『 岡山大学の資源生物科学研究所(倉敷市中央2丁目)が1日、「資源植物科学研究所」に改称され、文部科学相が認定する全国の研究者の「共同利用・共同研究拠点」になった。国内外の研究者と連携し、劣悪な環境下でも生育可能な作物の研究などを進める。 同研究所は、1万4千種類の大麦の種子など豊富な植物遺伝資源を保有し、環境ストレスに対する耐性植物の開発などで実績がある。このため今年度から、植物の遺伝資源、ストレス科学の共同研究拠点に認定された。 32人の研究者を、遺伝資源、大気、土壌、病害虫の影響などについて調べる五つのユニットに分け、それぞれ外部の研究者から研究提案を受け付け、共同研究を進める。 同研究所は1914(大正3)年に大原農業研究所として創設され、52(昭和27)年に岡山大へ移管された。』 2010年4月5日
昔から洋の東西を問わず『 人は死して名を残す』と言われていますが。岡山大学の資源生物科学研究所は、大原孫三郎氏によって設立された財団法人大原農業研究所の農学研究の遺産を受け継いだものです。岡山大学、岡山県、日本の農学の学術的研究の基礎を築かれたと思います。地方の国立大学が総合大学を目指し、学部を増やし過ぎただけの複数学部を並べただけの総合大学となってしまいミニ東京大學化し、東京大学との格差を広げてしまったとの批判も有りますが。大原孫三郎氏『 農民の福祉向上に特別の意を用い、広く一般農作業の改良を目指すとともに農学に関する重要課題を科学的に研究するためこの研究所を創設した。』 先見性に基づくものと言えます。『初代所長の近藤万太郎博士は種子学の大家であり、昭和2年に農学賞を受賞しています。以来、現所長まで所員および研究所出身の12人の研究者が農学賞(昭和17年以降は日本農学賞)を受賞しており、農学分野の基礎および応用研究において数多くの優れた実績をあげて来ました。岡山大学 資源生物科学研究所 | 所長挨拶より引用www.rib.okayama-u.ac.jp/2005/html/<wbr></wbr>index-aisatsu.html 』 大原農業研究所の伝統と長年の研究成果を受け継いだ岡山大学の『資源植物科学研究所』が、日本の農作物の資源の研究拠点として高い研究業績を上げこれからの日本の農業生産を担う農作物資源の研究で、世界への発信基地のになる日が近いと思います。
大原農業研究所www.rib.okayama-u.ac.jp/youran97/<wbr></wbr>history/history-j.html
大正3年(1914)、大原孫三郎氏によって設立された財団法人大原農業研究所が本研究所の前身である。大原孫三郎氏は、時の倉敷紡績社長でありながら、同時にたぐい希なる文化人として種々の社会事業に大きな足跡を残した人物であり、なかでも、農民の福祉向上に特別の意を用い、広く一般農作業の改良を目指すとともに農学に関する重要課題を科学的に研究するためこの研究所を創設した。 第二次世界大戦の後、昭和26-27年(1951-1952)に研究所を国に移管する方針が定まり、岡山大学農学部附属大原農業研究所として発足するに至った。さらに、昭和28年(1953)には、大学附置研究所となり、岡山大学農業生物研究所の名称で農学の基礎研究を行うこととなった。 当初は、植物病理学、生物化学、害虫学、作物生理学及び作物遺伝学の5部門であったが、その後微細気象学(昭和35年・1960)、水質学(昭和41年・1966)、雑草学(昭和45年・1970)の3部門ならびに附属施設として大麦系統保存施設(昭和54年・1979)が設置された。 財団法人大原農業研究所から岡山大学農業生物研究所にわたる70有余年の間、本研究所では、生物資源の確保と開発を図るため、種々の角度から研究を進めてきた。このような多面的な活動を統合し、新しい学術上の要求と増大する社会的要請に応えるため、昭和63年(1988)、農業生物研究所を改組し、「資源生物科学研究所」として新しいスタートを切ることとなった。新組織は、遺伝情報発現部門、生物機能解析部門、生物環境反応部門の3大部門(9研究分野)、外国人客員部門(生活環解析部門)及び大麦系統保存施設から成り、資源生物、特に資源植物についてバイオサイエンスの視点から総合的な研究の展開を目指してきた。 その後、21世紀の国際的、社会的な要請に応えるために、平成9年(1997)、大麦系統保存施設と生活環解析部門を廃止、統合し、「大麦・野生植物資源研究センター」を設置した。なお、現在、本研究所は岡山大学大学院農学研究科(修士課程)及び自然科学研究科(博士課程)に参画し、岡山大学における大学院教育の一翼をも担っている。
大原孫三郎
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大原 孫三郎(おおはら まごさぶろう、1880年7月28日 - 1943年1月18日)は日本の実業家。
倉敷紡績、倉敷絹織、倉敷毛織、中国合同銀行(中国銀行の前身)、中国水力電気会社(中国電力の前身)の社長を務め、大原財閥を築き上げる。社会、文化事業にも熱心に取り組み、倉紡中央病院、大原美術館、大原奨農会農業研究所(現・岡山大学資源生物科学研究所)、倉敷労働科学研究所、大原社会問題研究所(現法政大学大原社会問題研究所)、私立倉敷商業補修学校(現岡山県立倉敷商業高等学校)を設立した。倉敷教会(後の日本基督教団倉敷教会)の最初の教会員。
来歴・人物
岡山県倉敷市の大地主で倉敷紡績(クラボウ)を営む大原孝四郎(1833年-1910年)の三男として生まれる。大原家は文久年間村の庄屋をつとめ明治の中頃には所有田畑約800町歩の大地主となった豪家である。二人の兄が相次いで夭折したため、孫三郎が大原家の嗣子となった。1897年(明治30年)東京専門学校(後の早稲田大学)に入学。若年は富豪の跡継ぎとして放蕩生活を送り、専門学校時代も殆ど講義には顔を出さなかった。放蕩の果てに現在の金額で1億円もの借金を抱え、1901年(明治34年)父親より東京専門学校を中退のうえ倉敷に連れ戻され、謹慎処分を受けた。謹慎中に石井十次を知り、その活動に感銘を受けた。孫三郎は社会福祉事業にも興味を示すようになり、後に工員の環境改善や農業改善に取り組んでいる。明治34年、十次の紹介で石井スエ(のち、寿恵子)と結婚。倉敷紡績に入社。工員が初等教育すら受けていないことに驚き、職工教育部を設立。1902年(明治35年)には工場内に尋常小学校を設立した。また、倉敷商業補修学校(現在の倉敷商業高校)を設立し、働きながら学ぶ工員の教育を支援した。学びたくても資金がない地元の子弟のために大原奨学会を開設。後に大原美術館の礎となるコレクションを集めた洋画家・児島虎次郎もこの奨学生となっている。明治38年にはキリスト教の洗礼を受け,同年に「日曜講演」を石井十次の勧めにより開始する。1906年(明治39年)、社員寮内で感染病を出し社員数名を死亡させた責任を取る形で父が辞任したため、倉敷紡績の社長となる。就任と同時に工員の労働環境改善を図った。従来の飯場制度を廃止し、従業員の確保・食事の手当・日用品の販売等を会社が運営するよう改めた。工員の住居も集団寄宿舎から今日のような社宅に近い状態に改め、駐在医師や託児所までの設備も備えており、更には社員勧誘用の映画までも作った。また、幹部社員に大学・専門学校の卒業生を採用した。また、会社の利益のほとんどを日露戦争などで増えた孤児を救うために孤児院を支援。支援金額は現在の金額では数百億円に上ったといわれる。旧来の重役や株主は守旧的や利益主義であり当然これらの改革には反対した。これに対し後に口癖となった「わしの眼は十年先が見える」という言葉で押し切った。1914年(大正3年)に大原奨農会農業研究所(現在の岡山大学資源生物科学研究所の前身)を設立し、農業の改善も図った。また、社会問題の研究機関として1919年(大正8年)2月に大原社会問題研究所(現在の法政大学大原社会問題研究所)を開設。のちにマルクス経済学の研究が中心となり、大原社会問題研究所や孫三郎もまた特別高等警察から警戒された。だが戦後になり復興し、多くの貴重な書籍が発見されたり大原社会問題研究所は多くの政治家などを輩出した。1921年(大正10年)には労働環境改善の研究機関として倉敷労働科学研究所(現在の労働科学研究所)を開設した。1923年(大正12年)倉紡中央病院(現在の倉敷中央病院)を設立し、工員のみならず市民の診療も行った。工場を蒸気による動力から電気動力への転換を図り中国水力電気会社(現在の中国電力)を設立。中国合同銀行(現在の中国銀行)の頭取となり、地元経済界の重鎮となった。さらに1926年(大正15年)には倉敷絹織(現在のクラレ)を設立。1930年(昭和5年)児島虎次郎に収集を依頼した各国の美術品を収蔵する大原美術館開館。1935年(昭和10年)倉敷毛織を設立(後、倉紡に吸収合併)。1939年(昭和14年)長男の大原総一郎に企業体を引き継ぎ引退。1943年(昭和18年)倉敷市の自宅で死去。62歳だった。
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