山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

ムカデ発生注意報発令

2024-05-06 22:58:03 | できごと・事件

 ゴールデンウィークが終わるというのに、この期間中もやはり毎日のように草取りに追われる。外に出るということは畑界隈の外作業をするということを意味する。そのうえ、早朝から聞こえてくる音は新茶を刈る機械音がこだましてくる。その音が止まると、軽トラのエンジンが走り出す。つまり、刈り取った茶葉を茶工場に急いで持ち込むからだ。新鮮な茶葉が勝負なのだ。人間の姿は見えないが、過疎地に生きるひたむきな息遣いが伝わる。

 わが家もいそいそと雑草を刈り取った後に畝立てをし、昨日はカボチャのポット苗を畝に移植し、きょうは少量の枝豆と落花生の種を撒き終えたばかりだ。中山間地は浮世の混雑とは違う世界に住んでいることを実感する。

 そんなとき、ガードレールに一休みする「ホオジロ」を見つけてホッとする。また、留鳥となった侵入外来生物に指定されている「ガビチョウ」の美しい口笛がいつもの風景に刺激を与える。

 

 連休前に、和宮様が風呂場で「ムカデ」を見つけたという。といってもきっと、好きな風呂場に転落して出られなくなって溺死するといういつものパターンに違いない。それにしても、見事な大きさだ。昨日は、掘り炬燵でパソコンの深夜ニュースを見ていたら、かたわらでのそのそと動くものがいた。それは先日のムカデより太くて大きいものだった。

 たまたまポットがそばにあったので、ムカデを熱湯地獄へと招待した。すると、関節がパキパキ縮まっていき三分の一くらいとなった。熱湯処理が一番効果があるからだ。いつもだと、ムカデ用のトングを用意してあってそれを使うのだけど。

  

 そしてきょう、台所の隅で同じような立派な大きさのムカデ第3号が出現した。残念ながらそれは捕り逃がしたが、どうも今年はムカデの当たり年になりそうな予感がする。それを受けて当局はさっそく、「ムカデ発生注意報」を発令し、注意喚起を促した。

 

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男たちの絆と挫折と再生と

2024-05-03 22:06:33 | 読書

 浮世はゴールデンウィークのさなかだが、きょうもわが家は相変わらず草取りに追われている。そんな浮世に抗して、晴耕雨読ならぬ「静耕有読」の時間をなんとか確保したいと思う。そのわずかな時間から、伊集院静『愚者よ、お前がいなくなって淋しくてたまらない』(集英社、2014.4)を読む。著者の愛妻を病魔で亡くして以来、酒とギャンブルと絶望に明け暮れていたころを回想した自伝的な物語だ。

  

 以前、著者の『いねむり先生』を読んでえらく感動したものだった。本著書はその姉妹編ともいうべき作品で、内容が重複するような場面もあり、流行作家らしい瀬戸際の自分の限界との葛藤も伝わってくる。『いねむり先生』は、難病のさなかでも自分を失わず爛漫な弱さとギャンブルを武器に作家生活を貫いている「色川武大」(阿佐田哲也)への挽歌と連帯の作品だった。先生に対する愛おしい尊敬と暖かいまなざしは、今回の著書にも同じように溢れている。

 

 そこには、著者を慕う不器用な三人の男たちが登場する。彼らは編集者・芸能プロ・競輪記者と職種はいろいろだがそれぞれ個性的だが、生きる傷を背負いながら生きている。そんな市井の男たちとの交遊のなかににじみ出てくる、彼らと著者との傷の共有物語でもある。結果的には男たちの追い詰められた死が残された。したがって、本書は彼らとその周りへの挽歌・献杯でもある。「愚か者よ、お前がいなくなって淋しくてたまらない」とつぶやきながら、渾身の筆を握る著者の哀切が流れてくる。

 

 この三人を念頭に著者は言う。「まっとうに生きようとすればするほど、社会の枠から外される人々がいる。なぜかわからないが、私は幼い頃からそういう人たちにおそれを抱きながらも目を離すことができなかった。その人たちに執着する自分に気付いた時、私は彼等が好きなのだとわかった。いや好きという表現では足らない。いとおしい、とずっとこころの底で思っているのだ。

 社会から疎外された時に彼等が一瞬見せる、社会が世間が何なのだと全世界を一人で受けて立つような強靭さと、その後にやってくる沈黙に似た哀切に、私はまっとうな人間の姿を見てしまう。」

  

 伊集院静の魅力は、そういう傷を持つ相手の心の襞を掬い取るような感性にあるとかねがね思っていた。全盲の『機関車先生』もそういう視点やまなざしが馥郁としていた。しかも、最後の無頼派作家としてもギャンブルに数十億を使ったともいうし、喧嘩もめっぽう強かったし野球もかなりうまかった。だから、女性のファンも少なくない。いわば、江戸の助六のような伊達男たっぷりの魅力が漂う。

 著者の、「生きるとは、自分のためだけに生きないことだ」「抵抗せよ。すぐに役に立つ人になるな。熱いひとになれー。」「大人にとって生きるとは何か、誰かのために何ができるか、考えること」との珠玉の言葉を残しているところも、流行作家として流されない生きる肝・哲学が基盤にある。

 

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クリノキを大移動したよ

2024-05-01 20:03:39 | バタフライガーデン

 「今やるしかチャンスはない」と思って、クリノキの移動を始める。というのは、このまま放置しておけば、枝が電線に引っかかるし、図体が大きくなれば後ろの植物が日陰になり育たなくなるのは時間の問題だ。前日には、大きく左右に伸び切った枝を剪定し、予定の定住場所の穴掘りをやっておく。それだけで、一日かかってしまった。

  

 根っこを鋸で切っていくのがやはり時間がかかった。そのため、根っこについていた土がほとんど離脱してしまった。このへんが素人のやってしまうヘマでもあるが、本音としては全体の重量を減らす意味もある。オラの体力では土がついていると一人での運搬はかなりきついと予想された。なにしろ、根元の外径は30cmくらいはあったと思う。

 

 大移動といっても10mもないので、上の段から一番下の段へとなんとか転がしながら定植成功。ここなら安心して栗拾いもできる。このクリはどうやら動物がまいたらしい実生の栗だった。となると、来年には早くても実ができるかもしれないが、移動のダメージがあるので期待値はゼロにしておこう。

 

 栗が植わっていた場所はぽっかり穴が開いていたので、土を入れたりしたうえで、ツツジを飢えることにした。挿し木で育てた7~8本のツツジとボタンクサギ1本をその跡地に植える。

 

 さらにその続きに、やはり挿し木で育てたボケを5本植える。うまくいけば、ツツジとボケのハーモニーが来年の春には見られるはずだ。といっても、いつものように妄想は拡大するが現実の壁にいつも打破されてしまうのがオチだ。まずは、大物の栗を移動できたことにホッとする。あとは枯れないよう特に灼熱の夏は水やりを忘れないことだ。 

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