かつて年末となると、どこかの番組で忠臣蔵のドラマがあったが、最近はさすがに往時のように観られなくなってきている。江戸時代ではそれほどに忠臣蔵は庶民の心をとらえていたということでもある。それを広めたのは言うまでもなく歌舞伎の存在だ。この画像は、妻のお石(内蔵助の妻がモデル)が主君の刃傷を止めた本蔵(梶川与惣兵衛がモデル)の首を狙う場面である。役者絵の作者は歌川国貞(三代豊国)、安政2年(1855年)の作品。
同じ場面を幕末から明治にかけて活躍した「歌川芳虎(ヨシトラ)」も描いている。大衆からのパッシングを受けていた本蔵(梶川)は、お石の槍をかわしたが、由良助の息子(大石主税がモデル)の槍をあえて受け止めて絶命するという筋となっている。
ついでながら、「仮名手本忠臣蔵」とは、「いろは四十七文字」と「赤穂浪士四十七人」とを掛け合わせた江戸庶民の「オチ」が効いている。 しかも、「手本」の次に「忠臣」を並べて「忠臣の手本」という「オチ」も効かしている。そのうえさらに、「いろはにほへと」の7文字を縦に並べていくと、その最後の言葉だけを並べると「とかなくてしす」、つまり「咎なくて死す」となり、罪はないのに罰せられ殺されたという意味となる。赤穂事件に対する江戸庶民の心意気がこんなところにも現れている。
豊国の役者絵では、本蔵が11代目森田勘彌、お石が2代目尾上菊次郎。森田座の積年の経営不振は、「森の下に田」の名前が陽当たりが悪くて実入りが悪いとして、「田を守る」名前に変更、それで「森田勘彌」の名跡を「守田勘彌」と改められた。(1850年森田勘弥を襲名,56年森田座を再興,58年森田を守田に。) また、二代目 尾上菊次郎は、幕末から明治初期にかけて活躍。容貌はひょっとこ面の愛嬌があり音曲を得意とした芸達者だった。
役者絵と言えば三代目豊国が何といっても代表格。その隣に、「彫竹」とある。これも超絶技巧の彫師プロ集団である。現代ではそれを復元するのは極めて難しいともいう。この二人のコラボが江戸どころか世界をも激動させた。またその隣に「下谷魚栄」と版元が刻印されている。魚栄とは、上野広小路で開業していた版元の魚屋 栄吉(ウオヤ、トトヤ)。今年の大河ドラマの主人公・蔦屋重三郎と並ぶ版元でもある。豊国の上に改印と年月印(卯+八)が並んでいる。この時代には検閲の名主印がなくなり(1853-1857)、安政2年(1855年)・卯年の8月の発行であるのがわかる。
幕府の検閲を潜り抜け江戸のエンターテイメントを貫く豊国や版元の心意気が垣間見える。