1828年(文政11年)、幕末に近い文化・文政時代に発行された役者絵、五代目松本幸四郎の錦絵を見る。四谷怪談で有名な鶴屋南北が実際の事件をヒントに書き下ろした「絵本合法衢(ガッポウガツジ)」の歌舞伎公演からの一場面だ。鶴屋南北は、従来の町人生活を描いた「世話物」や有名な歴史劇の時代物」に飽き足りず、最底辺に生きる都市のリアルな人間・世相を暴いた「生(キ)世話物」やおどろおどろしい「怪談物」のジャンルを開拓した。
さらには、早替わり・宙づり・戸板返しなど奇抜な演出「ケレン(外連)の活用」で注目を浴び、また悪事を冷血に行い相手を残忍に殺してしまう美しい二枚目を登場させてしまう、当時の歌舞伎界の革命児である。
それを体現したのが五代目松本幸四郎であり、五代目岩井半四郎らの錚々たる名優たちだった。この絵は特大の鼻を持つ幸四郎の特徴を絵師の「国貞」(三代目歌川豊国)の技量がよく表現されている。この役者絵は、「たて場の太平次」という街道筋の人足の姿でどうやら人を殺めようとしたときの場面のようだ。背景の黒い渦はこれから起きる危うい空気か、または次の画像にある火との関係があるのだろうか、観劇していないのでわからない。
どちらの絵にも松の枝の残骸があるが、劇の内容を知らないとその意味が分からない。かように、役者絵は読み解きがあるパズルなのだ。上の画像の「孫七」(坂東三津五郎)も妻ともども返り討ちに合って殺されてしまう。『合法衢(ガッポウガツジ)』の「合法」とは最後に幸四郎らへの仇討ちに成功した側の人名で、「衢」とは辻・分かれ道であるのがわかった。登場人物も多く、ひとり二役であることもあり、見る側もかなり集中しないとわかりにくいのではないかと思われた。
松本幸四郎・太平次の着物は縞模様のシンプルな柄だ。これには幕府の奢侈禁止令の影響があったのかもしれないが、上等な衣服・デザインであることがわかる。西洋での縞模様は異端者が着るもので不吉な対象だったというが、日本では縞模様に工夫が練られ、体のラインをスレンダーに見せる「江戸の粋」を発揮する柄でもあった。その縞柄衣服の上側には、縦横線が交差する「弁慶格子」模様がさらりと描かれている。歌舞伎にはしばしばこの柄の衣服が止揚されている。シンプルだが強烈な柄として愛用されている。
幕末を控えた当時の閉塞の時代は今日の日本や世界の混沌とした世相と似ている。そんな中だからこそ、リアリストの鶴屋南北や歌舞伎の極道路線の先陣性が庶民の不安感を巻きこんだ。
画家の国貞は、「五渡亭(ゴトテイ)」を名乗っているが、かつて江東区亀戸の「五の橋」際に住んでいて、その渡し船の株をもっていたので、川柳の太田南畝(ナンポ)から贈られた画号だという。国貞が生まれた亀戸駅近くに「三代豊国五渡亭園」という庭園が現在観光スポットになっている。国貞(三代目豊国)は、当時の写楽や北斎より人気のある画家で、作品数も1万点を越える巨匠でもあった。
冒頭の役者絵も該当する絵が結局探索できなくてずいぶん苦労した。さらにその版元の「山に大」マークも見つからなかった。これらのことから、世界から注目されている浮世絵が日本での研究がかなり遅れていることをまたもや痛感する。