山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

都市は誰のものか・バンクシーのテロ

2024-04-26 22:49:37 | 読書

 バンクシーのストリートアートは断片的なニュースしか知らなかった。そんなとき、宝島社発刊の『バンクシーの正体 who is BANKSY』(毛利嘉孝監修/2021.7)には、その内容といい、視点といい、貴重な画像の豊富さといい幾度も感心させられた。

 バンクシーは、奴隷貿易で栄えたイギリスのブリストルで生まれたという。それは同時に、人種差別に抗する反骨精神も醸成されていく歴史でもあったようだ。(画像はすべて本書から)

 

 2018年、ロンドンで開催されたオークションでバンクシーの「風船と少女」が1億5千万円で落札されたと同時に、シュレッダーにかけられた事件が一大ニュースとなった。その後、本作品は25億円ともなった。

 それは、現在の金持ち好事家のオークション方式に対するバンクシーの挑戦だった。そこには、ストリートアーティストからすれば、アートを判断・批評することの裏側の権威や権力に対する差別への強い反発がある。しかし、それ以上に運営する側はもっとしたたかだった。

   

 バンクシーの代表作の「風船と少女」は、ロンドンにある橋への階段横に描かれたが、其の隣には「there is always hope」(いつだって希望はある)と、落書きされた。このステンシルによる絵は、ロンドン市内にいくつか描かれたがすべて消されて現存していないという。しかし、この絵に込められたモチーフはいまだ変わっていない。

  

 やがて、彼等はパレスチナ・シリア・イラクなどの政治的な問題や環境問題へとグローバルな問題意識へと広げていく。本書監修者の毛利氏は、バンクシーは一人ではなく「チーム・バンクシー」として無名のアーチストやスタッフがかかわっていると断言している。それは、政治的問題ばかりではなく、資本主義そのもののあり方を暴露したアートテロでもある。

  

 ベトナムでナパーム弾で村を焼き尽くされた少女をいざなうのは、某テーマパークのミッキーと某外食産業のドナルド。「幸せの国」にはバーチャルな錯覚を洗脳する見事なシステムがある。その象徴がこの二人だ。これほど現実を錯覚させるバーチャルなアートに会ったことはかつてない。それはアート界のビートルズに匹敵する。

 以前、一週間に1回は浦安に行っているという主婦もいてびっくりしたことがある。オラはそこへ全く行く気がしないのはその商業主義の徹底ぶりと幻想を振りまいて現実を隠ぺいしてしまうカルトを感じてしまうからだ。

  

 目の前に迫る壁を越えるには希望という風船が必要だ。しかし、壁を越えた先は人殺しの武器と「お金」・貧困という魔物が待っているのも事実だ。

 「土地は本来誰のものでもない公共の場」だったのが、資本主義という妖怪が登場するとすべてが誰かの所有物となり、居場所も表現の場もなくなってしまう。都市は、資本のあるものだけが巨大看板を設置し、グローバルな情報を流す装置となり、所有権のない者は監視カメラの対象とされる。

 

 そんなリアルを告発しているのがバンクシーなのだが、マスメディアは太鼓持ち番組やうわべだけの断片的なニュースしか流さない。だから、バンクシーは法の裏をくぐるしかないというわけだ。それは、相手の鉄砲に対し石で反撃するパレスチナ人の行動に似ているが、そのアートは石ではなく花束だった。

 そうした意図を見抜いて出版編集されたのが本書の神髄でもある。日本は世界は、バンクシーがストリートで提起したものを受け止められるだろうか。

 

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江戸より続いた平安王朝、その復権!?

2024-03-08 21:42:13 | 読書

 戦国時代で視聴率を忖度してきた従来の大河ドラマに対して、今回の.大河ドラマ「光る君へ」の平安王朝を対峙させた意味が大きい。それを提起していたのが、関幸彦『藤原道長と紫式部 / 貴族道と女房の平安王朝』(朝日新聞出版、2023.12)の新書本だった。最初にページをめくった冒頭に、著者は「<王朝時代の復権>。本書の目的はズバリこれに尽きる」とまえがきに投げかけた。

 

 まさに衝撃的だった。従来の大河ドラマの基本は男性中心社会そのものを描くことだった。いわば、日本の戦うサラリーマン戦士の栄養ドリンク剤でもあった。大河ドラマが放映されるたびに、「また戦国・幕末かよ。たまには、信長・秀吉・家康を抜きにして光が当たらなかった逸材を掘り起こせよ」とオラは毎回のようにほざいていた。もちろん、命がけの戦国武将らの生きざまはそれなりに人間の生き方の波乱万丈を示す手引書であったことは否めないが。

 

 そんな中、「道長と紫式部」を対等に描いていくというところが象徴で、そこに脚本家・大石静の戦略がある。当時の女性の本名は無いと言っても過言でない。紫式部も清少納言も本名は不明だし、『更級日記』の作者は菅原孝標の女(ムスメ)、『蜻蛉日記』の作者は藤原道綱の母という具合。

 また、独裁者のイメージが強い道長の実像は文武両道に優れ、紫式部を支援し自分も和歌をたしなむ文人の面が見落とされていた。自分の娘を天皇の后にしていき、摂政・関白として天皇を「操る」戦略も見え見えだとしても、女性たちのパワーはそうそう負けてはいない面もうかがえる。今回のドラマはそんなところに光を当てている。

  

 日本は中華思想の影響を受けてそれをグローバルスタンダードとして真似てきたが、国の内外の矛盾は王朝時代を現実的なローカルシステムへと移行させていく。そこに、女流文化というものが従来にはないアイテムとして花開いていく。その条件には、天皇や藤原氏の攻防が錯綜していき、女性たちの存在感が文学という形で時代を動かしていく。

 なにしろ、徳川300年の歴史を大きく上回る400年ほどの平安文化の存続の秘密を探りたいものだ。それが日本文化の基底となっていくのだから。

   

 著者によれば、平安時代は中華権威主義文明からの離脱にあると言う。それは、漢字表記から仮名字表記への革命であり、そこに女性の果たした役割も大きい。同時に、天皇の名前も「天」とか「文」とか「武」とかの中華皇帝表記のまねではなく独自性を発揮したことでもあり、天皇は政治の中心ではなく象徴・文化のシンボルとなり政治は貴族官僚の請負とすることで、逆に世界でも珍しい天皇制の永続を獲得して今日に至る。

 

 道長・式部という対照的な立場を題材にして、日本的に熟成しつつある王朝国家の本質を俯瞰した本書の鋭さが小気味いい。

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「犬神博士」の破天荒な回想奇談

2024-02-16 22:05:29 | 読書

 昭和6年(1931年)に「福岡日々新聞」に連載されたという夢野久作『犬神博士』(角川文庫、1974.7)を読む。ときあたかも、満州事変が始まり軍部の中国侵略が本格化していく背景での執筆だった。表紙のイラストは俳優の米倉斉加年(マサカネ)。本書を読み進んでいくうちに、この表紙の人物は犬神博士だったんだろう、米倉の感性の鋭さに脱帽する。この眼の鋭さは本書の主人公の人間や社会を見る心眼そのもののように思えた。

    

 残念ながら、新聞社の都合で連載は未完で終わったようだが、連載が続いたならば長編の代表作にもなったに違いない。冒頭は、博士の少年時代の哀しくもまた痛快回想録というところからスタートする。本当の親かどうかわからないいかさま旅芸人のもとで赤貧の暮らしと虐待体験を受けながら少年は各地を放浪する。そこでこれでもかと追い詰められた数々の事件を、「異形異端」の少年は超能力で難局を乗り越えていく物語だ。

     

 軍靴が跋扈している時代に、純文学でもなく、怪奇・推理小説でもなく、プロレタリア文学でもなく、強いていえば児童文学に近く、従来になかったジャンルを開拓している。地方新聞だったこともあり限られた読者層しか流布していなかった。そこへ、戦後になり再評価のスポットを全国的に当てたのが鶴見俊輔だった。たしかに、今日読んでも通用する痛快活劇を読むような清涼感と底辺の庶民目線とが後押した小説だった。それは、『竹取物語』のような現世の人間や政治家を揶揄した展開もあり、軍事体制を強化していた国家権力からの圧力がなかったのが意外だった。

   

 本書の時代内容は日清・日露戦争あたりの明治末期、戦争を支えるエネルギーとして九州筑豊の炭鉱が後半の舞台となった。そこに、藩閥政府と利権にからむ政商・やくざに対して、不平士族や壮士を中心とする政治結社「玄洋社」とが対立・暴動に発展していく。政商とは「三角(ミスミ)」「岩垣」という名前を使っているが、これはかの有名な大企業であるのがわかる。また、実名の結社「玄洋社」の楢山到は「頭山満」であるのもわかる。著者が子どものときから可愛がってもらっていた頭山満のおおらかな風格が克明に描かれている。

   

 玄洋社というと、右翼のテロリスト集団のような面もあるが、アジアを外国の植民地支配から解放するという観点からインドのボースや中国の孫文ら革命家を匿ったり支援をしていた。頭山満や著者の父である杉山茂丸の人格の大きさがその運動を支えていたことが伝わってくる。

   

 なお、異端文学に詳しい松田修は、「チイ=犬神博士とは、神そのものであった」とし、日本の神々の特性は少年、両性具有、流浪であったという。そして、「その伝統が、基層的部分である底辺の芸能者によって継承され」、夢野は本書主人公の女装の少年(犬神博士)に憑依させたのではないかと分析したようである。

   

  加えて、著者の代表作『ドグマ・マグラ』を読む前にほかの短編を読んでおくといいよ、というブラボーさんの助言に従って本書を読んだわけだが、パラパラと『ドグマ・マグラ』をめくった結果、確かにオラの脳幹には難解であり読み終わるのも時間がかかりそうなのがわかった。ブラボーさんと夢野久作とがしばしばダブってしまった。犬神博士の超能力が欲しい。

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キツネにだまされなくなったのは…

2024-02-09 22:05:39 | 読書

 最近は愛車に乗ると五代目圓楽の落語が流れるようになっている。名人の落語はやはり聴きごたえがあり、B級落語家の話は残念ながら平板で品がなく話の彫りもない。さて、落語の「王子のきつね」はいろいろな人が演じているが、ひとを化かすキツネが人間から化かされるという「逆さ落ち」の代表的な噺。

       

 絶世の美女に化けたキツネがインド・中国そして日本に流れたものの、正体を見破れられて硫黄の臭う那須に逃れて「殺生石」になったという話が残っている。芭蕉が「飛ぶものは雲ばかりなり石の上」を紹介するところは圓楽らしい。その辺から、噺が展開されていく。

           

 さて、そんな噺を聞いて間もなく、内山節『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』(講談社、2007.11)を読み終わったところだった。哲学者の内山氏はいつものように易しい言葉を重ねつつも、ずっしりした中身は変わらない。著者によれば、1965年(昭和40年)ごろを境にキツネに化かされるという話が消滅していったという。当時と言えば、東海道新幹線や東京オリンピックをやりきったことに象徴されたように、日本は高度経済成長を遂げ、世界第2位の経済大国ともなった。

   (王子キツネの行列webから)

 それまでの日本は、「我執を捨て、煩悩を捨て、知性によって物事を解釈しわかった気になる精神を捨て、自然の一員になっていく」という、つまりは自然に帰ること、自然と一体であることであった。ところが、「伝統的なヨーロッパの思想は人間が知性をもつことで文明が開けたと考える」。その影響が本格的に日本に浸透していくのが1965年以降というわけだ。

 さらには、勝ち組の権力者の「中央の歴史」や「国民の歴史」は、過去より現在のほうがマシだという擬制を無意識のうちに醸成させていくものだ。しかし、「自然環境という視点からみれば、歴史は<後退の歴史>であった」にもかかわらず、だ。ある国の発展は同時にある国の後退・崩壊をもたらしていくのが現実だ。

          (大日本図書から)

 西洋で言う「発展とか発達」とかいう直線的な言葉の魔術でわれわれをだまくらすが、日本の循環的な里山文化は、キツネにだまされてきた歴史を包含する「見えない歴史」の一つではないかと著者は提起する。

 そして、今日の豊かさのさなかにありながらも、同時に「身体の充足感・生命の充足感」に乏しいという現実にある。それは、「知性を介してしかとらえられない世界に暮らしているがゆえに、ここから見えなくなった世界にいる自分の充足感のなさ」があると指摘する。

    (三重民話webから)  

 「現代の私たちは、知性によってとらえられたものを絶対視して生きている。その結果、知性を介するととらえられなくなってしまうものを、つかむことが苦手になった」という文脈から、キツネに騙されなくなった理由を位置づける。

 キツネにだまされた物語は、自然と人間との生命の歴史の中で見いだされた共存的な暮らしが成立していた時代だ。しかしその歴史を読み取れなくなった私たちは、見えなくなった世界の迷宮に彷徨っているということになるのだろうのか。

        

 圓楽が、静岡の学校寄席でこの「王子のキツネ」をやったところ大好評だったという。人間に追われて生き物は絶滅状態にあるいま、それは現代にも通じるもので、地球上でいちばん悪いものは人間なんだと子どもたちは理解したようだったと述べている。それは童話作家・新見南吉の『ごんぎつね』の名作にも、キツネと人間との哀しみとして結実・昇華されている。

 

 

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破天荒の怪人伝

2024-01-26 22:48:02 | 読書

 夢野久作『近世怪人伝』(文春学芸ライブラリー、2015.6)を読み終える。冒頭に紹介された「頭山満」は、日本の対外膨張政策を推進する右翼的な黒幕でありながら、中国革命の父・孫文、朝鮮独立の闘士・金玉均、インド独立の革命家・ボースなどの指導者を匿ったり支援した「玄洋社」の頭領である。その後は自由民権運動へと流れていく。

            (画像は国立国会図書館webから)

  子どものころから頭山満に可愛いがられていた著者は、頭山満の客観的な忠君愛国的活動というよりその好々爺ぶりや超然とした風格を講談調に紹介してくれる。著者の父・茂丸が亡くなったとき顔をくちゃくちゃにして泣いてお別れする頭山氏を忘れない。肩書・名誉・金銭に拘泥しない巨頭の赤裸々な人間的自然をユーモアを持って逸話の数々を語る。

 著者が「明治・大正・昭和の歴史に出てくる暗殺犯人が大抵、福岡県人である」と明言する背景は、ある面では「天下を憂い国を想う志士の気骨」を持っていると、北九州の青年を讃える。

           (画像は、板澤書房古書店webから)

  著者の父である杉山茂丸も頭山満氏とともに「玄洋社」を支える領袖でもあった。茂丸も頭山満と人間的にも思想的にも似たような生き方だった。が、著者は父・茂丸との接点はあまりないくらい、茂丸は自宅にいなかった。そのぶん、政財界に神出鬼没に暗躍する無冠のフィクサーだった。それもどちらかというと、組織的に動くよりひとりで大きなことをやらかす魅力をたたえていた。だから、彼の周りにはそのカリスマぶりを慕う人脈がそれとなく形成される。また、政財界や皇室にも未だ心身の影響を与えている中村天風も軍事スパイとして玄洋社から大陸へ渡っていた。

 茂丸→著者・久作→龍丸へと続く杉山三代の縦横な活躍は目を見張るものがある。その背景は黒田藩の伝統があったと著者は述懐している。

 (画像は、1935年発行の雑誌『新青年』口絵から)

 三人目はあまり知られていない奈良原到だ。「殺気を横たえた太い眉、青い地獄色の皮膚、精悍そのもののような巨躯」と表現された彼は、「凄愴の気迫さながらの志士」であると著者はその怪人ぶりを紹介している。当時の編集者は、「現代のハイカラな諸君に、このおじいさんを紹介して、諸君の神経衰弱を一挙に吹き飛ばしてみたくなった」と言うが、まさにドッキリ、痛快怒涛編となっている。

        

 四人目は魚市場の元気過ぎるドンだ。著者はこの篠崎仁三郎に倍以上のページを割いている。「処世の参考になんか絶対になりっこない奇人・怪人」のトリがまさに無名の魚屋だった。著者が一番筆が走った怪人だったのではないかと思えるほど捧腹絶倒のエピソードがつづく

  本書を読んでから、戦後日本の右翼や政治家がいかに狭小なものかを痛感する。不平士族の坩堝だった玄洋社の懐の広さに、直線的・人情的な心情に考えさせられる。最近の近視眼的な日本のつまらない事件にうんざりするが、この怪人たちのスケールの大きさ・奔放さに刮目する。それに、これが書かれたのが日本の満州国傀儡化が始まった軍靴轟く1935年(昭和10年)だった。

 

 

 

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インドの砂漠に緑を実現した日本人

2024-01-12 20:15:27 | 読書

 新型コロナで体力を消耗していた市井のダビンチさんから本が送られてきた。杉山満丸『グリーン・ファーザー/インドの砂漠を緑に変えた日本人・杉山龍丸の軌跡』(ひくまの出版、2001.12)だった。

 曾祖父は、玄洋社で右翼の大物・頭山満とともに活躍していた政財界のフィクサー・杉山茂丸祖父は広大な杉山農園をにない、夢野久作というペンネームで注目を浴びた作家でもある杉山泰道は、ガンジーの弟子と交流があり当時のネール首相からの要請もあり、インドの砂漠を緑化する活動を貫徹した杉山龍丸。その息子で高校教師をしている著者の杉山満丸

  

 なにやら戦前から現在まで明治・大正・昭和の波乱万丈を生き抜いてきた杉山一族である。本書は、息子・満丸が中学生でも読めるよう杉山家三代の、なかでもあまり知られていなかった杉山龍丸の前人未到の活動を中心にわかりやすく編集されたドキュメンタリーだった。

           

 曾祖父の茂丸の多彩な事業と交友関係も十分興味をそそられる。なにしろ、伊藤博文の暗殺をねらっていたほどの直情家でもあった。自らは官職も議席も持たない無冠の在野人であったが、山縣有朋松方正義井上馨桂太郎後藤新平の参謀役も務め、今日の日本興業銀行の設立にも寄与した。しかも、中国侵略に批判的な少数派であったことも注目に値する。

 祖父の夢野久作の奇想天外な小説は評論家の鶴見俊輔が紹介して以来たちまち脚光を浴びた。オラも名前だけは知っていたがこれからぜひ読んでみたいと、さっそく注文する。

   

 そこへ、父の龍丸のインドの砂漠緑化という壮大な計画が実行されていく。メイン道路の両側にはユーカリの木が育ち、その背後には砂漠が畑に進化していく。そのことで、3万本の木を植えた男としてインドから「グリーン・ファーザー」と尊敬されていく。それは、アフガンの中村哲さんのような姿が想起される。しかし当時それはあまり知られていなかったし、恥ずかしながらオラも初めて知った次第であった。

        

 息子の満丸はその父の足跡を訪ねていく。そこにはユーカリの大木と農地が広がっているのを確認する。戦争で重傷を抱えながら父は命がけで大志を実現する情熱は曾祖父以来の血が流れていることは間違いない。この三人の生きざまは、大河ドラマになっても遜色ないドラマにあふれている。いっぽう、戦国乱世を放映すれば視聴率を獲れるというマスメディアのおもねりにいつも怒りがわいてくる。

        

 そういえば、オラの長髪が邪魔だったころ、中国の砂漠を緑化する日本のNGOの活動があり資料を取り寄せて参加できるかを検討したことがあった。経済的に難しいと当時は見送ってしまったが、今思えば無理してでも参加すべきだったと思う。そのときは、インドでの砂漠緑化の活動はまったく知らなかった。その意味では、龍丸の腹を据えた活動の激しさを想う。

       

 満丸はエピローグで語る。「父龍丸が育てたのは、緑だけではなかった。緑という命の尊さ、その心をともに抱き合うことのすばらしさを、人々の中に育てていったのだ」と、その艱難辛苦だった軌跡をまだぼうぼうと広がる砂漠の果てを見つめながらまとめた。

 

 

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一度きりの人生、眺めのいい人になろう!!

2023-12-30 20:58:06 | 読書

  無頼派作家の二日酔いをきりりと覚醒させた人物群がいた。指針が見えなく煩悶していた著者にその手を差し伸べてくれた綺羅星のごとき人たちを紹介したのが、伊集院静『眺めのいいひと』(文春文庫、2013.5)だった。その最初に登場したのが、著者の師である色川武大ことギャンブルの神様・阿佐田哲也だ。

          

 人間はそれぞれ何かを背負わされて生きていて、そこから逃れることができない。とりわけ戦争は人間を狂気や殺戮へと誘ってしまう。そんな背景を抱えながら阿佐田は、己のどうしょうもない生に狼狽え、傷付き、戸惑い、亀裂的な哀愁をかかえる。だからこそそこに『麻雀放浪記』を書きあげ誕生させる。伊集院は「哀愁と悲哀を見た人は限りなくやさしい生をまっとうしようとする」姿を、そこから発見し共感する。

     

 さらに、大阪読売新聞で活躍した一匹狼の黒田清を紹介する。「この人の眼は、私の社会の窓でもある」として、命がけの記者魂を発揮している黒田の生き方から「あの眼が光った時、そこには社会の悪がある。あの眼が笑っている間は大丈夫だ」と讃える。

            

 というように、多彩な人物が登場する。麻雀仲間の井上陽水・作詞家仲間の山口洋子や阿木燿子・競馬の野平祐二騎手・礼儀正しい松井秀喜選手・写真家の豪快な加納典明・漫画家のジョージ秋山やちばてつや・含羞の作家矢吹申彦・落語家の立川談志等々が次々紹介され、著者の幅広い交遊録となっている。

  

 しかし、銀座やゴルフやギャンブルや芸能界というオラにはとても届かない世界での交遊が中心なのがきわめて不満だ。とはいえ、そうした出会いから相手のきらめきを発見している著者の眼力は的を外していない。

 1999年から2000年かけて「週刊アサヒ芸能」に連載されたものを文庫本にしたものなので、読者の嗜好も考慮して書かれたものであるのがわかる。流行作家になってしまった粗さは否めないものの、その出会いから相手の持つマグマを受けとろうとする伊集院の感受性の奥行が伝わってくる。

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追いかけるから苦しくなる

2023-12-20 18:25:14 | 読書

 「週刊現代」の2014年から翌年まで連載していたエッセイを単行本にした、伊集院静『追いかけるな』(講談社、2015.11)を一気に読む。週刊誌に掲載されたエッセイは深みのあるものから雑にしてしまったものまで、作品に当たり外れがあるのは流行作家らしいと言えばそれまでだ。

   

 銀座・ゴルフ・ギャンブルの話題が多いのが伊集院ドンの幅の広さであり、現世的でもあるが、小説家の複雑な引き出しの出し入れの苦闘が伝わってくる。小説家でなければ、実業家か博徒かになっていたかもしれない。テレビのインタビューから見える伊集院ドンの表情からは、ピリピリした感性の揺らぎが発散されているのがよくわかる。顔全体が受容体のようなアンテナと言ってよい。

        

 その感受性の鋭さは、絶望や差別などの極限を知ってしまったことからくるのではないかと思われた。「追いかけるから、苦しくなる。追いかけるから、負ける。追いかけるから、捨てられる」という著者の言葉には、人間の強欲の酷さと運命とを哲学者の如く吟遊詩人の如くに紡ぎ出される。

       

 著者の体験からそれは、「望み、願いと言った類いのものを、必要以上にこだわったり、必要以上に追いかけたりすると、それが逆に、当人の不満、不幸を招」いてしまい、「追いかける余り、他に目をむけられる余裕、やわらかなこころを持てないことが原因である」と看破している。

        

 そうして、「私たちの日々は上手くいかない方が多い」ことを自覚し、 「生きることに哀しみがともなわない人生はどこにもない」ものの、「今は切なくても、哀しみには必ず終わりがやって来る」と珠玉の言葉を連ねる。著書の前半はこうした伊集院ボスのキレが目立つが、後半はそれがやや疲れてきた感じは否めない。

       

 それでも、恋愛に悩む人に対し、「淋しかったり、孤独だったりする時間をしっかり持てた人は、来るべき相手にめぐり逢った時、その人の良さや、やさしさが以前より、よく理解できるようになる」と相談相手となる。これは同時に恋愛だけの問題ではなく、人との関係性にも言えることが暗示される。

   

 現在日本では、政治資金パーティーの裏金問題やビッグモーターやダイハツなど企業の不正が取りざたされているが、これもまさに目先の欲に走ってしまう傲慢地獄である。日本を土建屋にしてしまった田中金脈の伝統はいまだに健在だ。東京オリンピックや大阪万博に群がった利権の輩の実態は特殊なことではなく、いつもの日常の風景なのだ。

 それにいつも胡麻化されているのが大衆だ。それは孤独としっかりつきあうことができなくて、まわりに同調してつるんでしまう。だから政権はおいしく温存されたまま、したがって見えにくい強欲だけがまかり通る。

   

 日本の経営者・政治家の哲学や国家の大計の貧困が露わな昨今だ。目先の利益に「追いかける」からいずれ失敗する。その失敗に気づくのはいつになるのだろうか。太平洋戦争の「失敗」はいまだ検証されていないままだから、80年近くなってもそれを振り返ることすらできなくなった。だから、若者はバーチャルの世界にしか希望が持てない。スマホやアニメやゲームなどにうつつをぬかすしかない。バーチャルな世界を追いかけても結果は一時の酩酊にすぎない。「どうする」日本人!!!

   

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歴史の傍流だった庶民の発見!!

2023-12-15 21:34:53 | 読書

  民俗学の二人のパイオニアといえば、宮本常一・柳田国男があげられる。この二人を比較しながら宮本常一の先駆的で謙虚な人物像をシャープにあぶり出したのが、畑中章宏『今を生きる思想/宮本常一/歴史は庶民がつくる』(講談社現代新書、2023.5)の本だった。

                                             

  柳田国男は民俗伝承・信仰を探求して日本の「心」を解明していった。宮本常一はフィールドワークを重視してそこに伝わる生産用具などの「もの」を手がかりに歴史の主体としての庶民像を探っていった。宮本は、農村・漁村・山里に生きる民衆の生産現場に行くことによって、従来の傍観的・客観的なデータや「民俗誌」ではなく、より民衆の生活点にねざした「生活誌」の視点が必要ではないかと提起していく。

       

 彼の代表作の『忘れられた日本人』では、盲目の乞食から聞いた民話などを聞き取りしていくが、そうした人々の側に立って現在をあぶり出していく手法は従来にない視点だと畑中氏は評価する。したがって、現実のまち・むらづくりの方向性まで踏まえた聞き取りでもあった。佐渡の博物館設立、「鬼太鼓座」の設立、山古志村の錦鯉養殖、山口の猿回し復活などの支援にもかかわり、離島振興法の成立にも寄与してきた。

         

 また、宮本は、戦後すぐに席捲していた搾取させられた民衆と支配者という構図・見方は一方的だとして、それではほんとうの民衆の姿はとらえられないとする。そのなかにはむしろ、「相互扶助による共同体と個人の持続的な営み」によって、互いにいたわりあい自分たちの世界を形づくってきたのではないかと提起し、「そういう民衆の生活はそのなかに入ってみなければわからない」とする。

          

 そうした考え方の発想は、大杉栄が訳したクロポトキンの『相互扶助論』の影響があったという。その書のユートピア的な限界を踏まえながら、現状批判だけでなく生きる勇気を萌芽させるような発見が大切であることを学んだのではないかと著者は評価する。表紙の宮本常一の貌からもそんな息吹が感じられる。

  

  宮本を支援してきた人物として、渋沢栄一の子・篤二の長男である渋沢敬三がいる。戦前は日銀や大蔵大臣などを歴任していたが、戦後は疲弊した経済の立て直しで活躍した財界人であり、KDDIの初代社長でもある。渋沢敬三は栄一の社会貢献を受け継いだのか、戦時下に「日本常民文化研究所」を創立して民俗学の発展に寄与していき、そこで働く宮本の調査研究の力量を高く評価していた。

         

 そこで、渋沢が言った言葉を宮本は忘れなかったという。その内容は、「大事なことは主流にならぬこと、傍流でよく状況を見ていくこと」ということだった。主流に位置していると見落とすこともあり、その欠落を受け取ることで新たな世界が見えてくるというわけだ。これには説得力ある。

       

 そこからか、宮本は「民具学」を提唱していく。つまり、その民具の即物的な説明だけでなく、そこから見えてくる民衆の生活周辺をくみ取るということでもある。その例として、狭山茶が発展していくルーツとして江戸にたまった空の茶壷をあげている。一つの民具に対してそこに庶民の精神的・生活的・技術的背景や思い入れを探求している。

        

 そうした庶民への「まなざし」は、映画監督の木下恵介に通じるぬくもりを感じる。宮本常一の著作については断片的なものしか読んだことがない。したがって、この畑中章宏氏の入門書から読んだというわけだ。本書の後半に、宮本が上梓した著作の紹介をコメントしているのもきめ細かだ。宮本氏も畑中氏もわれわれ庶民にわかりやすく伝えようとしている心配りがありがたい。

 

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「ハガネのように花のように」流儀を貫く

2023-12-08 21:13:10 | 読書

 NHKが2006年1月から放映した「仕事の流儀」シリーズは、各界のプロフェッショナルが仕事に対する挑戦と生き方の姿を報じた見ごたえある番組だった。そんな影響だろうか、2011年以降伊集院静が刊行した『大人の流儀』シリーズも累計140万部の大ベストセラーとなった。そんななか、注目していた『伊集院静の流儀』(文春文庫、2013.3)を読む。

   

 内容は、「日本人・家族・悩み・人生・恋愛・作家・青年の流儀」から構成されている。そこに、短編の物語に略年譜にと、著者の『大人の流儀』シリーズのダイジェストのようなものとなっている。「青年の流儀」は、2010年以降サントリーの新聞広告に毎年のように掲載され、新入社員や青年向けに贈ってきたメッセージをまとめたもの。また、ダンディーな著者の写真もふんだんに散りばめているのも見どころだ。

        

 また、「日本人の流儀」のタイトルは、象徴的な「いつかその日はおとずれる」だった。東北大震災により仙台に居住していた著者の家は崩落の危険を体験した。その後累々たる震災死体や原発の被災も知ることとなる。「それでも、生き続けるということが私たちの使命であり、哀しみをかかえることは仕方ないにしても、哀しみにあまんじてはいけない」と断じる。そして、「哀しみにはいつか終わりがやってくる」という名言を宣告する。絶望的な経験を持つ彼が語ると説得力がある。

   

 「青年の流儀」では、働く意味や生きる意味を青年自身が考えることを呼びかける。「日本の大人たちがなすすべての醜さはそれ(人間は誰かの、何かのために懸命に、生き抜くこと)ができないから」と断罪し、その生は、いかにも哀しみにあふれているが、それを平然と受けとめられる心身を鍛えていくことを青年たちに提言する。 

   

 その提言等は読みようによってはやや安っぽくも思える面もあるが、それは流行作家の限界ともとれる。とはいえ、著者の言わんとする本旨は的を外していない。そこを受けとめる感性が求められるのかもしれない。それは青年向けというより大人たちにも向けられた告発でもある。

   

 生きることとは、喜びも哀しみも呉越同舟する中にあることをつきあうことだと思う。その中から、少しでも希望を手繰り寄せるかどうかが肝心だ。それも、大きな希望もあるし、ささいな希望もある。少なくとも、空を見て庭を見て畑を見て、そこから何かを発見する好奇心が必要だ。

 そうして、そこに人間が登場して、そこに小さな潤いを感じられればさいわいだ。そんなさりげない暮らしを良しとする人生に乾杯する、それが今のオラの心境にあっている。

   

 NHKはプロフェッショナルをとおして生きる流儀を世に投げかける。伊集院静は市井の大人へ向けてダイレクトに大人の流儀のありかたを投げかける。前者が直球勝負とすれば、後者は変化球を得意とする。

 総じて、戦争が頻発拡大しジェノサイドが横行してやまない現世の世界、幼児化した犯罪に金権に汚毒された政治経済が支配した日本、人類が気候変動をさせてしまった地球のきしみ等々、ひとりの力は無力な現状のなか、まさに大人の流儀のあり方が問われているのは間違いない。さて、……。さて。

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