穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

6-1:無意識と死

2018-08-28 08:34:02 | 妊娠五か月

 前方を飛ぶように歩く老人に気が付いた。大柄な背の高い老人で走っているわけでもなく、といってジョッギングしているわけでもなく普通の歩様なのだがそのスピードがものすごく速い。Tをどんどんと離していく。頭髪は真っ白い老人である。交差点の赤信号で待っているときにTとの距離は縮まるが信号が青に変わると見る見るうちに両者の距離は離れていく。後方頭上からすさまじい爆音が迫ってきた。その時老人が妙な行動をとった。ビルとビルの隙間にある空間に飛び込んだのである。Tがその脇を通るときにその隙間を除くと老人は間隔が3,40センチしかなさそうな隙間に窮屈そうに大柄な体を押し込んでいた。その隙間には雑多なごみが投げ込まれていた。彼はそこから無理矢理身をひねるようにして上を向いて空を見上げていた。

  Tは通り過ぎてから、いま一瞬見た老人が誰であったか思い出した。先日碁会所で会った老人に違いない。後ろを振り返ると老人はまだビルの隙間から出てこない。頭上では爆音が続いている。通行人も何事ならんと上空を見上げている。ヘリコプターが編隊を組んで一列縦隊でかなりの低空を飛行している。ヘリコプターはかなり大型で新聞社が取材に使うようなおもちゃのような機体ではない。樺色に塗装をされていて、おそらく自衛隊のものだろう。編隊の最後尾の機体が通り過ぎるとドップラー効果で爆音はみるみる小さくなっていった。TはJRのA駅の反対側にある東西線の入口があるビルに入り、階段を途中まで下りてから、そうだまだ時間があるから例の碁会所によって行くかと考えて、降りかけた階段を上った。

  時間が時間だからだろう、まだ誰も来ていない。学生風の受付が時計を見て「もうまもなく綾小路さんが来ると思います」と言うので料金を払った。待つほどもなく老人が入ってきた。受付と話していたがTのそばに来ると「一局お願いしましょうか」と聞いた。Tはお願いしますというと碁盤の前に座った。「この前打ちましたね。えーと四子だったかな」とTの顔を見た。Tは確認するようにうなずくと碁盤に四つ石を並べた。十手ほどうち進んだ時に、Tは「さっき早稲田通りで後姿を拝見しましたよ」と話しかけた。

「ははあ、そうですか。気が付きませんでした」

「あのヘリコプターが通過した時ですよ。あなたがビルの間に飛び込まれた時です」と言うと「ああ、あのときですか。妙なところを見られましたな」と老人は頭をかいて笑っている。

「どうも自衛隊のヘリコプターみたいでしたね。かなりの数でした。都内であんな編隊を見るのは初めてですよ」

「そうですねえ、世の中が落ち着いて最近ではまずありませんね」

「昔はよくあったんですか。都内の上空を移動することが」

「けっこうありましたね。世の中が落ち着いていなかったからね。都内の道路をアメリカ軍の戦車が通ったものですよ」

「何時頃の話ですか」とTは驚いて聞いた。「そうさね、昭和25,6年まではそんなことがあったな。私は小学生でね。戦車が通ると地面が波打つように揺れるんですよ」

 二人は布石を終わって戦闘モードに入った。Tは例によって無茶苦茶に切りまくった。上級者を相手に切りまくるなど乱暴な話だが、老人は「だいぶ威勢の良い碁を打つようになりましたね。この間はおとなしすぎたからね」と言った。

 老人は思い出したように話し出した。「一度ね、戦車が移動していた時に床屋の椅子に座っていたことがあった。床屋というのはまだひげも生えていない子供でも剃刀をあてるんですな。産毛ぐらいしか生えていないのをそるんです。それも丁寧に何度も何度も同じところに刃をあてる。そういう時に店の前を戦車が通って建物が大揺れに揺れたんですな。ちょうどあごの下をそっていたんだが振動で少しのどを切られてしまった」

「大丈夫だったんですか」

「少し切ったね。血が出た。もう少し場所が逸れたら頸動脈をやられるところだった」

 「しかし大通りでしょう。戦車なんかが通行するのは」

「いやいや片側一車線しかない道路でね。だから戦車が通ると対向車は通れない。もっともそのころは自動車の数も少なかったからね。くねくねと曲がっている道でも強引に押し通るんですよ。とにかく、あの頃のアメリカ軍は傍若無人でしたからね」

  切りまくって中央に躍り出た黒石はがむしゃらに戦ったがとうとう全石玉砕してしまった。「いや、まいりました」とTは握っていた石を盤面に投げた。

 受付の青年が二人にお茶を運んできた。老人は一口飲むと、思い出したように「さっきはびっくりしたでしょうな」と話しかけた。Tはいぶかしげに老人を見た。

「いや、泥棒猫のようにビルの間の隙間に飛び込んだことですよ」というと老人は思い出を語り始めた。「起きているときは別にヘリコプターが飛んできても驚かないが、寝ているときとかぼんやりしているときに不意打ちのようにあの音を聞くと死に直結する恐怖を感じるんです。ここ何十年はそういうこともなかったが、さっきはほかのことを考えていて、すこしぼんやりしていたんでしょうね。戦後相当の年月が経っても、日曜日の昼などに畳の上でゴロンと寝転んでうたた寝しているときに頭上をヘリコプターの編隊が飛んでくると暗闇に飛び込んで身を隠したくなる。条件反射のようなものがおこります」

「ヘリコプターの音だけですか」

「そう、不思議なことにジェット機とか大型のプロペラ旅客機の場合には別になんともない。もっとも都心の上空はジェット機が低空で飛ぶことはありませんがね。プロペラの旅客機にいたっては空港に行っても現在はまずお目にかかれない」

「どうしてヘリコプターだけなんですかね」とTは質問した。

「そういうことが何回もあったので私も自分でも不思議に思って考えたんだが、どうも内燃エンジンの爆音らしいね。それと回転翼が風を切る音が関係しているらしい」

Tが不思議そうな顔をしているのを見て「説明しないと分からないだろうな」と老人は呟いた。

「戦争末期に房総半島の真ん中の田園地帯に疎開しましてね。なんの軍事施設もないから空襲を受けることもなかったが護衛のアメリカ軍の戦闘機が舞い降りてきた。そして機銃掃射を頻繁に受けたんですよ。小学校の登下校に田んぼの真ん中の畦道を歩いているときにね。その時の背後から急降下して迫ってくる戦闘機の音にヘリコプターの音は酷似しています」

「小学生の一人や二人殺しても戦術的な意味はアメリカ軍にはないでしょう。第一本土に空襲してくるアメリカ軍の編隊はグアムやサイパンから飛来していたのではないですか。房総半島を通過していたんですか」

 老人は茶を口に含むと大きな喉ぼとけを上下させて飲み込んだ。喉を潤すと老人は説明を始めた。