花好き・旅好き80代北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり、今は外国行きは見合わせている。

バルカン地方の旅(6) クロアチア④

2009年10月02日 | 海外旅行「東ヨーロッパⅢ」スロベニア,クロアチア,ボスニア,モンテネグロ

昼食後、スプリットから200km南にあるクロアチア最南端の町、ドブロヴニクまではバスで4時間かかった。
左手にずっと続いている石灰岩のディナルアルプスは、いよいよ海岸近くに迫って来て、クロアチアが先細りした地形になっている事が良くわかった。
実は行って見て初めて知ったことだったが、海岸線の道路をバスで南下している途中、突如ボスニア・ヘルツェゴビナの国境が現れたのだ。入国手続き後、僅か10分走るとまた国境が現れて、再びクロアチアの国になったのである。
ガイドの説明では、海岸線を持たないボスニアがネウムという町がある9kmの海岸線を領土として買い取ったというのである。
調べたらかってドブロヴニクの領土だったネウムがオスマントルコに占領されていた17世紀、オーストリアが奪い返した時に、ヴェネチアと対立していたドブロヴニクはオスマントルコに返還を要求しなかったという歴史的な因縁があるらしいのだ。
しかし、現実にはクロアチアはネウムのために飛び地になっているわけで、私には初めての体験だった。

ともかくやっとドブロヴニクに着き、ホテルに入ったら、日が暮れていた。

翌日も良く晴れていた。
朝食後早速、「アドリア海の真珠」とたたえられて来た世界遺産・ドブロヴニクの観光に向った。
まず展望台から旧市街の全体像を見た。遠くに海に突き出している白い城壁に囲まれたあかねいろの町が見えた。①
来た道をバスで戻り、駐車場から歩いて城壁内に入った。
門に入り城壁を見ると圧倒させられた。②

昔、ローマの植民地だった近くの町にクロアチア人(スラヴ人)が入ってきたため、追い出されたローマ人達が小島の岩礁に住み着いたのが町の始まりだと言う。
やがて海峡を挟んだスルジ山の麓にクロアチア人が住み着いたので、島のローマ人はクロアチア人達にお金を払って土地の耕作権などを得ていたという。
やがて両者の融和が深まり、小島を隔てていた狭い海峡を埋め立てて1つの町を作ったというのだ。それがドブロヴニクなのである。
その後ここは、東西文化・交易の中継地として大いに発展して行ったのだ。
この町の人たちは、ヴェネチア、ハンガリー、オスマン・トルコなど、その時々の脅威から自由な交易を守るために、貢物をしたり上納金を納めたりし続け、実質的な自治権を決して離さなかったのだという。私はこの町がたどった歴史を、多くの国が改めて学ぶべきではないかと感じた。

この町には長い間水源が無かったので、雨水を溜めたりして暮らしていたが、15世紀、議会が上水道建設を決議し、10km遠くのスルジ山の水源から水を引く工事をした。これによってオノフリオの泉が作られ、市民に無料で使用させる事としたのだ。今も16のレリーフから常に湧き出るその水が使われていた。私も飲んだが美味しかった。③

 ① ② 

 ③

2つの民族が仲良くなって埋め立てた海峡は、プラッツア通りとなり、町のメインストリートになっている。④
歴史的な建物や遺跡も良く保存されていた。

1時間余りの自由時間に私は町を2kmにわたってぐるりと囲む城壁の上の遊歩道を歩いた。30℃近い晩夏の太陽に照らされた城壁巡りで汗だくになったが、多くの観光客が歩く毎に変わる景色を楽しみながら散策していた。⑤⑥
この城壁は、9世紀にはすでに基礎が作られていたらしいが、本格的には13世紀に30年の歳月をかけて最高高さ25m、厚さ3~6mの城壁を強固に造ったのだと言う。そして14世紀には堅固な要塞も加えられた。
1時、ナポレオンの侵攻により破壊され、また1991年の内戦で大きな傷を負った町だったが、今また逞しく蘇えっているように感じた。
最後の写真は今も賑わう旧港である。⑦

 ④  ⑤ 

 ⑥ ⑦





コメント (2)
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