花好き・旅好き80代北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり、今は外国行きは見合わせている。

バルカン地方の旅(7) モンテネグロ

2009年10月03日 | 海外旅行「東ヨーロッパⅢ」スロベニア,クロアチア,ボスニア,モンテネグロ

クロアチアの最南端の町、ドブロヴニクの観光を昼で終え、食事をしてからバスに乗って南の隣国モンテネグロに足を伸ばした。世界遺産コトルを観光するためだ。

1時に出発したバスは40分で国境に着いた。出国と入国の手続きに20分かかった。
実は入国の際、運転手はミネラルウオーターを1本、管理員に渡していた。賄ろだという。渡さなければいじ悪されて、なかなか通してくれないらしい。こんな光景は初めて見た。

入国後間もなく、運転手の休憩と私たちのトイレタイムのために小さな店に入った。
そこには女性のトイレと洗面所は1つしかなかったが、先に使っていたスカーフを被った数人の女性達がなかなか洗面所から出て来ないのだ。私たちは仕方なく15分くらいも待った。
彼女達が出て行った後の洗面所やトイレは、水だらけだった。
後で知ったのだが、彼女達はイスラム教の信者で、お祈りをするに当たって口、耳、鼻など穴を全て清めていたらしいのだ。
外で敷物を敷いて祈っていたと言う。ある人が「何処の人か。」と聞いたら、マケドニアから来たと言っていたらしい。
こんな場面に出会ったも初めてだった。

モンテネグロの正式名はモンテネグロ、ガイドの説明によると国名は「黒い山」という意味なのだとか。
首都はボドゴリツァ、面積は福島県とほぼ同じ13,812㎡と小さいが、海岸線が長く、アドリア海の自然港として重要な位置を占め、工芸と商業が盛んで、古くから造船業も盛んであった。
14世紀に作られた造船所では、今でも世界中の船を安く修理したり、海運業を請け負ったりしているという。

人口は僅か62万人であり、モンテネグロ語、セルビア語、ボスニア語が公用語だ。
モンテネグロは第1次世界大戦でオーストリア、ハンガリー帝国に占領されたが、1918年にはセルビア、クロアチア、スロヴェニア王国に取り込まれた。後にユーゴスラビア王国の一部となったが、1997年頃から分離独立の動きが強まった。
2006年に行なわれた国民投票では欧州連合の要求通り、投票率86.5%、賛成55.5%という高結果でEUへの加盟を果たし、同時にセルビアから独立し、国連にも192番目の国として加盟、通貨をユーロとした。
しかし、ガイドによれば、現在、失業率が30%もあり、平均月収は270ユーロ(日本円では36000円程度)と貧しい国のようだ。

相変わらず石灰岩の山脈が海にせり出すように続いたが、やがてバスは深く入り込んだ入り江の3/4に当たる距離をぐるりと40分も回ってコトルに着いた。
コトルは昔ローマの属州だったが、535年ユスティニアヌス1世の時に要塞都市として建築されたらしい。
その後、サラセン人の略奪にあったり、ブルガリアに占領されたりしたが、1003年セルビアに併合された。その後もモンテネグロの一部として宗主国が次々と変わった。
1979年の地震により、町は大きく損傷したが、ユネスコの援助で復旧した町である。

城壁に囲まれた小さい古都・コトルは、高く険しい山の中腹にも城壁を巡らせているという特徴があり、規模は比べようも無いが、それは中国の万里の長城に似ていた。① (写真を拡大したら、山の城壁がわかるかも知れない)
他国の支配を受けながらも自由都市として認められて来た町で、門から城内に入る人は税金を払わなければならなかったそうである。②
広場に山を背負って古い教会があった。③

 ① ② ③

城内の小さなスーパーでビールとミネラルウオーターを買ったが、クロアチアより1~2割ほど物価が安いと感じた。
帰りは入り江を来た方向と反対方向に1/4の距離を走り、入り江を挟んだ南北の岸が最も接近しているレペタニからバスごとフェリーに乗って対岸のカメナリに渡った。7~8分しかかからなかった。
しかし、また国境の2つの事務所で手続きをしてドブロヴニクのホテルに着いたら8時になっていた。

今思えば、この半日のオプショナルツアーは、モンテネグロが他国に翻弄させられた長い歴史と、現在の姿に少しだけ触れることができた胸に残る旅となった。

コメント (3)
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