4日目(12月14日)は烏鎮の観光に行くため、ホテルを9時に出た。この日もやはり雨が降り続いていた。
烏鎮は蘇州から80kmあり、杭州との中間にある水郷の町として宋代に発展をした。多くの商人の他、文人も集まった所だという。
運河には色々な形の橋が架かっていた。火事の際の類焼を防止するために立派な『うだつ』を上げた古民家もあった。①②③
① ②
③
最初は、烏鎮出身の作家、「茅盾故居」の見学だった。
農民の出身だった茅盾(ぼうじゅん)先生(1896~1981年)④は、北京大学に合格した英才だったという。しかし、大学を中退し共産党に入党した。
国共合作が崩壊してからは、農民の貧しい状態を改善するには小説を書いて啓蒙するのが1番だと気づき、作家活動に専念して多くのリアリズム小説を発表した。
1928~1930年には日本に亡命もした。1949年、新中国が成立してからは文化相の職に就いた。
このようにして現代中国文学の代表作家の地位を築いた後、死の直前に本人が申請して党籍が回復され、葬儀は国家葬だったという。
私には全く知らない人だったので、ガイドが熱を入れて説明をしてくれたのに対して、多少違和感があった。「茅盾故居」は、北京にもあるという。
その後、運河沿いの古い街並みを歩いて行くと、運河で洗濯をしている女性を見た。⑤
また、今は営業をしていない藍染工場があった。染めた布が、降る雨の下で濡れていた。⑥
木彫り陳列館を見たり、最後は昔の薬屋だったという店を覗いた。
白壁と黒瓦という独特の雰囲気を残す烏鎮も、ボートが浮かぶ古い街並みの保存を計画しているのだという。
④ ⑤ ⑥
観光が終わり、杭州迄の100kmを1時間ほどで走る途中、道路工事をしている場所で、無錫の女性ガイドの話を思い出した。
この時期に都市で工事に携わっている人たちの大半は、農閑期の農民たちなのだという。
その話をした後、彼女は続けて、『結婚相手に求める中国女性の条件 』を教えてくれた。
牛の様に働く事、犬のように忠実な事、羊の様におとなしい事、豚のように何でも食べる事、もう一つあったが忘れた。
私はその言い方のエゲツナサに驚いたが、中国女性の本音なのだろうと思った。
ホテルに着いたのは4時前だったので、5時半の夕食までホテルの近くを3人で散策した。
傍に4階建ての衣料品のデパートがあったので、入って見た。数年前迄の中国の衣料品とは明らかに違うモダンな感覚にデザインされた衣料品やスポーツ用品、バッグ類、靴などが沢山並んでいた。
考えて見たら不思議な事ではないのだ。中国は今や、日本を始めとする世界中の国々から生産を請け負って輸出する国になったのだから、デザインも生地も縫製も、その全部をすでに自分たちの物にしてしまったのだ。
果物を綺麗に並べた屋台が並んでいた。しかし私たちは、安心して買いたかったので横の果物屋に入って金柑とぶんたんを買った。どちらも新鮮でとても美味しかった。⑦
柑橘類は寒い北海道にはないので、検疫がなければぶんたんを2~3個買って帰りたいくらいだった。
軽食店に入りコーヒーを頼んだ。出てきたのは砂糖がたっぷり入ったミルクコーヒーだった。
⑦
烏鎮は蘇州から80kmあり、杭州との中間にある水郷の町として宋代に発展をした。多くの商人の他、文人も集まった所だという。
運河には色々な形の橋が架かっていた。火事の際の類焼を防止するために立派な『うだつ』を上げた古民家もあった。①②③
① ②
③
最初は、烏鎮出身の作家、「茅盾故居」の見学だった。
農民の出身だった茅盾(ぼうじゅん)先生(1896~1981年)④は、北京大学に合格した英才だったという。しかし、大学を中退し共産党に入党した。
国共合作が崩壊してからは、農民の貧しい状態を改善するには小説を書いて啓蒙するのが1番だと気づき、作家活動に専念して多くのリアリズム小説を発表した。
1928~1930年には日本に亡命もした。1949年、新中国が成立してからは文化相の職に就いた。
このようにして現代中国文学の代表作家の地位を築いた後、死の直前に本人が申請して党籍が回復され、葬儀は国家葬だったという。
私には全く知らない人だったので、ガイドが熱を入れて説明をしてくれたのに対して、多少違和感があった。「茅盾故居」は、北京にもあるという。
その後、運河沿いの古い街並みを歩いて行くと、運河で洗濯をしている女性を見た。⑤
また、今は営業をしていない藍染工場があった。染めた布が、降る雨の下で濡れていた。⑥
木彫り陳列館を見たり、最後は昔の薬屋だったという店を覗いた。
白壁と黒瓦という独特の雰囲気を残す烏鎮も、ボートが浮かぶ古い街並みの保存を計画しているのだという。
④ ⑤ ⑥
観光が終わり、杭州迄の100kmを1時間ほどで走る途中、道路工事をしている場所で、無錫の女性ガイドの話を思い出した。
この時期に都市で工事に携わっている人たちの大半は、農閑期の農民たちなのだという。
その話をした後、彼女は続けて、『結婚相手に求める中国女性の条件 』を教えてくれた。
牛の様に働く事、犬のように忠実な事、羊の様におとなしい事、豚のように何でも食べる事、もう一つあったが忘れた。
私はその言い方のエゲツナサに驚いたが、中国女性の本音なのだろうと思った。
ホテルに着いたのは4時前だったので、5時半の夕食までホテルの近くを3人で散策した。
傍に4階建ての衣料品のデパートがあったので、入って見た。数年前迄の中国の衣料品とは明らかに違うモダンな感覚にデザインされた衣料品やスポーツ用品、バッグ類、靴などが沢山並んでいた。
考えて見たら不思議な事ではないのだ。中国は今や、日本を始めとする世界中の国々から生産を請け負って輸出する国になったのだから、デザインも生地も縫製も、その全部をすでに自分たちの物にしてしまったのだ。
果物を綺麗に並べた屋台が並んでいた。しかし私たちは、安心して買いたかったので横の果物屋に入って金柑とぶんたんを買った。どちらも新鮮でとても美味しかった。⑦
柑橘類は寒い北海道にはないので、検疫がなければぶんたんを2~3個買って帰りたいくらいだった。
軽食店に入りコーヒーを頼んだ。出てきたのは砂糖がたっぷり入ったミルクコーヒーだった。
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