平敷のところへ生ビールのジョッキを運んできた黒ずくめのボーイが帰っていくほうにふと目を向けたTは左側一つ向こうのテーブルに座っている親子に目を止めた。小学生高学年くらいの年頃の男の子とその母親らしい痩せた中年の女である。おやと彼が思ったのは同じマンションで時々見かける男の子に似ていたからである。彼が外出から帰ってくるときに何度かマンションの近くやバスの停留所で見かけた子供に似ている。母親が送ってきてバスに乗り込んだ子供に手を振っていることを見たことがあるのだ。
おおかた塾にでも行くところなのだろう。結構大きな子供なのにバス停までついてきて乗り込んだ子供に子供同士の様に手を振っている姿が奇異に感じられて記憶に残っていたのである。しかし女がその時の母親らしき女かどうかはわからない。彼はマンションの住人、なかんずく中年の女とかには目を合わさないように用心しているのであった。マンションの女たちはTを正体不明の危険人物とみているようであった。中年女というのはおそろしい。彼はマンションの近くでこのような女たちに行き会ってもなるだけ地面に落ちているごみを探すように下を向いて通り過ぎる。顔を合わせないようにしていたのである。
だからその女の顔は覚えていない。ただ背がわりと高くて、スープを取ったあとの鶏の骨の出し殻のような印象は似ている。男の子は外見は痩せてはいるが健康そうな肌をして利口そうな顔をしている。しかし、なにか教育ママに操られているようで生気のない顔に見えたので印象に残っていたのだろう。Tの前頭葉のデフォールト・モード・ネットワークに一瞬何かが描像を結んだがすぐに消えてしまった。
平敷がTの顔を見ながらいぶかしそうに聞いた。「何を見ているんだい」
「いや、ああ、同じマンションの住人に似ているものだから」
平敷が後ろを振り向いた。「あんまり見るなよ」とTは注意した。
「それでそうなのかい」
「いやどうも違うようだ」と言うとTは横の椅子の上に置いてある緑色のナップザックのジッパーを下ろして中から単行本を数冊取り出した。
「君に頼まれた件だけどさ、さっき言ったように通り魔の本というのは意外に少なくてね。まだあるんだろうけど後は図書館なり古本屋で探すんだな」
平敷はTがテーブルに置いた本を取り上げた。
「『凶獣』か、なんだい石原慎太郎か。これが通り魔と関係があるの」
妙な本でね、とTは説明した。「小説のような、裁判記録というか、精神鑑定のコピーのようなというか」
「しかし200ページか。すぐ読めそうだな。通り魔事件を扱った小説かな」
「ノンフィクション風のね。短いといっても内容はいいよ、概観するには。これは2001年に大阪の小学校で起こった小学生襲撃事件だ。この事件の単行本は結構多いほうだね。精神鑑定をした医師の記録とかね。ほかは読んでいないが、この本であたりをつけるのがいいだろう」
「なるほど、凶獣か、狂獣じゃないわけだ。そこが味噌なのかな」
「そうかもしれない。精神鑑定で責任能力はありとしてすでに処刑されているからね。その本にもほのめかしてあるけど、精神鑑定で責任能力なし、とでも判定されると遺族を黙らせることは難しい。すこし問題はあるが、当局ははやく結論を出してケース・クローズにしたかったらしいぜ」
「ふーん」
「それに犯人の宅間守にも処刑されたいという願望があったということだ」