花好き・旅好き80代北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり、今は外国行きは見合わせている。

バルカン地方の旅(8) ボスニアヘルツェゴビナ

2009年10月04日 | 海外旅行「東ヨーロッパⅢ」スロベニア,クロアチア,ボスニア,モンテネグロ

前に「ボスニアヘルツェゴビナ」が「クロアチア」の領土内に一部入り込んでいる話をしたが、この日は朝「ドブロヴニク」を出発して海岸線の道から内陸へと進路を変え、別の国境から「ボスニアヘルツェゴビナ」の古都「モスタル」に向った。

「ディナルアルプス」を越えると緑豊かな平野が表れて、広い葡萄畑も見られ、それまでの光景と変わった。
約2時間半走って「モスタル」に着いた。

「ボスニアヘルツェゴビナ」は、面積51,100k㎡で「クロアチア」より少し狭い。首都は「サラエボ」。
人口も438万人と少しだけ少ないが、ボスニア語、セルビア語、クロアチア語が公用語であり、イスラム教徒45%、セルビア正教徒30%、カトリック教徒20%と複雑である。
今までの3つの国と違うのは、オスマントルコに支配された時に正教徒とカトリック教徒以外の多くの人がイスラム教に改宗し、1878年にはオーストリア・ハンガリー領、第1次世界大戦後はユーゴスラビア王国領となったのだが、その後もずっとトルコ風の生活をし続けていることだという。

2005年に世界遺産に指定された古都「モスタル」は、町の真ん中を「ネレトヴァ川」が流れる渓谷にあった。
駐車場から歩く途中の教会や家の壁、古都内部にも、沢山生々しい銃弾の跡があった。①

 ①

オールドバザールの真ん中に作られていたオスマン・トルコ時代の石橋は、1993年からの「ボツニア」内戦時にクロアチア人達に破壊された。
この時、長さ40mの橋の両側に分かれて住んでいる西側のクロアチア人と東側のムスリム(ボスニア)人が血みどろの戦いを繰り広げたのだ。
1995年、NATOが仲介して戦争が終結した後、ユネスコ、世界銀行、民間の寄付によって1200万ユーロという巨費により2004年に修復された。復元記念式典にはチャールズ皇太子他の来賓が多数出席して行なわれたという。
今、橋を西側から東側に渡ると、急に軒先が低いトルコ風のみやげ物屋が立ち並ぶ。
そしてその手前に真新しい木造の歴史資料館があった。覗くと内戦時の悲惨な写真や石橋の復元記念式典の写真が展示されていた。
石橋の中央の欄干では、水泳パンツ姿の男性が2人立っていて、下の川に飛び込むパフォーマンスをしようとしていた。1人がポケットから袋を出して群がる観光客からチップを集めだした。私は通り過ぎたが、振り向くと1人が飛び込んだところだった。
調べたら水面まで24m以上あるこの飛び込みは橋ができた当時からの伝統で、毎年夏には大会も開かれているという。しかし水が冷たいため、危険であるらしい。
②は西側の川岸に下りて写した石橋。イスラム寺院の祈りの集まりを報せる尖塔が見える。③は東側に渡ってから人が群がる橋を写す。

 ② ③

④⑤は橋の東側、観光客が溢れている旧市街の光景。⑥は橋を再建する時に先ず作って見たという小さな仮橋と西側の町の光景。
⑦は昼食に出たひき肉のトルコ風ボスニア料理チェバブチッチ。少し油っぽく、胸焼けした。

 ④ ⑤ 

  ⑥

「ボスニアヘルツェゴビナ」を訪れたことで、私は宗教、民族による対立がもたらす悲惨な結果と、互いに違いを認め合い共生して暮らす新しい可能性を見る事ができた。それゆえにこの地は、後世の人々に残すべき世界遺産として認められたのだろう。

最後になるが、「クロアチア」中部の自然遺産・プリトビツェ国立公園の記事は割愛し、これで(1)~(8)までと続いたバルカン地方の旅を終わりたい。

実は最初、今回の報告記事は凄く簡単なものにしたいと思ったのだが、書いている内に、時間をかけて見て来たものの内容が、自分にとって良く判るものにしておきたいと考え直した。そのため、少ししつこい文になってしまった。

まとめた結果、陸続きで他国と国境を接し、「アドリア海」に面するこの地域は、古くから覇権争いが絶えず、どの国にも複雑な歴史がある事がわかった。
それだけにその歴史が残した多くの遺産は、世界中の未来に向う人々にとって極めて貴重なのだと思った。

拙文を飽きずに読んでくださった皆さんが何を感じたのか気になるが、最後までのお付き合い、ありがとうございました。





コメント (2)
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