穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

3-4:すたれ言葉

2018-08-05 09:05:54 | 妊娠五か月

「現代では廃れて(スタレテ)しまった学問に自然哲学という分野があるだろう」とTは独り言のように言った。「そういうものじゃないかと思ったんだ」というと生ビールのジョッキをもち上げた。そのときにおかめ蕎麦が来た。Tはビールを一口呷るとそばを啜り始めた。

「そういえば自然哲学なんて言葉はあまり聞かないな」

「ニュートンのころには物理学を自然哲学といったらしい。彼は自分でも哲学者と称していたそうだ。大体、形而上学発想じゃなければ、万有引力なんでいうアイデアは出てこない」

「そうだな」

「だろう」と言ったTはしばらくせわしなげに箸を操ってそばを啜り込んだ。食べ終わると再び話し始めた。

「リンゴが木から落ちるのを見て思いついた、なんて話があるが太陽と地球の間に重力という摩訶不思議な力が真空を通して気の遠くなるような距離を瞬時に、正確には同時に働くなんて考えは狂想だよ。もっとも現代ではアインシュタインの影響で光の速度で到達するということになっているようだが。

リンゴの話はあとからの思い付きだろうな。太陽と地球の間、リンゴと地球の間に同じ摩訶不思議な力が働いてるなんて考えつくかい」と言ったときにうな重が運ばれてきた。

 しかしね、とうなぎのかば焼きを箸でちぎりながら平敷は考え深げに言った。「ああいう考え方はニュートンの独創だろうか。むしろそういう宗教的な考え方は昔からあったような気がする。いかにも宗教的な考え方じゃないか」

「あったかもしれないな、宗教的にも形而上学的にも」とTは同意した。「しかし、ニュートンはそれを数式化したわけだ。関数で表したわけだ。行ってみれば形而上学的なアイデアを数式化した」

「そうしたことがニュートン以前にはなぜできなかったのかな」と平敷が疑問を呈した。

「あのころ、ケプラーだとかコペルニクスだっけ、精密な天文学データが整えられたことが数式化を可能にしたんじゃないかな」

「なるほどね、しかし天文学上はいいとして、なんといっても秀逸なのかリンゴの落下まで適用したことだろうな」

「だから万有・引力(universal gravitation)というわけだろう」

うな重を平らげた平敷が聞いた。「それでハイゼンベルグの本はどうだったんだい」

「まだ三分の一しか読んでいないが、大いに興味をそそられる内容だね」

「どんなところが」

「最初のところで彼がギムナジウム(高等学校)の生徒だったころギリシャ語の勉強のためにプラトンの対話編ティマイオスを読んで面白かったという追憶があるんだ」

「テアイテトスじゃないのか。ティマイオスというのは聞いたことがないな」

「ティマイオスさ、後期の対話編だ。それでそれを読みたくなったが、本屋にない。それで手に入る前にヘーゲルの哲学史で調べたんだ。ヘーゲルの哲学史の記述にはむらがあってね、ヘーゲルが鼻にもひっかけないというか、気に入らない哲学者の紹介はひどく乱暴な扱いなんだが、このテアイトスは彼のお気に入りらしくてずいぶん詳しく紹介してあった」

「それでどういう哲学なんだ」

「ティマイオスという登場人物はピタゴラス学派の人ということになっている。だから世界の根本は数で、数の比例で成り立っているというわけだ。考えてみると現代物理学の鼻祖はいずれも古代ギリシャの原子論のデモクリトスと数の調和というピタゴラスで説明しつくされるようだね」

「それがハイゼンベルグの本に書いてあるのかい」

「最後まで読んでないから断言できない。しかし現代物理学の量子力学でニールス・ボーアやハイゼンベルグの言う『相補性』とか『不確定性原理』というのは粒子(原子)と波動(比例)の両方から説明されるという考えだから、いわばピタゴラスとデモクリトスの折衷案だろうな」

「何か超弦理論というのがあるじゃないか。あれはどっちだい」

「あれはまだ広く認知されていないらしい。この理論の研究者でノーベル賞をもらった学者はいないようだ。しかし、やはり折衷じゃないかな。どちらかというと波動理論に近い印象だがね。この理論の決定的欠点は複雑すぎる数学的説明だろうな。マッハの思惟の経済原則にもそっていない。オッカムの刃の考えから言っても11次元の世界なんて論外だろう」

 

 


3-3:鰻と蕎麦

2018-08-04 08:29:07 | 妊娠五か月

 彼らはデパート直営らしいお好み食堂風の店に入った。平敷によればお子様ランチから洋食、和食、中華なんでもあるからどんな好みの相手でも安心して連れていけるというのである。ウェイトレスが窓際の席に誘導しようとしたが、彼らは店内を見渡して壁際の席を選んだ。そろそろ第二次回転期に入った店は八割がた客が入っていた。昔から二人は窓際で一人が窓を背にして、相手が窓に向かって座るようなテーブルには座らないのである。同様に一人が壁を背負い連れが壁と睨めっこするような配置の席には座らない。彼らが座った席は二人とも片側に壁がある。左利きの平敷は左肘のスペースが広く使える側の椅子に座った。右利きのTはその反対側に席を取る。

  顔がオキシフルで脱色したような色をしたちょっと日本人離れのした目鼻立ちの年齢の想像できないウェイトレスが注文を取りにきた。艶のない髪を肩の後ろまで垂らしている。顔の色のせいかまったく生気の感じられない表情をしている。平敷はうな重を注文した。Tはおかめ蕎麦を取った。二人は生ビールも注文した。

「そんなに鰻が好きなのかい」と平敷に尋ねた。彼はいつでも鰻を注文するのである。

「ああ、君は鰻が嫌いか」

「嫌いじゃないけど、昔と味が違うような気がしてね。みんな養殖だからかもしれない」

「昔は食べたのか」

「うん、こんなうまいものはないと思っていた。いつ頃からかな、全然うまいと思わなくなった。嗜好が変わったのかもしれない。だけどそれだけじゃないな。やっぱり養殖だからじゃないか」

「それは考えすぎだよ、君」

生ビールのジョッキがきた。

「ところで最近はどんな本を読んでいるんだい」

「君に頼まれた、通り魔関係のノンフィクションを二、三冊ね。ざっと目を通した」

「あいかわらず哲学関係の本も読んでいるんだろう」

「そうね、いま読んでいるのはハイゼンベルグの『部分と全体』だな」

「ハイゼンベルグ?そんな哲学者がいたっけ、理論物理学者で有名な人はいたけど」

「その物理学者のハイゼンベルグさ」

「どうして読んでいるだ」

「例によってふらふらと市中徘徊をしていてさ、ある書店で見つけたんだ。人文コーナーにあったから見つけたんだが、タイトルがなんとなく哲学的だろう。しかしハイゼンベルグというのは僕も名前だけは聞いたことがあった。たしか有名な物理学者でノーベル賞も受賞している。まさかその人じゃないだろうと思って書棚から引っこ抜いてみると、まさにその人なんだね。序文を日本のノーベル物理学賞受賞者である湯川秀樹博士が書いている。そこだけ読むと理論物理学の突き詰めていく先、あるいは発想の出発点と言ってもいいかもしれないが、かならず哲学的なテーゼがあるというんだな。これは僕のフレーズだぜ。湯川博士の正確な文章の引用じゃない。僕の受けた印象だ。僕に言わせれば形而上学的思想というべきだがね。僕の前々からの主張だよ。君も知っているだろう」

「そういえば、大学では科学哲学をやっていたんだな、君は」

「それとね、もう一つ気にいったのはパラパラをページを繰ってみると数式が一行も出ていない。知ってるだろう君も僕が数学が苦手なのは」とTは高校の同級生であった平敷の顔を見た。Tの高校での数学の成績は2であったのである。

 「しかしね、もう一つ購入を躊躇させたポイントがあるんだ」

 平敷は不思議そうにTを見ると生ビールをあおった。

「これはみすず書房の本なんだが値段が4500円なんだ。400ページ足らずの本でね。大体この書店の本は高いけどこの値段には驚いた。本棚の隣にあった別のみすず書房の本は倍以上のボリュームで2500円くらいだ。どうも僕は本を目方で評価する悪い癖があってね。ちょっと高いなとスルーしたんだ。それでその書店を出て市中徘徊を続けたんだが、どうも気にかかってね。さっき話した自然科学とくに原子物理学の根底には形而上学的バイアスがあるという僕の考えを述べた哲学者や物理学者の本というのは見たことがないんだ。とくに数式なしに説明したのはね。本来そのような主張には数式は不要のはずだ。そこで考え直してその書店に戻り買ったわけだよ」

 

 


3-2:K書店にて

2018-08-02 10:12:01 | 妊娠五か月

 TはJR新宿駅で降りると東口を出て会社の退け時の人たちで混雑した中を歩いて近くのK書店に向かった。くたびれたビルに入っている老舗の大書店の横にあるエスカレータで二階に上がる。新刊の文芸書、人文関係の棚を一通り漫然と眺めてから文庫本のコーナーに向かった。立ち読み連中の群れていない岩波文庫の前に来ると、携帯電話を取り出して平敷に電話をかけた。

「いまK書店に着いた。いまどこにいるの」

「ごめんごめん、あと十分ぐらいで着く」

「そうか、文庫本のコーナーあたりにいるか」とTが言うと「わかった」と言って電話を切った。

  彼はいつも書店で待ち合わせをする。喫茶店などを待ち合わせの場所にすると、相手より早く着いたりすると気分が悪い。まして約束の時間より相手が遅れてくるといらいらして不愉快になる。逆に相手を待たしていたりすると気づまりである。喫茶店ならまだいいが、それでもこれから一緒に食事をしようと約束しているときに喫茶店でコーヒーを飲んでしまうと食欲がなくなってしまう。おまけにさっき碁会所でコーヒーを一杯飲んだ後でもある。

 これがレストランだともっと不愉快になる。一人できてウェイトレスにあとから連れが来るからとか言って、四人掛けのテーブルを占領している客がある。一時間もひとりで席を占領している女を時々見かける。大体こういうのは中年の女や老婆が多い。人のことだからどうでもいいようなものだが、見ていても「義憤?」を感じる。自分はそんなことはしたくないと思うのである。

  そこへ行くと書店で待ち合わせるのは周りの客の目を気にしなくてもいいし、待っている間に立ち読みでしていれば退屈せずに時間をつぶせる。文庫本の島をぶらぶらと流して歩いた。それにしてもどうしてこんなに本が多いのだろうといつも彼は疑うのであった。ある文庫で通り魔殺人事件を扱った本が数冊出ているとインターネットで調べていたので、S文庫のあたりを見てみたが陳列はしていないようだった。

  平敷がせかせかと走るようにして近づいてきた。背が低くて小太りの彼は急いできたらしく禿げあがった額に汗をかいている。それをハンカチで拭きながら近づくと「遅れて申し訳ないな」と話しかけた。「なにか資料になるような本があったかい」と聞いた。

「案外ないものだね、四冊ほど見つけたけどノンフィクションで犯罪を扱ったものは偏っているね」

「そうか、とりあえず飯でも食おうか。何かいい。近くのIデパートに行こう」と誘った。

 彼と食事をするときは近くにデパートがあるときにはデパートのレストラン街に行くのである。『腹も身の内というからな』というのが平敷の口癖である。万が一、何かがあった時に小さな食い物屋じゃ対応が不安だからというのである。食中毒やなんかの時にきちんと対応できるのはデパートのレストラン街に出店している店なら一応安心できるという理屈である。『町の店では苦情を言っても、まあこちらが悪質クレーマーであるかのような対応をされるのがおちだからな。そうでなければあまり客の接遇の仕方を教育されていない初心な女の子が恐慌をきたして取り乱し、苦情を言ったこちらが悪いような気にさせられる』というのだ。

「しょっちゅう、そんなことがあるのかい」とTが聞くと「まず無いね。デパートのレストランでは。だから利用するんだが」

おなじ理屈から彼は個人タクシーを利用しない。事故があったときに会社として組織としての対応が期待できないからな、ということらしい。