平敷はラッシュアワーの時間帯を避けて10時ころ東西線の落合の駅に着いた。長いホームにはちょうど電車が出た後らしく乗客の姿はなかった。彼はベンチに腰を下ろして大手町に向かう電車を待っていた。そこへ青白い端整な顔をした若者が近づいてきて彼の座席一つを隔てた横に腰を下ろした。Tはいつも持ち歩いているナップザックを横の座席に置いていたが、若い男はナップザックを押しのけるようにして持っていたレジ袋を置いた。ホームのベンチには他に誰もいない。Tが座っているベンチも一列に六人掛けの椅子がある。なにもすり寄るように横に荷物をおくことはない。変な野郎だな、と彼はその時初めて横の若者を見た。驚くほど端整な顔をした美男子だ。年齢はまだ未成年かと思えるほど若い。ただ顔色が白人のように青白いのが妙な印象を与えた。
Tはバッグを取り上げると立ち上がりぶらぶらと歩いて少し離れた誰も座っていないベンチに腰を下ろした。いきなり大きなオイという声がした。まさか自分に向けられたとは思わないからTは無視したら、もう一度オイと怒声がした。驚いて声のする方向を見るとさっき彼の横にすり寄るように座った青年がこちらを向いて怒鳴っている。『どうやら俺に向かって怒鳴っているらしい』とTは思ったが呼びかけられる理由もないので返事もしなかったが、なんだか薄気味が悪くなって立ち上がり、ホームを歩きさらに離れた。間に階段があって、若者の姿が見えなくなった。
気が付くと青年がいつの間にか彼の目の前に現れた。「あやまれ」と怒鳴った。Tはびっくりして男の顔を凝視した。それが相手をさらに興奮させたらしい。
訳が分からないので穏やかに相手を興奮させないように「なんですか」と一応聞いてみた。
「なんですか、とはなんだ。ふざけやがって。土下座しろ」とやくざみたいにらみつけた。彼が来てすぐに席をたったのを、彼を避けたとひがんでいるのかもしれない。どうも扱いにくい奴だとTは腹の中で舌打ちした。
『ひょっとすると、この男は見かけによらず愚連隊かなにかな』とTは考えた。注意してみると相手の目は狂人のそれである。『やくざ予備軍で精神にも異常をきたしているのかな』と彼は慎重に考えた。やくざだけなら、対処の仕方はある。しかし、やくざのうえに頭がおかしくなったとすると、これは下手な動きはできない。
黙って油断なく相手の様子を見ていると、これがさらに相手を興奮させたらしい。いきなり足をあげてキックボクシングの回し蹴りのように脇腹を狙ってきた。かろうじて身をかわした。こいつは攻撃力を阻止するために対応しなくてはならなくなったか、と考えた。面倒なことになった。相手の攻撃力を阻止するために反撃すれば相手を負傷させる可能性がある。勿論こちらがやられる可能性もある。そうなるといずれにしても警察沙汰になる。正当防衛を認めさせるまでには警察で長い取り調べを受けることになる。『やっかいなことになりやがった』とTは舌打ちした。
相手の動きを凝視していたのでTは気が付かなかったが、いつの間にかもう一人青年が現れてその男の背後に駆け寄ると男を後ろから羽交い絞めにした。そして凶漢の耳に何かささやくと相手の体から急に殺気が抜けていった。羽交い絞めにした男は相手よりずっと小男で知的な顔をしている。
Tは急にさとった。この異常者はどこかの精神障碍者施設の収容者で付き添い付きで家に帰るか外出を許可されているのだろう。羽交い絞めにした男は施設の職員に違いない。だから羽交い絞めにされた途端、猛獣使いに命令された猛獣のように大人しくなったに違いない。
平敷は急いで階段まで走り駆け足で登り始めた。途中で彼らのほうを振り返って見ると、男は羽交い絞めを解かれてこちらを見ていたが、視線が合うといきなり猛獣のように獰猛な声を発して階段のほうに走ってくる。保護者らしき男が慌てて止めようとして二人はもみ合った。引き戻された男は介護職員と思われる男を突き飛ばした。何とかのバカ力というが職員は後ろにたたらを踏んで線路に転落した。そこへ電車が侵入してきた。運転手がかけた急ブレーキの音がホームの空間を歪めるようにとどろいた。
平敷は階段をのぼり改札を出た。その時に、事故を証言すべきかどうか一瞬迷った。しかし異常事態は駅事務所にすでに伝わっているだろうし防犯カメラもあるだろうから何も証言することもあるまいとそのまま地上に出た。あの男は階段を追いかけてくる様子もない。間違いなくまだホームにいるだろう。必ず捕まる。そうすると被害者との関係も判明して事故は解明されるだろう。
そう勝手な理屈をつけて歩きながら平敷はまた考えた。『防犯カメラには俺の姿も映っているだろうか。男と乱闘になりそうな場面も残っているかな』と心配になった。『だが俺のことが特定できるだろうか。ありそうもない。まあ、なにか連絡があった時はその時でしょうがない』と考えながら仕事場に向かった。