俳句めかした、なぁんちゃってのタイトルで始まった。まったくその通り、家族もいない、訪問客も皆無、自給に近い暮らしで買い物に出ることもない。ただ一人、淡々と時を過ごすお盆だ。父や母の出自のこともあって、ご先祖様とか代々のお墓とはとおの昔に縁が切れた。家の前をお迎えの提灯を持って歩くご近所さん家族の姿、悪くない風習だと思う。年に数度、盆正月に子どもたちが実家に集う、これも、自身経験がないものの、なぜか微笑ましく懐かしい。かと言って、羨ましいとは思わない。寂しいと落ち込むこともない。
静かに過ごす周囲の人たちの邪魔をせぬよう、音をたてずに必要最小限の農作業に精を出し、パソコンに向かい、本のページをめくる。たまに、自分を鼓舞するように走りに出る。それだけだ。とことん根無し草なんだと実感する。都会から暮らしの手応えを求めてこの地に移住して30有余年、やはり浮草は水面をただようばかりだ。
都会にも、田舎にも、こんな風に一人自足して暮らす年寄りがたくさんいるんだと思う。周囲からは同情や時に哀れみの目で見られているかもしれないが、当の老人たち、けっこう一人さばさばと過ごしているんじゃないだろうか。家族に囲まれた幸せな老後、なんてのは一つのフィクション、あっても悪くはないが、それが唯一正しいと決めつけるのは止めて欲しいもんだ。逆だ。ようやくにして家族の束縛、あるいは絆から解き放たれたライフスタイルが可能になったんだ、と、歴史の進化ととらえたい。やせ我慢じゃない。
ただ、僕の穏やかな独居生活も、三つの事実があるから保たれている。一つは健康だ。何事も自分で済ませていくには、健康は欠かせぬ条件だ。だから、走る。だから、食べ物に気を付ける。二つ目は金だ。言うまでもない。無人島や山奥の1軒家ならともかく、完全無欠の自給生活などあり得ない。多くはいらぬが幾ばくかの金は必要だ。そして、最後にもっとも大切なこと、それは社会とのつながりだ。訪問客はいなくても、僕には劇団がある。芝居がある。台本書きがある。待っててくれる人たちがいる。
と、考えると、この3条件を満たした老後の暮らしてのは、けっこうハードルが高いのかもしれない。でも、どの条件も在りようは様々だ。健康と言っても、マラソン走れるほどの元気は必要ないだろう。暮らしに欠かせぬ金の額だって人それぞれだ。福祉制度で支えてもらってもいい。社会とのつながり方もいろんな方法があるだろう。
できるだけ邪魔はされたくない。迷惑も掛けたくない。その気構えを失うことなく暮らしていけば、独居老人、悲しむに当たらずってこと、これがとりあえず今の結論だ。