2010年4月10日
『太平洋戦争末期の1945年3月に旧制第四高等学校(金沢大学の前身)を卒業したものの、学徒出陣などで卒業式に出席できなかったOBたちに7日、同大学から卒業証明書が渡された。金沢で同窓会が開かれることを知った大学側の計らいで実現した「65年目の卒業式」に、80代半ばの“元バンカラ”たちは「人生でいちばん輝いていた時代の証し」と感慨にふけっていた。』 アサヒコム
65年目の卒業式長かったですね。同級生太平洋戦争の学徒出陣で戦死され、皆さん御高齢になられたので亡くなられた方も多いのではないでしょうか。今日の日本の平和は、若い人達の血で購われていることと平和の大切さを皆で思いなおす1945(昭和20)年の第四高等学校の卒業生された皆さんの卒業式と思います。これからも健康に留意されて、人生経験豊かな旧制第四高等学校の先輩として頑張って下さい。65年目の卒業式おめでとう御座います。卒業生の皆様方の御健勝と御活躍を心からお祈り申し上げます。
☆学徒出陣(がくとしゅつじん) の資料
[ 日本大百科全書(小学館) ]より引用
太平洋戦争下で行われた徴兵猶予措置の停止に伴う学生・生徒の出陣。1931年(昭和6)の満州事変以来10年余の戦争はおびただしく兵を消耗し、とくに下級指揮官の不足は深刻な問題となり、そのため、すでに軍事教練の課せられていた学生たちに軍の目が向けられた。それまで、勅令に定められた学校(文部省認可の学校)に在学中の者は満26歳まで「徴兵ヲ延期」することができた。これに対し軍は、41年10月以降、修業年限短縮による繰り上げ卒業をもって対応してきたが、43年9月、東条英機(とうじょうひでき)内閣は「国内態勢強化方策」を決め、10月2日、学生の徴兵猶予を全面的に取り消す勅令「在学徴集延期臨時特例」を公布し、さらに同月12日の閣議で、文科系大学、専門学校は移転・統合により整理すること、また理工医系・教員養成学校以外の大学、初等専門学校の満20歳に達した学生・生徒の徴兵を決定した。同年12月1日、第1回の学徒兵の入営(陸軍)、同月10日入団(海軍)が行われた。これに先だつ10月21日、東京・明治神宮外苑(がいえん)陸上競技場で、秋雨降るなか出陣学徒の壮行会が行われた。東条首相は「諸君が悠久の大義に生きる唯一の道」と訓示、学徒代表は、「挺身以(もっ)て頑敵を撃滅せん、生等(せいら)もとより生還を期せず」と誓った。かくして徴兵猶予の特権を奪われ学業なかばで出陣した学徒兵の数は二十数万人と推定される。学徒兵は陸海軍部隊に配属され、短期の訓練を受けて、中国大陸や南方戦線、南太平洋などの前線に送られ、多くの戦死者を出した。彼らの多くは学問研究への情熱と国家的要請との板挟みにあって悩み、また戦争への疑問や日本の国家の将来への不安などを抱きながら、大陸の山野に、南海の果てに若い生命を絶った。なかでも第1回の出陣学徒の大部分は1921年(大正10)から23年ころの生まれで、もっとも多くの戦死者を出した。敗戦後の47年(昭和22)東京大学戦没学生の手記『はるかなる山河に』、49年には、全国の大学の戦没学生の手記『きけわだつみのこえ』が出版され、50年4月、こうした戦争による惨禍と悲劇を繰り返さないため、次の世代に戦争体験を伝える日本戦没学生記念会(通称「わだつみ会」)が結成され、不戦と平和の活動を続けている。
第四高等学校 (旧制)出典:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より一部引用
旧制第四高等学校(きゅうせいだいしこうとうがっこう)は、1887年(明治20年)4月金沢市に設立された官立旧制高等学校。略称は「四高(しこう)」。1886年の帝国大学令により、北海道・沖縄県を除く全国を5区に分割しそれぞれに高等中学校を設置することが定められたが、このうち新潟・富山・石川・福井の北陸4県からなる「第4区」では、金沢に石川県専門学校(その前身は加賀藩の藩校明倫堂および維新後に設立された金沢中学校)を母体とする高等中学校が置かれることとなり、東京の旧制一高、京都の三高に次いで第四高等中学校の設立となった(開校に際し旧藩主前田家が7万8千円を寄附した)。さらに設立のさい金沢医学校を「四高医学部」として併合した。1894年の高等学校令により大学予科(修業年限3年。のち文科・理科よりなる高等科に改称)および医学部を設置したが、後者はのち金沢医学専門学校として分離した(その後金沢医科大学に昇格)。 大正末年のクラス編成は文甲2クラス、文乙1クラス、理甲3クラス、理乙1クラスとなっていた。第二次世界大戦後の学制改革により1950年3月に閉学。閉学時は理科、文科にそれぞれ甲類と乙類を設置していた(ただし、第二次世界大戦中に1学年のみ、文科が1クラスしかない学年があった)。卒業生は約12,000人。新制金沢大学法文学部と理学部の前身となった。
シンボル
校章は四稜の北極星。校風は「超然時習」「至誠自治」。校歌は制定されていたが、式典でも使用されることは全くなく、明治四十年応援歌「南下軍の歌」・啻に血を盛る(高橋武済作詞・簗瀬成一作曲)が歌われた。寮歌は「大正四年南寮寮歌・北の都」(駒井重次作詞・金原祐之助作詞)が知られている。
沿革 明治20年(1887年)4月18日:石川県専門学校を前身として第四高等中学校が設立。同年8月に医学部設置。10月26日開校式。
- 明治22年(1889年)6月30日:本館起工。同年7月8日理化学教場起工。理化学教場は、翌年、本館は翌々年の共に8月31日に竣工。
- 明治26年(1893年)10月:時習寮開設。
- 明治27年(1894年)9月11日:第四高等学校に改称。大学予科・医学部を設置。高等学校令による。
- 明治34年(1901年)4月:医学部を金沢医学専門学校として分離独立。
- 大正4年(1915年)10月:寮歌「北の都」誕生。
- 大正6年(1917年):柔道・剣道・弓道の道場を兼ね備えた無声堂が落成。
- 大正8年(1919年)4月:大学予科を廃止し文科・理科よりなる高等科を設置。前年に公布された新高等学校令による。また、この年制帽の白線を4条から2条に変更。
- 大正9年(1920年)柔道部が全国高専柔道大会で7連覇を達成。
- 大正12年(1923年)4月:第10臨時教員養成所を設置。1931年3月廃止。
- 昭和5年:反帝同盟に対する弾圧事件。20学生が検挙され35名が除名処分。
- 昭和16年(1941年)4月6日:漕艇部の琵琶湖遭難事件。この事件を悼んで、「琵琶湖哀歌」(東海林太郎・小笠原美都子のデュエットでレコード化)が作られた。
- 昭和19年(1944年):石井校長の排斥を企てた粟ヶ崎血盟事件。
- 昭和20年(1945年)11月:石井校長排斥運動。同校長は翌年1月辞任。
- 昭和22年(1947年)10月:昭和天皇の金沢訪問に際し四高生は来校反対を決議、巡幸ルートを変更させる。
- 昭和24年(1949年)5月:新制金沢大学設置により同大学に包括され「金沢大学第四高等学校」と改称。
- 昭和25年(1950年):閉校。
出身の著名人
政治
林銑十郎(内閣総理大臣、陸軍大将)
- 阿部信行(