ステージおきたま

無農薬百姓33年
舞台作り続けて22年
がむしゃら走り6年
コントとランとご飯パンにうつつを抜かす老いの輝き

公演終わって考えた!その1

2016-08-01 09:55:58 | シニア演劇

 やれやれ終わった。前日の仕込みが押しに押して、ゲネは中抜きの途中まで、本番の午前中にその続きをするという緊急事態、と言っても僕にはよくある話しなんだけど。演じるシニアたち不安に押しつぶされそうだった。そりゃそうだろうね。なんせ、一つながりでゲネできてないわけだから。それに、前日ゲネでは、集団演技がハチャメチャ!セリフは飛ぶ、動きは忘れる、出は間違える、ええーっ、あんなに稽古してきたのに!と驚き呆れるばかり。

 でも、終わってみれば、まずは成功!出演者も納得、お客も満足の菜の花シニア、またたま実績を積み上げた。まっ、そうなるってわかっちゃいたんだ。本番は火事場の底力てやつがあるからね、そこそこ稽古を積み上げていれば、80%は成果を出し切れるものなんだ。だから海千山千の僕としちゃ前日だってぐっすり安眠、失敗に対する不安なんてさらさらなかった。

 それにしても、集団演技があそこまで混乱するてのは、はっきり言って想定外だった。若いやつらじゃ考えられないことだ。経験浅いってことも大きいけど、なんかシニア特有の性癖にも関係していそうな気がするな。

 理解の仕方が箇条書きなんだなぁ。1から順に整然と進まないとパニックを起こしてしまう。大まかに全体像を捕まえる、って認識はとっても不安なんだと思う。一つセリフが出てこないと次に行けない。よく言えば几帳面、悪く言えば馬鹿正直の硬直化、年齢とともに思考回路が単線的に簡略化してしまっているのかも知れない。動きながらのセリフてのも、シニアにとっちゃ難敵で、これも脳の運動をつかさどる領域と言語域とが別にあって、その間の連絡網が希薄になってきているってことなんだろう。

 責任感が強いってこともあるかな。他者に迷惑かけちゃいけない!って意識がとても強い。これはきっと長い人生経験から染みついたものだろうが、これが往々にして全体像を見失わせる。自分のセリフだけは、それだけはきちんと言わなくちゃ!と思いが突出している。もう強迫観念に近いかもしれない。流れやシーンの雰囲気を直観的にとらえるってことができにくい。

 自分のやり方への固執、これもなかなかのもんで、若いスタッフを大いに悩ませ嘆かせた。婆さんの頑固一徹ってやつだ。衣装の着替えを楽屋でするか、舞台袖でするか、廊下でするか、一時はかなり険悪な対立になりかかった。出に間に合わなけりゃどうしようもなく、これは、経験豊富な若手の主張が通って廊下着替えで決着。小道具のコップの使いまわし、シニアには嫌悪感があって、シーンごと別に出して欲しいとの強い要求、これは若い連中の感覚で信じられなぁぁい!だった。これは頑固とかの問題じゃなく、文化的年代ギャップだな。今の若い連中は飲み物なんか平気で回し飲みする、あれは、我々の年代の人間には生理的に受け付けないからね。で、ここは間に入って、別コップを準備するよう指示したけどね。 

 とは言っても、やる気満々で集まってきているシニアたち、衰える記憶力にも動かない体にも打ち勝って、本番はなんとかそれらしい雰囲気を醸し出してやり遂げてくれた。

 と、シニアを一括りしてきたが、当然ながら人によって大いに違いがある。記憶力にしても、理解力にしても、演技力にしても人それぞれだ。年齢の違いより、人の違い、わずか数行のセリフで苦労する人もいれば、主役のヒロコさんのように全編ほぼ出づっぱりでも、軽々と?て言ったら激怒するだろうが、やり遂げる人もいる。歌もダンスも抜群、器量よし、なんて、天は二物も三物も与えて、なんとも不公平なもんだ。

 台本を書いている段階で、それは重々承知していたから、出の回数も役の軽重も人に応じてこまめに加減してあった。そこがこの『クロスロード』成功の大きなキーポイントだったと思う。一役の人、二役の人、三役の人、セリフの数、役の重みにもとことん配慮した。一緒にシニア演劇を始めながら、こんな風に差別的に扱われるのには不満もあることだろうが、人間だれしも同じ能力じゃない。幼稚園のお遊戯会じゃないんだか、力のある者が、中心に居座って舞台を支えるのは自然の成り行きってもんだろう。それぞれのシニアが、自分の力、持ち味を出して切って持ち場を担いきれたこと、それがこの公演の大きな成果と言っていいかと思う。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする