「月と太陽」の単元で、松尾芭蕉の俳句を紹介した理科の教科書(教育出版6年の申請本)
『文部科学省の検定に合格して2011年春から使われる小学校の教科書には、随所に「伝統文化」や「道徳」の要素が盛り込まれた。いずれも、新しい学習指導要領の中で教育の充実がうたわれたものだ。算数、理科、家庭科……と、教える内容となじみが薄そうな教科まで、あの手この手で記されている。 教育出版の6年理科の教科書では、月の満ち欠けを教えるくだりで、松尾芭蕉の肖像画とともに「明けゆくや 二十七夜も三日の月」の句を載せた。明け方に見える細い月と夕方に見える三日月の写真を俳句の下に載せ、様々な月の形があることを確認させるようにしている。 国語の低学年の教科書では、5社中4社で因幡の白うさぎ、2社でヤマタノオロチの話が登場した。指導要領が、伝統的な言語文化を学ばせる上で「昔話や神話、伝承などの読み聞かせ」を明記したためだ。因幡の白うさぎを載せた社の編集者は「神話を前面に出さず、親しみやすくなるよう工夫した」。ヤマタノオロチを載せた社の編集者は「活劇調だと子どもに受け入れられやすいと思った」と話す。 音楽では雅楽、家庭科では雑煮などの郷土料理……。大日本図書の1年の算数では、数を学ぶ単元で千代紙を使った折り鶴の写真を載せた。最初は普通の折り紙を使っていたが、編集した教科書を読み返して「そういえば全く伝統文化が出てこなかった」と千代紙に差し替えたという。 各教科書には、「道徳」の要素も随所に顔を出す。学校図書は各学年の算数の巻末問題で、指導要領の道徳の部分に出てくるキーワードをちりばめた。正解にたどり着くと2年では「すなおのかぎ」、3年は「せいぎのかぎ」、5年は「友情のかぎ」が手に入り、6年で「希望のかぎ」を手に入れると「未来というすばらしい宝もの」が手に入るという仕立てにしている。 こうした教科書が出てくる背景には、「売れないと困る」という教科書会社側の不安もある。ある社の担当者は「各地の教育委員会がどの教科書を選ぶか決める際『指導要領で強調しているのに、どこに取り入れたのか』と言われると困る」と打ち明ける。その心配から、小さな話題でもとにかく盛り込むよう努めたと言う』2010年4月2日アサヒコム
教育出版の6年理科の教科書では、月の満ち欠けを教えるくだりで、松尾芭蕉の肖像画とともに「明けゆくや 二十七夜も三日の「月」の句を載せたそうですが。松尾芭蕉のこの句の読まれた場所は、『千葉県香取郡小見川町で情報提供者は唐辛子 紋次郎 さん。明け行くや二十七夜も三日の月. 貞享3年の作。 『芭蕉庵小文庫』によると利根川の船中で吟じたものらしい。 碑のあるところも利根川に近い。句意は、川中の船の中からなんとなく見上げると早朝の空にかかる月がまるで宵の三日月のように見えた、という意味に取れます。芭蕉(2)http://fmellow.s103.xrea.com/kahitokuhi/bashou(2).html より引用。』 大正15年、昭和一桁世代のお母さんなら子供の時からつきの満ち欠けと干潮、満潮の事を教えていると思います。『Yahoo!の智恵袋より月の満ち欠けと出産っ<wbr></wbr>て関係あると思います<wbr></wbr>か?予定日17日だけど1<wbr></wbr>3日が満月ら.iiajikagenn
さん 月の満ち欠けと出産っ<wbr></wbr>て関係あると思います<wbr></wbr>か?
予定日17日だけど1<wbr></wbr>3日が満月らしい。(<wbr></wbr>+o+)しかも二人目<wbr></wbr>、
早くなる可能性は高い<wbr></wbr>。満月の日は出産ラッシ<wbr></wbr>ュと聞くとゆっくり産<wbr></wbr>めない気がしてちょっ<wbr></wbr>と恐い。日本の場合満月の一日<wbr></wbr>前と三日後が出産が多<wbr></wbr>いなんて事も聞いたり<wbr></wbr>‥。月の満ち欠け、どうお<wbr></wbr>もいますか?2006/2/12 01:11:13 閲覧数: 6,653 』ベストアンサーに選ばれた回答kobutamama2001さん
あると思います!
人間は体の70%が水<wbr></wbr>分なので月の引力の影<wbr></wbr>響を受けやすい、と聞<wbr></wbr>いたことがあります。<wbr></wbr>うちのおばあちゃんは<wbr></wbr>出産時や誰かが危篤だ<wbr></wbr>という知らせを聞くと<wbr></wbr>必ず新聞の暦で潮を見<wbr></wbr>ます。満ちるときに生<wbr></wbr>まれ、引くときに亡く<wbr></wbr>なることが多いと言っ<wbr></wbr>ていて、これは自分で<wbr></wbr>も実感しています。
出産前に切迫早産で2<wbr></wbr>か月半入院してたので<wbr></wbr>すが、大潮まわりの時<wbr></wbr>はベッドの空きまちが<wbr></wbr>でるくらい出産ラッシ<wbr></wbr>ュでしたよ~。
それ以外は比較的混ん<wbr></wbr>でいないんですけどね<wbr></wbr>。「満月のときは宿直<wbr></wbr>はしたくないわ~」な<wbr></wbr>んて助産師さんも笑い<wbr></wbr>ながら言ってましたよ』日本の家庭では、お母さんから子供への言い伝えや教えが有った思います。手を切って血が止まらな無くなった時今満潮の時だから血が止まりにくいとも無き母に言われました。今のお母さん、賢くては高学歴女性が増えましたが、核家族でおばあちゃんおじいちゃんからの長年の経験に基づいた智恵を教えて貰う機会が少ないのではないでしょうか。教科書に載せなくても道徳教育として学校で教えなくても皆家庭人生経験豊かなおじいちゃん、おばあちゃんから教わり、お母さんも自分お母さんから教わってきたと思います。国語の低学年の教科書では、5社中4社で因幡の白うさぎ、2社でヤマタノオロチの話も皆小さい時から大黒さんとイナバの白兎の話はや家庭でお母さんから教えて貰っている話で伝統的な言語文化と杓子定規に難しく考えないでも私でも知っていることです。肩肘張って教えて貰うことでもないと思いますね。因幡の白兎のお話は『因幡の白兎(いなばのしろうさぎ) [ 日本大百科全書(小学館) ] 神話・伝承に出てくる白兎。因幡国に渡ろうと考えた隠岐(おき)島の兎は、鮫(さめ)をだますことを思い付き、同族の多さを比べようと鮫に呼びかけて、鮫を因幡国の気多崎(けたのさき)まで並ばせた。その上を踏み数えながら渡った白兎は、まさに計画が成功しようとしたとき、「お前たちはだまされたのだ」といったばかりに、最後の鮫に捕らえられて皮をはがれてしまう。このとき兄たちの求婚旅行の袋担ぎとして同行していた大汝神(おおなむちのかみ)(大国主命(おおくにぬしのみこと))が兎に会い、兄たちとは反対に、親切に兎に治療法を教えてやった。それで兎は「あなたこそ求婚に成功なさるでしょう」と予言した。この『古事記』にみえる兎と鮫の話は、狡猾(こうかつ)な動物が魯鈍(ろどん)な動物をだます動物譚(たん)として、ジャワ島やインドネシアに存在している説話などとも関係がある。しかし『古事記』では狡猾な兎が失敗する話につくりかえられており、助けられた兎が、いちばん卑しい大汝神の成功を予言する兎神としての役割を演じている点に注意する必要がある。 [ 執筆者:吉井 巖 ]皆さん方が良く知っている話ですね。
『史蹟めぐり謡曲初心者の方の為のガイド』のホームページwww.harusan1925.netの サイト管理者の高橋春雄様が、史実に基づき御自分で詳しく調査取材されていますので、御本人様から転載許可を頂『謡曲』大蛇 おろちから、「やまたのおろち」のお話を参照させて頂きました。
ストーリー
素戔嗚尊が出雲の国へ下って四方の景色を眺めていると、ある粗末な家の中から激しく泣く声が聞えてきます。
不審に思って訪れると、一人の娘を中に老夫婦がいたく悲しんでいる様子なので訳を問うと、我らは手摩乳(たなづち)・足摩乳(あしなづち)という夫婦で、この娘は我が子の櫛稲田姫であるが、簸の川上に住む八岐大蛇に毎年娘を呑まれ、今また八人目のこの娘が狙われているのだと答えます。
尊はこれを聞き、その大蛇は自分が退治しよう、ついてはその娘を我が妻にすると言い、稲田姫を連れて簸の川上に急ぎます。尊は姫を岸に一人置き、波間に浮く酒舟にその影を映すようにすると、大蛇の来るのを待ちます。やがて大蛇が現れ、姫の姿が酒舟に映っているのを見て、真の姫と思い酒を飲み干して、遂に酔い臥してしまいます。尊はこの時、神剱を抜き放ちて大蛇を斬り伏せ、その尾にあった剱を取り出して叢雲の剱と名付けました。(「宝生の能」平成11年8・9月号より)
出雲神話の解釈 (平13・6記)
この神話に似たような神話は日本の周辺、例えばアイヌ、朝鮮、モンゴル、中国、カンボジア、ボルネオ等にもあるとのこと。共通する要素は「若い女性が蛇や竜によって食われる」ことと、「一人の男子の主人公が、蛇や竜を退治して女性を救い、彼女と結婚する」こと。さらに「主人公が怪物を退治するときは、武器として金属の利器を用いることが多いこと」だそうである(井上光貞「日本の歴史」)。
武器として金属の利器を用いたということは、出雲神話の場合にも適合する。八俣の大蛇が住んでいたという島根県横田町の船通山の山麓一帯は古くから良質の砂鉄の産地であり「たたら製鉄」の炎の燃える「たたらの里」としても知られるし、近くの斐川町にある「荒神谷遺跡」からは昭和59年夏、整然と並べられた銅剣358本、翌年にはそのすぐ近くから銅鐸6個、鉾16本が見つかったというから、古代から金属の武器を使用していたことは充分想像される。
このあたりを流れる斐伊川は、昔からしばしば氾濫する暴れ川だったようで、「頭が八つ、尾が八つ、背中に杉や檜、苔が生い茂り、腹は血にただれた」八俣の大蛇は、砂鉄で真っ赤になった斐伊川の濁流が村々を襲った洪水、そして素戔嗚尊は、この暴れ川の治水に立ち上がった指導者と考えてもよいのではなかろうか。荒神谷遺跡 島根県斐川町 (平9.9) 銅剣、銅鐸等が沢山発見された 。
しかし、別の説もある。
素戔嗚尊が一人で、短時間でそれを成し遂げるのは至難の業である。
「 中国山系は砂鉄を産出するが、とくに山陰側に良い砂鉄が採れた。斐伊川上流には製鉄を生業とするオロチ族、あるいは高志族という部族がいて、彼らは砂鉄を採るために山を削り、かんな流しをする。また、たたらをするために山の木々を切って炭を作った。やがて台風のシーズンが来ます。そうすると、削られ、木を切られたことも要因の一つになって斐伊川が荒れる。そこで、彼らは、川の中州に座敷を設け、川の神である龍神が好む酒を供え、いけにえの娘を捧げることによって神をなだめる儀式をした 」
というものである。
古代には、水源である山に神が住み、春とともに村々に下ってくるという信仰があった。その神が荒々しい神である場合、村人は人身御供(ひとみごくう)をすることによって稲田の実りを祈ったという。
「 素戔嗚尊は、彼らが祭祀するこの風習をやめさせようとした神様でしょう。オロチ族は頑固に抵抗するが、最後には製鉄の技術を素戔嗚尊に譲って降参した。これが大蛇退治の伝承だと考えています 」
歴史家は大蛇退治に様々な解釈を与えている。「斐伊川の氾濫による大災害」、「砂鉄を巡る部族の利権争い」「鉄を略奪するために侵略してきた高志(北陸)の軍隊などなど。(JTBキャンブックス「古事記・日本書紀を歩く」)
島根県内の謡蹟 (平13・6)』
皆この有名なお話は知っていることです。数を学ぶ単元で千代紙を使った折り鶴の写真を載せたと書かれて有りますが。色紙で折鶴を折ったり広告のチラシで紙飛行機を作ったり、子供の日には新聞紙で兜を折って作ったり物が豊かになり、手作りの良さも忘れられてる今の日本ですが、親御さんが子供達に伝える必要が有るのではないでしようか。何でも学校で習い教科書の中で覚えるのではなく日常生活の中で学んで行くことも大切事ではないでしょうか。
※メロウ倶楽部『全国の歌碑・句碑めぐり、芭蕉(2)』、「明けゆくや 二十七夜も三日の「月」の句の」資料はホームページ のサイト管理者様の御許可と御高配を賜りして掲載させて頂いています。