山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

こころの傷をバネに辺境を渡る

2024-12-20 21:55:00 | 読書

 ひょんなことから、井上光晴『井上光晴詩集』(思潮社、1971.7)を読み始めた。前半は青年らしい正義感あふれる社会への異議申し立ての詩に溢れている。それが後半になると、言葉をこね回し難解になっていく。しかし、魅力は常に底辺に生きる人への共感だった。

  

 井上光晴の詩や小説は、絵描きの父が家にいなかったり、母が家出したりで祖母の手で育ったことがルーツのようだ。幼少期から「嘘つきみっちゃん」と呼ばれていたように、彼が言う生い立ちや経歴は虚構であることが多い。また瀬戸内寂聴と愛人関係にあったことは有名でもあった。寂聴が出家したのもその関係にケリをつけるためということだった。娘の直木賞作家・井上荒野(アレノ)は、父の虚構癖や寂聴と母との親戚のような関係を小説にしている。

  

 その娘の実話小説『あちらにいる鬼』(監督・廣木隆一)が映画化され、光晴が豊川悦司、寂聴が寺島しのぶ、母が広末涼子が演じている。原一男監督のドキュメンタリー映画「全身小説家」にもそうした証言や晩年の光晴のナマの姿を描いている。

 

 本詩集から、「金網の張ってある掲示板に 父の名前は見えなかった 父は何度も爪吉の頭をなでながら がっかりしたように笑っていた --ー爪吉、活動でもみろか ーーーうん、父ちゃん試験に落ちたのか

 たぶん冬だったろう ほこりをたてた風が二人の足もとで 悲しく巻いていた  ーーー心配せんでいいよ、爪吉  落っこちることはハンマー振った時 とうからわかっていた ーーー父ちゃん、力がないからなあ 

 眼に入った爪吉のごみを舌でとりながら 弱々しく父は言った  ーーーうん、父ちゃん、本当に力がないからなあ」 という詩は、ぐっときた。 これは詩というより散文ではないかとさえ思えてしまうが。

 

 本詩集は、やや厚めの紙からなり、約3cmほどの重厚な製本となっている。 表紙やそれをめくるとシュールな円形の造形が次々出てくる。その意味は分からなかったが、著者のやるせない空虚を表現しているように思えた。それは、1970年代の三里塚・沖縄闘争、赤軍派のハイジャック、ウーマンリブ運動、日米安保条約の自動延長、光化学スモッグ発生、三島由紀夫割腹事件、チッソ・イタイイタイ病事件など、高度成長経済の歪みとともに社会不安が増大していく時期と著者の心の表現でもあったのかもしれない。

 

 本書の作品は、現実と虚構にある辺境をあぶりだすものではあるものの、全体としては詩集のもつ情感とか余白とかリズムとかが熟成しないままの印象が残った。ここから、作者は虚構の小説の世界に入っていくところに居場所を見つけたようだ。

 

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「いま」をそのまま受けいれることから始まる

2024-12-18 22:26:07 | 読書

 十数年前に読んでからわが座右の書ともなった本は、英米文学者・加島祥造『求めない』という詩集だった。一人暮らしをしている兄にこの本の贈ったらぴんと来なかったようだったが。翻訳者としても有名だった加島氏はすべてを捨てて山奥に移住する。そうして、「伊那谷の老子」とも言われ、そこで出会った外国人女性と意気投合する。しかし、そのパートナーの死に直面しふさぎこんでいたが、彼女の骨を庭に散骨することでようやくそれを受け容れるようになる。その様子はNHKで ”Alone, but not lonely.として放映された。そうして、続編『受いれる』(小学館、2012.7)も刊行された。

 

 そのあとがきで、「私のいちばん近くにいて絶えず支えてくれた人を失いました。私にはどうすることもできない別離でした」という絶望的状況の中で、「こんな私を彼女が望んでいるわけはない」と思い直してから、「受いれる」という言葉にたどり着いたという。不条理がまかり通る世の現実や経験則から、「受け入れる」という言葉はオラには禁句でもあった。

 

 著者は、「現代に生きる人は 社会の自分にばかり支配されて 心は固くなり 柔らかな命の自分を 受いれることが 難しくなっていく  それがすべての苦しみの 原点だと言えるんだ」と指摘する。だ が、尖ったオラの心はいまだに「伊那谷の仙人」の境地には達していない。日本も世界も殺戮や収奪をやっている権力者・財界やフツーの「善人」が少なくない。そうした現実に対して加島さんのお坊ちゃん体質がぷんぷんしてならなかったのだが。

    

 それでも著者は宣言する。「人は陽を背に負い 陰を胸に抱いて 和に向かって進む」と、老子の言葉を引用する。さまざまな苦難に直面してその結果伊那谷の山奥に「逃避」したくらい、絶望と対峙していた英米文学者は東洋の「老荘」に出会う。そこから、ベストセラーともなる『求めない』の境地に至る。そして、出会った女性を看取って『受いれる』の境地に達する。そこには、本書に出てくる「はじめの自分」が発揮されている。

   

 つまり、そこには社会に出た「次の自分」の蒙昧を脱した少年がいた。どんなに苦難が襲うとも「はじめの自分」を温存していたということだろうか。「はじめの自分に還って 自分は自然の一部、 大きな力につながっている、と思えば はじめの自分は息をふきかえすんだ」と、覚醒する。だから、「天と地につながる目で見ると 歴史上の英雄は みんな 大たわけさ」と喝破する。

 

 なるほど、英雄好みのおじさんの「博識」は絶好の視聴率獲得の餌食にもなる、ってわけさ。「悲しみを受いれるとき 苦しみを受いれるとき <受いれる>ことの ほんとうの価値を知る」ことになる。「すると、運命の流れが変わる」という達観した仙人になれるわけだ。

 いっぽう、今話題ともなっている「政治とカネ」や闇バイト・通り魔殺人事件なんかにもつながっている現実も無視できない。オラも尖ってしまった牙をソフトな入れ歯にするつもりだけどね。

 

 
    

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ハサミがあるかないか

2024-12-16 18:51:41 | 生き物

  わが家庭菜園ではハサミムシによく出会う。野菜のすぐそばにいることが多いので害虫ではないかと思っていた。そのハサミムシがのこのこ家の中にやってきた。そこで捕獲して改めて調べてみると、ハサミムシは「科」ではなく「目」の名前だということを初めて知る。つまり種類がそれほど多いというわけだった。画像の虫は山地性のハサミムシの「コブハサミムシ」のようだった。

 

 コブハサミムシは背中に複雑に折り畳まれた後翅があり、羽化や越冬前の時期に突如飛翔するらしいが、見たことはない。尾の鋏が大きく湾曲するものをオスのアルマン型、長く真っ直ぐに伸びるメスをルイス型という。繁殖を終えるとオスは死んでしまうが、産卵したメスは幼虫になるまで卵を外敵から守り続けるばかりでなく、幼虫に自らの体を食料として提供する。壮絶な子育てである。

 ハサミムシは害虫を食べてくれたり、腐った植物を食べてくれる生態系に寄与する分解者でもあるということだ。見方を変えなくちゃー。

 

 その一週間前に、ハサミムシに似た虫もやってきていた。形から尾っぽにハサミもなかったので「ハネカクシ」ではないかと推定した。世界では6万種はあると言われるほどの膨大な量があり、未同定の種類が未だある。したがってその研究者も少ない。しかし、ハネカクシの翅の収納の最大の特徴は折りたたみパターンが左右非対称の複雑な折りたたみ方ということで人工衛星にも参考にされているらしい。偶然にもコブハサミムシと同じような翅の収納だ。

 

 いっぽう、7~8年前に林の樹皮で見た橙色がある「アオバアリガタハネカクシ」は、「空飛ぶ硫酸」とか「やけど虫」とも言われていて、素手で触るとその体液でやけど症状になる害虫だった。捕獲したハネカクシは「オオハネカクシ」に似ている。危険なハネカクシもいるがこの膨大な量の昆虫に対して、研究によっては人間に貢献する可能性もあるわけで日本の教育研究費を充実するべきだ。無駄な国家予算があまりに多い。

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栄華と陰謀の王朝を生きた女性の凛然

2024-12-14 08:42:02 | 読書

 大河ドラマ「光る君へ」が明日で最終回。ドラマは主演・脚本・制作統括・演出をすべて女性が担当するのは史上初という。その時代考証を担当している倉本一弘氏の『藤原道長の権力と欲望・紫式部の時代』(文春新書、2023.8)をあわてて読み終える。本書を読むと、脚本家の大石静さんがかなりこれを参考にしているのが伝わってくる。(画像の殆どは、山川出版社、「詳説日本史図録」、2008.11から)

  

 道長の日記「御堂関白記」は、ユネスコの「世界の記憶」遺産として2013年6月に登録された。為政者が自ら日記を書くのは世界でも稀であり、千年前の日記が多く残されている日本はきわめて特殊だと著者は指摘する。本書では、道長の「御堂関白記」、優れた官僚の藤原実資(サネスケ)「小右記」、能書家で有名な藤原行成「権記」(ゴンキ)らの日記とともに、道長の人物像を立体的に描いているのが特徴だ。

 

 そうした描写が、道長が単なる独裁者ではなく自己矛盾と対峙したり、一条天皇や三条天皇との確執を耐えたり画策したり、弱点も表した人物像にしている。それがドラマの脚本には大いに参考になったことと推察する。道長と紫式部とが直接出会ったかどうかについては歴史的証拠はまだないようだが、著者は道長の娘・中宮の彰子のために紫式部を採用し、一条天皇の心を取り入れるために「源氏物語」を書かせたとする。というのも、当時の和紙の料紙は民間では入手できない貴重で高価なものだったことから、道長が筆・墨・硯等を含めた執筆依頼・支援なしには書けなかったと推定している。

 (画像は刀剣ワールドwebから)

 また、王朝内での権力闘争や愛憎の絡む政権内での藤原 実資のリアルで冷静な対応をしていた事例が本書で幾度も取り上げられている。道長を一番批判していた実資ではあるものの天皇や女房らの取次役・相談役としても信頼されていたのも実資だった。同時に、政権を担う公卿・政治家は、漢文・和歌・楽器・踊りなどの文化的嗜みも求められていたのも、現代の政治家の金権体質に対する提起ともなっている。

  

 大河ドラマでもそうだったが、次々と登場する藤原一族の名前を覚えるのは一苦労だった。それに、天皇の外戚になろうと画策させられる女性の名前も覚えきれない。視聴率が低かったのも単純な戦国ものとはひと味違うドラマに戸惑いがあったのかもしれない。道長の頂点を極めた政権の座は、自らの心身の不安定さとともにまもなく揺らいでいく。大河ドラマの最後のセリフは式部の「嵐が来るわ」だった。武士の時代がじわじわとやってきていた。

 ついでながら、失意のまひろに、従者で短い台詞しかなかった乙丸(矢部太郎)が、「私を置いていかないでください。どこまでもお供しとうございます」とか、一緒に「都に帰りたーい」と、何度も連呼する初めての自己主要シーンは画期的だった。貴族社会だけの描写ではない配慮に脚本が光る。 

 

 「おわりに」で著者は、「道長は確かに、日本の歴史上、最高度の権力を手に入れた。しかしだからといって、最高度に幸福であったかは、誰も知ることのできないことである」と、結んでいる。息子の頼道は平等院に阿弥陀堂を落成したのはせめてもの権力者の平和的な祈願と信仰の賜物であり、その文化遺産は現代にも燦然と佇立している。

 

 

 

 

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そうだ冬の花を探しに行こう!!

2024-12-11 23:06:18 | 植物

 世の中は暗いニュース満載だ。ノーベル賞をもらった被団協受賞の意味は大きいが、政府がいまだに核廃棄に後ろ向きなのは戦後政治を経済成長神話路線をいまだ払拭できない象徴とも言える。「平和より金」路線が国民の頽廃と劣化を促進してとどまることを知らない日々だ。

 平安貴族の権力者は和歌を産み出す感性が問われた。戦国・室町時代では能・茶道・書道などに精通していることが指導者のステータスだった。江戸になると、庶民が浄瑠璃・歌舞伎・自然崇拝・人情などで自らを鼓舞した。それらが日本文化の基層となってきた。しかしそれが現代では解体過程にある。

 だから、内田樹氏ではないが、あえて身近な花を探そうとわが園内を歩いてみた。意外だったのは、アジサイの「墨田の花火」の花だった。一年中花を見られる優れものだ。夏にも秋にも冬にも花を見せてくれる八重咲きのガクアジサイだが、隅田川の「隅」か、 墨田区の「墨」か混乱がある。「墨」のほうが使用率が高いらしいが、隅田川の花火が有名だから「隅」が正しいのではと思う。

 

 アジサイの木は30本近くはあるが、そのほとんどは挿し木で増やし小さなもので、管理も悪く品種がわからないものが多くなってしまった。さすがにこの数日の霜で葉も花も萎れてしまった。アジサイの葉は毒だと言われているが、シカは食べている。シカの食害の犠牲者となっている。

 

 茶畑を伐根したら凄まじい勢いで芽を出してきたのが「ノリウツギ」だった。今は当初のみずみずしい純白の花は退化しているが桜のように散るのを見たことがない。花の形はほかのアジサイとは違い、円錐形で「ピラミッドアジサイ」とも呼ばれている。開花はほかのアジサイの花が咲き終わった夏頃に咲き始める。

 

 ネットで入手した「シロバナタンポポ」の綿毛を埋めたら、1本だけ花が咲いた。ここ数年そこから白い花を見せてくれる。もっと増やしたいが、遠慮がちな日本在来種である。もともと西日本にしか生育していなかったが、地球温暖化のせいか次第に関東、東北へと勢力を拡大しているという。

 

 ジャングル状態の花壇にもかかわらず、今年もそこそこ花を見せてくれる「カンツバキ」。背の高さも1mくらいにはなってきた。肥料をやっていないのに毎年しっかり花をつけてくれるのに頭が下がる。カンツバキの花は「花弁と雄蕊が合着している」「花びらが多く14枚以上」「しわしわにならない」という特徴があり、山茶花の花は「花びらが少なく5~10枚」「しわができるものが多い」という特徴があり、カンツバキの花は山茶花のようにばらばらに落ちる。

 

 葉が病気になってしまったが、いつもどおり花を見せてくれた「アケボノソウ」。プランターで栽培しているがほぼ放任甚だしい。それでも律儀に毎年花を咲かせてくれる生命力にホッとする。来年には地植えで増やしていきたい。かように、冬でもちらほらと花を見られるのはうれしい限りだ。アケボノソウは2年草で、1年目はオオバコに似た根生葉を広げ、2年目に茎や枝の先に花を多数咲かせる。

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山並み見ながら古民家カフェ

2024-12-09 21:06:16 | 市民活動・まち育て

 昨日は、山並みが素晴らしい市内砂川(いさがわ)にある「風香(ふうか)つきみ亭」を初めて訪れる。昨年11月に開業した古民家カフェである。お昼近くだったせいかお客が10人以上もいて30分ほど待ってしまった。場所はオラがいつも気に入っている一等地にあるビューポイントだった。カフェの裏側は、数百年にもなる風格ある「カゴノキ」が鎮座し、その隣に公民館・元寺院が控えている。もちろん、目の前はこの地区で一番風光明媚な高台にある。雨上がりの山並みの雲海にははたと見とれてしまう。

 

 急峻な斜面には端正な茶畑が山並みと競うように緑の模様を形成する。しかも、この茶畑は先験的な「有機 JAS認定農地」となっている。そうした魂は、若い入植者を呼びおこし市内の静かなムーブメントともなっている。その雄大な自然背景とみずみずしい人間のネットワークは、荒廃し無気力になっている日本や地域の資源ともいうべきものだ。「カフェ風香」はそんな息吹に囲まれているわけで、ぜひ成功させたい交流スペースだ。

 

 「風香」の正面は、お店というより民家そのものだった。休みは水・木曜日、営業時間は8時~18時まで。オラはお弁当を注文した。残念ながらその撮影を忘れてしまったが、幕の内弁当のようなデザインでとくに地元野菜を使った混ぜご飯は味のコクが沁みてうまかった。冬でなければ、山の景観を楽しみながら外でお弁当をほおばるのが最高に違いない。

 

 店の中は、テーブル・イスもあり、座卓もある。天井は手を伸ばせば触れる高さにあった。きっと、高台にあるので風よけのために天井を低くしてあるのかもしれない。天井の仕様はわが家のボロ家と同じだった。所々に、陶器や置物があり、ゆったりくつろげるように工夫されていた。

 

 奥には、見事な和ダンスが鎮座していた。欅の模様だろうか日本らしい木目模様が生かされている。また、タンスの隅金具も手が込んだ職人技が光る。周りの障子やガラス格子戸も昭和レトロを感じさせるインテリアとなっていた。築100年を越す古民家はここで育った若い柔軟な発想を持つ女性の手で見事に改装・復活していた。コンサートも主催していたり、新聞にも紹介されたようで今のところ客足は順調のようだ。 

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絶望のなかで自分がやれること

2024-12-07 17:10:12 | 読書

 前々から読みたいと思っていた武道家で思想家の内田樹の「街場…」シリーズ。『街場の共同体論』(潮出版社、2017.1)をやっと読み終える。創価学会系の雑誌『潮』に連載してきたものを単行本にまとめたものが本書である。目次を見ると、家族論、格差社会、学校教育、コミニケーション能力、師弟論などで、共同体という言葉が見当たらない。ムラ社会に生きていると共同体とのかかわりは無視できない。内田氏の生きている世界は都会中心であるのがやや気になる。

  

 ムラで生活していると、水源地・生活道路・草刈りなどの整備や神社・祭り・防災訓練の行事がらみの共同作業が少なくない。水源地の泥の除去や林道の枯れ枝・土砂の撤去や水道のメーター点検などは、グループの当番制で三カ月に一回廻って来る。その意味では、群馬県上野村にも居住している哲学者・内山節氏の本のほうがムラの様子がリアルに出てきて身近な感じがする。とはいえ、二人とも易しい言葉で活字化しているので哲学に縁遠いオラたちにとって入り口は入りやすい。

  

 さて、本書では内山氏が自分の意見を断言する過激な物言いに引っかかる人もいるかとも思えたが、「まえがき」に「当たり前のこと」を言っているだけだと強調する。続けて著者は、政治家・エコノミスト・メディアらの指導者や大衆の幼児化が甚だしく、経済成長がすべてという呪縛から解放されないまま、国土や国民の荒廃が進行してしまったと指摘する。「そのような集団的な思考停止状態に現代日本人は置かれ」、「この深い絶望感が本書の基調低音をかたちづくって」いるとしている。

  

 オラも、専門家にとっては厳密な表現はあるだろうが内山氏のそのくらいの断言は容認できると思えた。そして、阪神大震災を体験した著者は、「絶望的な状態に置かれたときには、まず足元の瓦礫を拾い上げることから始める」、そうした当たり前の行為が「自分にできること」だったという。そこに、絶望状態から自分を救う第一歩があるというところに著者の真骨頂がある気がする。

  

 共同体論については、「現代日本における共同体の危機は、いきなり天から襲来した災厄ではなく、何十年もかけて、僕たち日本人が自らの手で仕込んだ」「国民の営々たる努力の<成果>」であり、その「仕組みが破綻し始めた以上、それを補正するための努力にも同じくらいの時間がかかると覚悟したほうがいい」と結ぶ。

  

 この著者の終末観というか、絶望感はよくわかる気がする。オラもいろいろ地域づくりなどの活動もしてきたが、その壁の厚さに絶望的にもなったが、最近は自分が終末高齢者になって体や大脳のあちこちが齟齬することが増えたこともあり、「今自分ができることをする」ことをベースに日々を迎えてきた。姜尚中の言う、自分の中の「根拠地」を構築していく大切さを実感している。その意味で、著者の「初めの一歩」に大いに共感してやまないことしきりだ。

 

 

 

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ハチのようなハエと侵入者の足跡

2024-12-04 22:46:26 | 生き物

 外に出ようと玄関の引き戸を開けようとしたら、見慣れないハチのようなものが外に出たいようでもがいていた。引き戸を開けて迂回路にしたが逃げようともしない。一途な性格だ。ハチの多くはよくあるタイプだ。2cmくらいのベッコウ色の翅がきれいだったので、とりあえず捕獲してみる。調べてみたら、「ベッコウバエ」(ベッコウバエ科)だった。翅には5個の丸い紋があり、背中には3対の黒っぽい縦条線があった。

  

 すでに弱っていたようだが、容器の中では仰向けになって暴れていたが元に戻れなくなっていた。腹部が黒いのはメスのようだ。ベッコウバエの餌は、樹液・糞・キノコだという。そう言えば、昨日わが家のバイオトイレの糞尿を取り出し畑の隅に埋めたばかりだ。春や夏にこれをやると、作業して数分でハエが大挙してやってくる。ハエの嗅覚の速さにいつも感心する。昨日はさすがに1匹も来なかった。ひょっとすると、その近くにいたのかもと類推する。

  

 その足で、畑に向かうとその近くに怪しい足跡があった。間違いなく、動物のものだ。これはどうも蹄のかたちなので、シカかイノシシに違いないと当局に報告する。すると、どうやらシカのようだという鑑識の頼りない回答があった。いつもだとシカの食害にやられてしまうが、もう畑にはシカが食べられる野菜や樹の葉はない。足跡から右往左往するシカの動きが見て取れる。最近、イノシシがおとなしくなったものの、今度はシカの出番かとため息をつく。

 それ以上に、人間界の罪はエンドレスだ。闇バイトにしても詐欺にしてもつまらん行為にうんざりだ。武道家で思想家の内田樹は、そうした現象群は日本人が「幼児化」している「結果だ」と明快な評決を下す。そうした結果を産み出してきた「集団的な思考停止状態」に絶望的だが、それに対して自分は何ができるかを卑近な例で提起している。それらを考えると、害獣諸君の狼藉はかわいいもんだ。それも人間が生みだした結果だもんな。

 

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紫式部じゃないよ白式部かな !?

2024-12-02 22:25:27 | 植物

   林縁を歩いていると紫の実に出会うことがある。紫色は古代から上品な色であり貴族の上位の色でもある。自然が生み出した紫色はとても少ない。だから、派手ではない「ムラサキシキブ」の実に出会うとうれしくなる。しかも、葉がビロード状の「ヤブムラサキ」の葉を確認すると声をあげてしまう。どちらも実はさほど多くない。そんなとき、わがバタフライガーデンで白い実の「式部」を発見する。

  

 市販でよく見る園芸種の「コムラサキ」の実の多さは圧巻である。茶畑の茶木を伐根した跡には40本ほどのコムラサキがニョキニョキ出てきたのでずいぶん慌てたものだ。今でもわがガーデンの帝王として君臨しているので、他の場所へ徐々に移植したり、寄贈したりしている。そこに、白実が加わるとは心強いバリエーションになる。

 

 しかし、いつ植えたのか、自然にそうなったのか、残念ながら覚えていない。感覚としては突然発見したという驚異だった。でも、環境的には実生から芽が出てきたとは考えにくい。だもんで、後期高齢者の記憶力減退のなせる症状だと推測するのが妥当だと観念した。「シロシキブ」という品種はあるらしいが、ムラサキシキブ系だそうだ。したがってこれは、コムラサキ系の「シロミノコムラサキ」という園芸種のようだ。来年になったら、挿し木して増やすことでコムラサキと共演していくようにしたい。

 

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景清と宮宿との結縁

2024-11-29 22:15:51 | アート・文化

 歌舞伎十八番の「景清」が東海道53次の「宮宿」にいた。宮宿と言えば名古屋の熱田神宮の門前町・港町にある。伊勢参りへの旅人もにぎわう東海道の中心的宿場町でもある。原画の広重の浮世絵には、「御馬塔(オマント)]という作物の出来を占う競走馬をはやす半纏チームが描かれ、近隣の町村が馬を奉納する「馬追祭」神事が中央に配置されている。裸馬に菰を被せてはやし立てている庶民の顔が緩んでいる。画面の天地には墨色が塗られ、火を焚いている様子も描かれているのでこれは夜の時間軸であることがわかった。また、右の鳥居は熱田神社のある現在地を暗示している。(画像は東京伝統木版画協働組合webから)

  

 三代目豊国は広重の錦絵を背景に援用して、源平合戦で源氏を苦しめた勇猛な武将・平景清を登場させている。景清は歌舞伎・人形浄瑠璃・能・落語などの主人公としてヒットする。それは「景清物」と言われる地位さえ確立している。実在した歴史的人物だが、ときの権力にストレスを感じていた庶民にとっては反権力のダークヒーローともなり、日本の各地に広範囲に伝説となっている。

  (歌舞伎事典webから)

 さて、景清と宮宿とのかかわりだ。壇ノ浦の戦いで敗れた景清は熱田神宮に隠れ、神社の姫と結ばれる。しかし、頼朝殺害を企み、秘密の宝を知る罪人として捕縛され牢に閉じ込められてしまう。その牢の目の前で妻と娘が過酷な折檻をされてしまう。それを我慢していた景清はついに牢を破戒して妻子の解放を遂げる、という歌舞伎の真骨頂「荒事」が仕組まれる。

  

 この豊国の役者絵は、八代目市川團十郎(1823-1854)を描いている。八代目は、粋で色気もあり、上品であるところから絶大な人気があったが、32歳の若さで原因不明の自殺をしてしまう。先代の名優「七代目」が生涯で5人の妻がいたり、子どもが12人もいるなど、その奢侈な暮らしに天保の改革の影響で自宅が壊され、江戸追放となるなど波乱万丈の生涯を送った。そのため、若くして突然「八代目」になった團十郎は、筋を貫徹する性格のためか家庭でも孤立し、そうした環境に適応できなかったのかもしれない。

 そんな背景を踏まえたのか、景清の「隈取」は、上半分が紅色の筋で激しい怒りを表し、下半分が藍色でやつれた悲壮な心境を表している。景清と八代目をダブらせているのかもしれない。

 

 この豊国の「役者見立て東海道」の役者絵を最初に見たときに、右上の景清と書いた表題が神社の扁額だとは気が付かなかった。よく見るとその後方に鳥居もあるのを後でわかった。浮世絵が仕掛けられた謎解き絵でもあるのを実感する。

   

 版元は幕末の「井筒屋」庄吉。彫師は天才と言われた「小泉巳之吉」(1833,天保4~1906,明治39) の「彫巳の」プロである。とくに髪の毛の細さは筆で描いたような繊細さで世界を驚異させた。このさりげない所の上に、二つの印がある。それは名主2名の検閲印だとわかった。ひとりは「浜弥兵衛」であるのは解明できたが、その隣が解読できなかった。おそらく、「村松源六」ではないかと推察する。

  (丸印の中に干支と数字の月)

 これらの印からこの錦絵がいつごろのものかがある程度特定できるという。つまり、「極」印を使った時代(1791-1815)、名主の「単印」の時代(1843-47)、名主印が二つの時代(1847-52)、名主印2個と「年月印」の3個の時代(1852-53)、「改」印と「年月印」の時代(1853-57)、「年月印」ひとつの時代(1858)、一つの円の中に「十二支・数字・改文字」がある時代(1859-71)、十二支と数字による年月印のみ(1859-71)、という8期に分れる(吉田漱氏による分類)

 本錦絵は、「子五」つまり「子(ネ)」の年の5月に許可されたもの。それに名主印2個の計3個の印がある時代ということで、嘉永5年(1852)~嘉永6年(1853)の間に発行され、嘉永5年5月に発行されたのがわかる。浮世絵にはこうした謎解きが満載しているから面白い。

 

 

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ウクライナの慟哭を弾奏する

2024-11-27 16:50:54 | 市民活動・まち育て

 一時消滅しかけた集落が復活した。以前、ひと気のないそこの集落に行ったことがあるが、空き家だらけの荒廃しかけた無念が漂っていた。そこへ、街から前田さんらがここ過疎の地へ移住してきたのだった。公民館のような立派な集会場がリフォームされた。そこで、ウクライナ出身のロマン・フェディウルコさんのピアノ演奏会を開催するというのだ。

  

 ところで、「浜松国際ピアノコンクール」が浜松市制80周年を記念して1991年に開催され、3年に一度行われる若手ピアニストの登竜門ともいえる高水準の国際コンクールだ。今年は47か国638人が応募し、ロマンさんも2次予選進出の24人の中に入ったが、3次予選には進出できなかった。本選では6人が入賞し、鈴木愛美さんが日本人として初めて優勝した。

 

 山を切り開いたような場所での会場はやや寒く、ロマンさんはコートを着ての演奏だった。ロシアによるウクライナ侵攻があったとき、ロマンさんはオーストリアに音楽留学生として滞在していたので、直接の被害はなかったようだ。現在は20歳の若さ。端正な落ち着きは逆に祖国の悲壮な現実をしっかり内実化しているようだった。

 

 演奏は、バッハ・シューマン・ラフマニノフらの楽曲だったが、オラのクラシック音痴にとっては知らないメロディーばかりだった。しかし、内容は起伏の激しさもある演奏で、聴いていて祖国への不安と慟哭とがからんだものだったように思えた。その演奏には聴衆に媚びず自らの思いを真っ直ぐ貫く戦士の姿だったように思えてならない。

 

 聴衆の多くは近隣から来た地元の人ばかりだったように思う。クラシック音楽とは程遠い面々ではあるようだが、こうしたイベントに短期間で駆けつけた有為の人々でもある。聴衆は約50人ほどにはなっていたと思われる。それは驚異的な数字だ。というのも、この場所は知られていないし、しばらく人の出入りがなかったし、何よりも前田さんらが移住して間もないからでもある。人間に出会うのも少ない過疎地でクラシック音楽を開催するという前田さんの「冒険」にたまげる。

 

 ということは、こうしたイベントを待っている住民が少なくないということでもある。住民がどんどん少なくなっている過疎地において、機会があればこうした場を求めているともいえる。オーナーの前田さんは「勢いで主催してしまった」と言われるが、その勢いのパトスの伏流水の激しさがわかる。問題はそれをフォローするスタッフの確保だ。さすれば、ここの集会場が地域の交流拠点として実っていくのに違いない。オラもできうる範囲でのささやかなフォローを捧げたい。今回は、いただいてきた篭いっぱいのユズや挿し木で育てた苗木約10本・レモングラス等をプレゼントした。

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ウィルスか「虫えい」か赤い実の謎

2024-11-26 19:10:03 | 植物

 

パソコンの不具合で四苦八苦していたときだった。解決方法があまたありやっとやっとたどり着いてブログ更新に着手できた。M社の独占的優位に忠犬の日本はどうかしているぜ、といつも痛憤するばかり。まったくー、わかりやすくしてくれー。

 玄関近くの道に落ちていた赤い実。今まで見たことのない実だった。一見、ヤマボウシの赤い実に似ているので食べられるかもと期待したが、見るからに病気のような奇妙な形だった。虫の住み家でもなかった。

  (画像は京都九条山自然観察日記webから)

 調べてみたら、「サネカズラ」(マツブサ科)であることが分かった。実はブドウを丸くしたような集合果で、赤くない小さな実は受粉できなかっためしべのようだ。この集合果なら見たことはある。つる植物の割には相手に絡まりつく貪欲さはなく控えめだ。だけど、しっかり生きている。

   (画像はhimekyonの部屋webから)

 そのためか、古来から和歌で登場する。百人一首にも「なにしおはば あふさかやまのさねかずら ひとにしられでしるよしもがな」(藤原定方)という恋心を詠った名句がある。紫式部の曽祖父が右大臣の藤原定方だった。左大臣が今でいう総理大臣なので、右大臣は官房長官という地位かな。『万葉集』では藤原鎌足や柿本人麻呂もサネカズラを詠っている。昔の政治家は、文学の素養がなければなれなかったのに、今の政治家はなんとも「さもしい」限りの狭量であることよ。

 さて、サネカズラは、茎の皮をむき水に浸すとどろどろの液体ができ、それが男性のほつれた髪を直す整髪料にもなった。そこから「ビナンカズラ(美男葛)」の別名も誕生する。また、この液を塗ってヒビやアカギレも直したという。生垣でよく見られたが、わが家では鳥が運んできたのかジャングル形成の藪状態に貢献している!?

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先日の「死んだ男が残したものは」!!

2024-11-22 19:24:44 | 意見・所感

   先週の13日、詩人の谷川俊太郎(1931-2024/92歳)が永眠した。谷川俊太郎の詩はオラの青春とともに伴走してくれていた気がしてならない。ちょうど、アメリカのベトナム侵略の時期だった。今のイスラエルと同じことをアメリカがベトナムでジェノサイドをしていたわけだ。そんなとき、フォーク歌手の高石友也の「死んだ男が残したものは」の歌がグサッとオラの心に刺さってきた。(画像は音楽ナタリーwebから)

  (画像はオークフリーwebから)

 「死んだ男の残したものは ひとりの妻とひとりの子ども 他には何も残さなかった 墓石ひとつ残さなかった」という歌詞がフォークギターとともに静かに始まる。「死んだ兵士の残したものは こわれた銃とゆがんだ地球 他には何も残さなかった 平和ひとつ残せなかった」「死んだ歴史の残したものは 輝く今日とまた来る明日 他には何も残っていない 他には何も残っていない」と結ぶ。

  (画像はyoutubeから)

 そして、森山良子が叙情豊かに歌い上げると涙が出そうになった。作詞は谷川俊太郎だった。なんて見事な世界を切り取ったことだろうと、つくづく感心した。それが谷川俊太郎との出会いだったと思う。この歌は、アメリカがベトナムの北爆を始めた「力の戦争」に対し、翌年の1965年、「ベトナムの平和を願う市民の会」からの要請を受けて谷川俊太郎が作詞し、作曲を武満徹が担当した名曲だった。

 

 その後、オラは結婚し子どもができたらさっそく谷川俊太郎の翻訳絵本の『スイミー』(レオ・レオニ)を何度も読み聞かせたものだった。そして、彼の詩の的確なセンスや切り取り方の深さに傾倒し、彼の詩集を何冊か読んだのだった。今の時代こそ、この「死んだ男の残したものは」の詩を繰り返せなければならないと痛感する。森山良子さん、平和ボケの某CMになんか突出しないでこの歌を強く推奨してもらいたい。それはマスメディアの怠慢ともいうべきだ。

  先週に「死んだ男の残したものは」、人間や自然や地球に対する賛歌であり怒りであり哀しみであり希望でもあった。 

 

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桃栗3年柿8年ゆずの大馬鹿18年 !?

2024-11-20 23:17:02 | 野菜・果樹

   近所から声がかかり、ユズとカボスの収穫に行く。近所の裏山の斜面には柑橘類の果樹が並んでいて、ここ数年丸抱えでわが家がその果実をいただいている。というのも、酸味が強い果実の消費は普通では結構持て余してしまう。さいわい、わが家の野菜ジュースには酢や梅肉エキスを入れて柑橘類をほぼ毎日数個使っているから、年間にするとかなりの消費量となる。ニンジンの葉をはじめ訳あり野菜も活躍しているので野菜ロスはかなり少ない。

 最初は箱ザル3ケースの花ユズを収穫したが、「もっと持っていきなよ」と言われて、次の日同じくらいを収穫。その分は知人におすそ分けする。

 

 いただいた大量のユズやカボスは冷凍にしてわが家で穫れる野菜やブルーベリーやキウイをブレンドしてシコシコのどを潤して健康を保っている。上の画像は、左から花ユズ・本ユズ・獅子(鬼)ユズの大きさ比較だ。本ユズは「ユズの大馬鹿18年」というくらい、実ができるまでには時間がかかる。しかもとげが鋭く痛い。(画像は望月農園webから)

 しかし、花ユズは「一才ユズ」と言われるくらい数年でたわわな実が採れるし、果汁も多いので鍋料理などに重宝する。わが家では、皮を刻んで冷凍にもするので一年中薬味は欠かさないし、果汁はポン酢にも活用できる。

  (画像はedit oitaから)

 上の画像は左から、カボス・ユズ・スダチ。果実の大きさ・果肉の色・種の数が比較できる。カボス生産量は大分県が全国の95%を占めるほどの圧倒的なパワー。ユズの生産量は四国が全国の80%でそのうち高知県が54%のシェア、木頭村ユズが有名だ。

 

 近所のカボス(香母酢)を収穫してたら、「全部採っていって下さい」との張り紙の伝言があったのでお言葉に甘えてすべていただく。画像にある数のおよそ倍をいただくことになった。

 大分には樹齢2~300年もある古木のカボスがいくつかあり、古くから栽培されてきたことがわかる。さらにオラが注目してきた大分県村一品運動」の中でも、かぼすはその旗手としての役割を果たすようになったのは自然の成り行きだった。和宮様には毎年のように大分カボスが献上されている。見ず知らずだった近隣とのありがたいつながりが生きる希望に弾みをつける。

 

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落花生はほぼ全滅だったのに!?

2024-11-18 21:39:18 | 農作業・野菜

  植えるのが遅かったのでやっと収穫に乗り出したのが、落花生の二つの畝。しかし、よく見るとその根元に落花生の殻が散乱している。不吉な予感がよぎる。あわてて、収穫してみるが肝心の生さやが見あたらない。それになんと、畝に野球ボール分の地下道がまっすぐ通っているではないか。

  

 残っているのは未熟な子房柄の鞘ばかり。ひと月前の試掘では順調に育っていたのを確認したのに、がっかりだー。あきらめきれずネズ公の見逃した落花生探しを始める。以前はカバーをしていなかったので、アナグマに荒らされこれも見事に全滅だった。それから今回、カバーで覆ったものの今度は地下から侵入とは想定外。

 

 とりあえず、ネズミ様のおこぼれをいただくことにする。すぐにと茹でてみたがやっぱり食べるところが少ないか、食べられない状態。トホホ、落花生を割って南京豆を取り出す喜びが体験できなーい。 次回は唐辛子を撒いてネズ公を退散させるっきゃない!! ネズ公も体重の25%の食料を確保しないと生きていけないそうなので必死だ。だから、ネズ公もモグラのトンネルを仁義無用で利用しているらしい。モグさんにはメリットがあるのだろうか。

  

 無農薬菜園をやるわが家なのでミミズも多く、モグラも健在だ。そんなおり、知り合いから和宮様に献上された大量の落花生を偶然にも入手することができた。この品種は「おおまさり」と言って、茹で豆用落花生として作られたジャンボ落花生だ。待ってましたとばかり、鍋いっぱいの茹でた「おおまさり」に食らいつく。食べだすとエンドレスになるので途中から食べる量をセーブする。

 困っているとき、救ってくれる人が身近にいることが心強い。このところ、そうした近隣からのいただきものや献上品などが食卓を豊かにしてくれる。それは和宮様が周りの人々に余った野菜や手作り加工品などをときおり差し上げているのが程よい流通網になっているのは間違いない。ありがたい!! 深謝!!

 

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