≪大統領官邸・国会議事堂≫
帰宅後のTVで、天皇、皇后が表敬訪問した「大統領官邸」の映像が流れていたが、バスは中に入ることができなかったし、窓越しに遠くの官邸を写す事ができなかった。
バスが「国会議事堂」前にあるロータリーを回ってくれたので、こちらは遠かったが写せた。
見ると車が渋滞しているところに入り込んで、ボールペンを売っている少年たちがいた。
≪「アーグラー」観光①≫
「デリー」の市内観光の後、200km南に離れた町「アーグラー」までバスで5時間強走った。ここは何でもバスにカーテンを付けることが禁じられているという事で、西日が射して車内はひどく暑かった。
「アーグラー」に着いたのは夕刻だったので、観光は翌日最終日の午前中になった。
①世界遺産「タージ・マハル」
この町は2回目だったが、警備が厳しくなっていて、手荷物検査もされた。世界中から多くの観光客が訪れていて、内部はゆっくりと見られないほど混んでいた。
この建物は、ムガル帝国皇帝「シャー・ジャハーン」が、亡くなった妃の「ムムターズ・マハル」のために建てた墓だ。
「ヤムナー河」を背にした250m×350mの敷地に、高さ67mのドームを持つ建物を建てるには、2万人の労働者が象千頭で資材を運び、22年の歳月を掛けた。そして1653年に完成したものだという。
労働者達は、完成後、二度とこんな美しい建物を建てられないように手を切り落とされたという。
しかし彼は、権力の座を狙った三男に幽閉されて74歳で死去した。今は「タージ・マハール」の地下に妃と共に眠っている。
門から入ると、晴天の下に見える白亜の墓「タージ・マハル」が美しかった。
実はこの王は、河の反対側に自分の墓として黒大理石で「黒いタージ」を造りたいと計画していたらしいが、その願いは頓挫した。そのお陰で、今は愛する妃の隣で眠っているのである。
(「もしも」は歴史には無いそうだが、「黒いタージ」の建設をしていたら、国民の窮乏と労役提供は増すばかりだっただろうと思う。そう考えると、息子のクーデターは国民にとっては功を奏したのではないだろうか。今「タージ・マハル」は、世界一美しい墓として世界中の人を惹きつけて止まない)
≪首都「デリー」の観光≫
今回は、ほとんど毎日、国内便航空機に乗って次の都市に移動したので、ほぼ移動に半日(発着時間の2時間前には空港に行かなければならないため)、観光に半日という毎日だった。
今日は後半の首都「デリー」の観光から書くことにしたい。
「デリー」は、17世紀の中頃、ムガール帝国の首都として新たに建設された都市だ。
現在は人口1,500万人が住み、大統領府、国会議事堂、各国大使館などがあるインドの首都である。
ガイドの話では、近年急激に乗用車が増加し、今は750万台が走っているとの事。
私達が観光した日は、軍と警察が沢山出ていて、緊張感に溢れている感じだった。聴く所によると、日本から天皇、皇后が訪問する前日だったようだ。
①先ず、デリーのシンボルの「インド門」(高さ42m)を、車窓から見学した。
この門は、1803年にデリーに駐屯地と居留地を置き、1911年に英領イギリスの首都を「コルカタ」から「デリー」に移したイギリスが、その証として1931年に自国の建築家に建てさせた物で、第一次世界大戦のインド兵士9万人の慰霊碑である。その内の13,500人の名が刻印されている。
「インド門」を中心に「ニューデリー」が建設されて行った。
イギリスは戦争終結後のインドの独立を条件にインドに参戦させたが、その約束は果たされなかったのだ。
最近この傍で大きなデモがあったらしく、傍に近づくことが禁止されていた。
②世界遺産「クトゥプ・ミナール」
ミナールとはモスクの尖塔の事だ。これはインド初のイスラム王「クトゥプディーン・アイバク」が、ヒンズー教徒に勝利した記念に建てた塔だ。(1192年に着工したが1層目で死亡した。その後、後継者が建設を引き継いだ。14世紀までかかって建設されたという)
高さ72.5m、基部の直径は14.3mあり、砂岩と大理石などを組み合わせて造られ、コーランが刻印されている巨大な美しい塔だった。
傍に1188年に造られたというインド最古のモスク「クワトゥル・イスラーム・マスジット」の回廊が残っていた。
列柱の浮き彫りが美しかった。
間近に巨大な残骸の様なものがあった。それは「アラーイーの塔」で、スルタン、アラーイーが1312年に「クトゥプ・ミナール」よりも大きな塔を建てようと着工したが、途中で暗殺され、工事が中止されたものだという。権力者の果たせぬ夢の跡だった。
③世界遺産「フマユーン廟」は、ムガル帝国2代目皇帝「フマユーン」の妃が、1565年に夫の墓として建造したもので、中央にドームがある左右対称の形をしていた。
堂々とした立派な廟だが、妃は皇帝の残した巨大な遺産を資金として建てたのだろう。
妃亡き後、2つの棺が並んで置かれた。(写真の棺はダミーで、本物はこの下にあるらしい)
ここにはインドの小中高校生が教師に引率されて、大勢見学に来ていた。いずれも男子校、女子高らしかった。
生徒達は写真を撮られることが好きらしく、カメラを向けると直ぐに大勢が寄って来て笑顔を振り撒いてくれた。
④世界遺産「レッド・フォート」は、ムガール帝国の赤い砦だ。
第5代皇帝「シャー・ジャハーン」が1639~48年に建造した巨大な砦だが、その後の戦乱でかなりの部分が破壊されたらしい。
毎日行われる謁見式で、民衆が皇帝に直訴する「陳情書」があった。公開裁判では、罪人を象に踏ませたり、毒蛇に噛ませたり、剣で切る公開処刑が、ここで行われたらしい。
ここは外から写真撮影をしただけだった。
≪無事に帰国した≫
インドから予定通り、12月1日朝8時に成田空港に帰国し、午後には北海道の我が家に帰宅できた。
私の留守中、北海道石狩地方は強風が吹き荒れたらしく、薔薇の支柱が数箇所傾いていた。
また一度雪が少し降ったらしく、庭に2~3cm残っていた。
今回のインドの旅では、天候とサービス精神に富む優秀な現地スルーガイドに恵まれ、充実した旅ができた。
15年振り、2度目の北インドだったが、街中を走っていた自転車がオートバイに変わっていた。
また、自動車が激増しているのにも関わらず、道路の整備が遅れていて、狭い道路で交通渋滞が起きていた。
インドの交通事情は、信号が無い道路で我先にと飛び出すオートバイと車、それにリキシャが加わり、すさまじかった。
砂埃と排気ガスで、どこに行っても大気汚染がひどく、すっきりとした写真を撮ることが難しかった。
デリーからベナレスに行ったが、「カジュラホ」の街で見た市民の生活状況は、基本的には15年前と余り変わっていなかった。
しかし、ホームレスに食事を配給する取り組みがなされているのを見て、少しホッとした。
4日目に行った標高2000mを越すダージリンでは、札幌に似た寒さだったが、期待していた「カンチンジュンガ」(8586m)をこの目でしっかりと見られて、感動した。
生ものやカットされた果物は一切口に入れず、加熱されたものだけ食べ、辛いカレーも少ししか食べなかったので、一度胃腸を壊しそうになったが、持参した下痢止め薬を飲んで乗り越えた。
終盤、デリーに戻って観光している時にガイドから、天皇、皇后のインド来訪を知らされ、少し驚いた。
帰宅後、10日間のTVの録画をほぼ見終わったので、次回からインドの旅行記を書きたい。