正嗣:
人間誰しも生きていく中で、自分にとって大切な風景とか場所とかあると思うんですけれども
それが相原さんの場合は、過酷な経験をした戦争体験をした満州であったと
た:
あの美術館でびっくりしました この斜里岳が絵になっていることが
いつも毎日学校に通うときに眺めていた身近な山だったので嬉しかったです
学校に歩いて通って、手足の感覚がなくなるほど寒くて
雪が斜めに降るという感じ 吹雪の時は まともに前を見られない
前を歩く人の足元だけを見て集団下校する
断崖の風景は、ただ寒いというだけじゃなくて心まで凍てつくというか
でも、こういう風景の中でも、小屋があって
人の営みというか、暮らしというか
こんなに過酷な状況の中でも生きているというような
一色に覆われた雪景色は静かです
でもその静かな中で、何かと対峙したいという心の中のものがあったのか
日記にも細かく記録されているのも、日常を大切にされていたんですかね
そういうところが面白いですね こんな荒涼とした風景をお描きになっていても
●昭和19年結婚
戦後再び相原の川越での暮らしが始まりました
伴侶を見つけた相原は、家業を継ぐ傍ら本格的に絵を描き始めます
「白いビル」(1950)
相原が所属した「新制作派協会展」で見事初入選を果たします
以来、毎年入選し、順調な画家人生は約束されたかに思われました ところが・・・
●1950年代 モダンアート展
(あの曲がりくねったイスは太郎さんっぽい
この頃、画壇に吹き荒れていたのが抽象画の嵐
「アクション・ペインティング」など型破りの手法が「前衛」ともてはやされ
それまでの絵は「時代遅れ」と否定されていきます
「自画像」(1955)
「不惑」と言われる40歳を迎えた相原は思い悩みました
「私は、昭和34年頃から絵画制作に対し大きな疑問が次々と生まれて
思うように絵が描けなくなってしまった
私としては大変な冒険とも思える抽象作品を出したが見事に落選した
その翌年にも抽象作品3点を搬入したが、これも全点落選してしまった」
相原の秘書だった石黒さん:
家に帰ってきてもどうもご立腹で
なかなか当たるのも、こっちの社員のほうにもお言葉が回ってきまして
これはやむを得ないことだとは思いますがw
●すがるような思いで訪れた北海道の旅がスランプから脱するきっかけとなる
根室本線に乗って、石狩と十勝を結ぶ「狩勝峠」にさしかかった時のこと
相原:
ひときわ高くレールのきしむ音がすると
目もまばゆい狩勝の展望がワーっと音を立てるように迫ってきた
白樺の木々の抜けるような白さ
紅に染まった灌木の林の鮮やかな赤
色面構成はそのまま抽象の画面であった
しかし、そこに展開する風景は明らかに具象の世界なのである
ダイナミックな北海道の風景を目の当たりにして
抽象だ具象だと拘っていることの虚しさを相原は悟ったのです
「風景」(1962)
木々の一本一本に筆を走らせ、狩勝峠の眺望を描きました
相原:
今まで抽象でなくてはならないとかたくなに考えていた呪縛から
解き放たれた思いで、これからは自分自身の絵を描こうと心に決めた
●画家人生を変える転機となった 北海道への旅
以来、相原の心の磁石は吸い寄せられるように北を指したのです
昭和62年 旧国鉄広尾線の幸福駅
明日で廃線となる日に相原はここを訪れました
「幸福駅二月一日」(1987)
人の気配が消えていく駅への哀惜を込めた作品です
雪の中で描く相原の姿を鮮明に記憶している人がいました
土産物店を営む杵渕ケイ子さんです
ケイ子さん:このあたりから描いていたような感じです
高橋:その時、雪も降ってましたか?
け:降ってましたね あたりは真っ白で 1時間くらいはおりました
た:それ以上いたら凍え死にますw
相原:
ふと見ると、国鉄の職員が3人
厚い防寒服に身を固めて、手に手にハンマーを持ち
雪を払いのけながら黙々と線路の点検を始めた
明日、最終日の無事故を願っての最後の作業であろう
まもなく3人の姿は粉雪の中に見えなくなったが
断続的に聞こえてくるハンマーの鈍い金属の音は
広尾線の終わりを告げるにふさわしい最終楽章の響きに思えて
しばらくスケッチの手を休め、耳を澄まして立ち尽くしていた
(文章のセンスもあるんだね
●冬の景色に執拗にこだわった相原の特別な思い
長年、親交のあった作家の高橋玄洋さん
冬の北海道を描いた作品が自宅に飾られています
「浜辺への道」(1976)
この絵と出会ったのは銀座の画廊
色とりどりの絵の中で色彩のない寒々とした1枚に目が留まったと言います
玄洋さん:
寒さの緊張度って言いますかね それも厳しい温度って言うんですかね
そういうのが僕は相原先生の一つの、他の人にはない特徴だったような気がしますけどね
中国東北部の寒さの中で体感されたっていうのは大きかったんじゃないでしょうかね
部下の方々で亡くなられた方のことだとか
死に関してはかなり敏感でいらしたように思いますけどね
自らも戦争体験のある高橋さんは、相原の描く冬の風景には
常に死のイメージが重なっているといいます
玄洋さん:
言ってみれば、そこにある戦争体験の中の生死の問題みたいなのは
生涯の先生のテーマにあるんじゃないでしょうかね
小野:
ご自宅の壁に絵が飾られていましたが
あの絵に心を奪われた 何がそこまで心を掴んだのでしょうか?
玄洋さん:
無常観というようなものが画面の中に
どっちかっていうと暗い
白黒に近いような色を厳しく見ていた
「どうしてこう色がないんですか?」って素人だから言えるようなことを言いましたら
「むしろ色は邪魔になって 変に生ぬるい温もりが出たりするからね」って
話は何回もしましたね この絵なんかもそうですね
た:
痛い寒さ
そんな寒い時に外で絵を描く人はいません 凍死してしまいそうな
●高橋恵子さんが好きな絵
「天地清寂」(1994)
た:
畑に雪が積もって、真っ白なんですけれども
この畝からちょっとだけ緑の芽が出てるんですね、よく見ると
緑色をちゃんと使って
北国に住んでいると、冬が長くて、春になる時に
福寿草が雪の間から顔を出した時に「春かな」と思うんですけれども
こんな寒い中でも土の中で植物とかが生きてるっていう
ちゃんとそういうところを描いてくださって
玄洋さん:冷たい風景を描きながら、温かみみたいなものが感じられるんでしょうね
た:
やっぱりそこに身を置くことが 多分 私の勝手な思いですけれども
亡くなった戦友の方々に対しての誠意というか
厳しいところに身を置いて体感することを自分に課してたような気もします
玄洋さん:
そうですね そういうところに話題がいくと、逆にされなかったですね 黙られた
別の話にそらすような そういう辛さはあったんでしょうね
●晩年、相原がこだわったのが北海道の山
1996年 亡くなる3年前 十勝・幌尻岳を描こうとしていました
当初、吹雪で山は見えなかったと言います
ところが、相原の思いが通じたのか、山が姿を見せ始めました
この時案内した樋口勝久さん:
晴れてきたんですよ 晴れてきたからここで止めろっていうことで 描いて
一瞬の晴れ間を相原は見逃しませんでした
その間わずか30分 一気呵成に描きました
「雪の平原 十勝幌尻岳」(1996)
描きたいという一念が神々しい冬の山の姿を浮かび上がらせました
●亡くなる前年の異色の大作
中札内の美術館には相原が訪ね歩いた北海道の名山が雄々しい姿を表しています
その中に、とりわけ大きな異色の作品が展示されていました
「天と地と」(1998)
縦1m80cm、横は2mを超えています
相原は150号という、今まで描いたことのない大作に亡くなる前年挑んだのです
最後のスケッチ旅行に同行したのも石黒さんでした
1年半前から患っていた病が悪化する中、大雪山系の黒岳に向かいました
石黒さん:
この頃の体調は、だいぶ先生も弱っておりまして
やはり自分でも取材というものに対して相当無理して出かけていたように思います
「もう俺には描く時間が少ない 決められた一枚の絵でも残したい」
ということを言っておりました
●相原がその時写した写真
山並を5枚つなぎ合わせて構想を練りました
しかし出来上がったこの絵は、現地で取材したにも関わらず
実際には存在しない風景になりました
相原は、パノラマ写真から雪の峰、黒い崖、鋭く落ち込んだ谷を
大胆に切り取っていったのです
明るい山頂とは対照的に、奈落の底のような切り立った谷が描かれています
石黒さんは、この絵を描いていた相原の姿が忘れられないと言います
石黒さん:
先生の後ろ姿は、何か強いものが燃えているようで、声をかけることは難しいことです
自分の魂を入れて描いているものですから 気力が燃えたぎっているようですね
命を削って描いた作品には、迫り来る死をまるで覗き込むかのように暗く深い谷
それから半年も経たずに相原は旅立ちました
「天と地と」 渾身の絶筆です
た:
実際に拝見して、本当に迫ってきますね
一番何か相原先生の思いが伝わってくる
天国と言うか、素晴らしいところと
地獄ではないですけれども、やはり生きていく中での
両方あるというような感じもしますし
観る人によっていろんな受け止め方ができるような気もしますけど
でも力強さは一番感じました
玄洋さん:
体が弱っていかれたものですから もうそれが気になって
2階のアトリエに誘われるんですけれども
何か呼吸していること自体が音がするような
でもね 観て欲しかったんですね
小野:
いわゆる現実の風景というものを描いてきた人が
最後の最後で、現実をある種、改変するというか再創造すると言いますか
そうした描き方をして作品を作ったということはどのようにお考えですか?
玄洋さん:ひと言で言ってしまえば、自分の理想像だったんだと思います
アナ:この絵で表現したかったものは何でしょうか?
玄洋さん:
絵描きさんの一番奥の秘密みたいなものだから、よく分かりませんけどね
見せたかったっていう気持ちは分かんないでもないですね
でも、自分で大自然を作ったんだと思いますよ
あの絵の前で亡くなられてたんです
病院から運んで、帰って来られた時にね
この絵の前で この絵が飾ってあったのを覚えてますけどね
小野:
山並の線が相原さんの呼吸に見えてきました
やっぱり作品を作るということは創作者にとって
常に何か自分の故郷を作ることだと思うんですね
亡くなった時にこの絵があったということで
ご自身の作られた故郷に還っていかれたのではないかなっていう風に感じました
た:
最後の最後にこれだけのものを残されたというのは
絵を描くということに対してすごく
自分の存在の意義を見出されていたのではないかなと思って
玄洋さん:
素晴らしい生涯だったような気がしますよ
堂々と歩かれたんじゃないでしょうかね 自分の道っていうのをね