花好き・旅好き80代北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり、今は外国行きは見合わせている。

中国江南の旅(7)

2010年12月25日 | 海外旅行「中国Ⅱ」江南・黄山・香港、マカオ
5日目(12月15日)、目が覚めてカーテンを開けると昨夜までの雨が雪に変わっていた。
何故か出発時間が10時半と遅かったので、昨夜、ホテルの近くにあると聞いた市場に朝食後3人で行って見た。
かなり大きな市場で、杭州市民の台所らしかった。
様々な活魚が売られていた。女性たちが肉を大胆に切って売っていた。①
何度か料理に出たアヒルの血を固めて作った豆腐もあった。② 豆腐や油揚げも売られていた。③
野菜は山積みにされ、私が見たこともないものもあり、とにかく市民が沢山買いに来ていて活気に満ちていた。

 ① ② 



10時半に集まり、雪が降る中、バスで70km先の紹興まで行った。
昼食を済ませてから、魯迅ゆかりの立派な「魯迅故居記念館」に行った。④
入り口を入るとホールで魯迅(本名、周樹人)の像が出迎えてくれた。⑤

展示を辿りながら、官吏の子として生まれた魯迅には、子供時代、遊び友達がいなかった事、難関の科挙の試験を受ける事に成った時、孫を合格させようと試験官に金を渡した役人の祖父の不正が見つかって捉えられ、祖父は死刑になった事、間もなく父も病死して、地主だった実家は没落してしまったことなどを、ガイドが説明した。
さらに私が調べた所、その後魯迅は、政府から多大な奨学金をもらって日本に留学し、1909年、仙台医学専門学校(現東北大学医学部)に入学した。
しかし、そこで中国人が殺される日露戦争のニュース映像を見て心を傷め、医学より文学による精神改造が中国人には必要だと考え、1年半で退学し、文学者になって、最初の小説「狂人日記」を書いたという。(私は読んだことがないので、今度図書館から借りたいと思う)

その後、近くにある魯迅が子供時代に学んだ私塾の「三味書屋」を見学した。
三味とは、経典が米や穀物、歴史がご馳走、芸術が肴の意味らしい。魯迅はここで12~17歳まで学んだ。
建物も教室も、ほぼそのまま保存されていた。⑥ 1度遅刻をして叱られてからは、2度としなかったという魯迅のエピソードが残されていた。

 ④ ⑤

 ⑥

次いで、紹興名物、紹興酒の製造元⑦に行って、製造工程を見学した。写真撮影は禁止された。
紹興酒の製造は、2500年前に始まったという。
当時、男の子が生まれたら豚1匹、女の子が生まれたら紹興酒1壺が、祝いとして王様から与えられたそうだ。
最後に事務所の2階に通され、5年物と10年物の紹興酒を試飲させて貰ったが、10年物の方がまろやかな味だった。欲しい人は買ったが、私は味が好きではないので買わなかった。

いよいよ杭州に戻る頃、雪が激しくなって来た。こちらの車は、夏タイヤしか履いていないという。高速道は事故で通行禁止になったらしく、バスは普通道路を戻るしかなかった。
夜になった。降りしきる雪の中でスリップして追突し、ストップした車を何台も見かけた。警察のパトカーも走っていた。
バスがやっと杭州のホテルに着いたら、22時近くになっていた。駐車場の車にも雪が積もっていた。⑧
私はバスから降りる時、夏タイヤで頑張った運転手さんに、心からありがとう(謝謝)と言った。 
 ⑦ ⑧
コメント (2)
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