摩耶はさっき平敷が読み捨てて床の上に投げ捨てた今朝の新聞を取り上げた。ハンドバッグをソファの上にアンダーハンドで放り投げると新聞を持ってソファの上に座り足を組んだ。まず新聞を読む。これもここでの仕事と思っているのだ。今日はばかに読むのが遅い。時々彼が見落とした記事で使えそうな記事を見つけてくれることもあるので好きにやらしてある。それに彼が赤いボールペンで囲った記事を切り抜かせてスクラップブックに貼らせている。関係のない記事まで隅から隅まで読んでいるらしい。
「今日東西線で人身事故があったのを知っていた」と彼女が言った。
「いや、人身事故って」
「何だか知らないけど不通になっていたわよ。それで遠回りして来たから遅くなっちゃった。おじさんは事故に遭わなかったの」
「いや知らないな」きっとあの頭のおかしい青年の起こした事故のことだろうが彼は空とぼけた。ここで彼女に話そうものならおしゃべりな彼女はところかまわずしゃべりまくるだろう。
「じゃあ叔父さんが通った後なんだね」というと彼女は石原慎太郎の「凶獣」という薄い本を取り上げて「これはなんなの。なんかおどろおどろしいタイトルだね」と手にとって思案顔に聞いた。
「大阪の池田小学校の大量児童殺傷事件って知っているか」
「なにそれ、知らない」
「2001年の事件だ。その犯人のことを裁判記録とか精神鑑定の資料を使って石原慎太郎がノンフィクション風に書いたものだ。摩耶は何年生まれだったけ」
「平成11年」
「だからさ、西暦で言うと」
「1999年かな」
「じゃあ知っているわけがないな」
急に思いついて彼は訪ねた。
「堕胎は妊娠何か月まで出来るんだったけ」
「堕胎ってなによ」
「ああ、そうか。妊娠中絶と言うべきかな」
摩耶は目を尖らせると急に黙り込んだ。若い娘は被害妄想しやすい。
「なんで私にそんなことを聞くのよ」
彼が彼女を経験者と思っていると勘違いしているらしい。
それとすぐに気が付いた彼は「いや、なにか法律で規定があると思ってね。法学部の学生の君なら知っていると思ったんだ」
彼女の機嫌は直りそうもなかった。「もっともこれは医者の問題かもしれないな。医学上何週間以降は危険だとか言うことはあるんじゃないかな」
彼女は黙ってハンドバッグから煙草を取り出すと吸い始めた。思い切り吸い込んで太い煙を鼻の穴から噴き出した。こうなると、始末に負えない。